純粋国家と反原発

反原発運動は山本七平風に言うと「純粋国家」を求める運動に他ならない。山本七平夏目漱石の「こころ」の読解から以下のような論旨を導き出す。

 日本人には明らかに「純粋国家」という概念がある。個人のもつ基本的な欲望、いわば飲・食・生存といった基本的欲望の充足は、本人の意志を無視する重力の如くに作用すると考えれば、それは、言うまでもなくその個人の集合体である国家にも、その国家の意志を無視する重力の如くに作用するはずである。しかし、純粋人間が、こういう重力=欲望からの無重力状態にあるならば、純粋国家という概念も、この欲望からの無重力状態にあるはずである。第二に、国際間の利害関係および国内におけるさまざまの利害関係の外で培養された「無菌国家」という概念がこれに加わる。さらにこの状態に、何らかの「道」――それが何と呼ばれてもよいし、その内容は全く不明でもよい。何か、たとえば「肇国の精神」「道義国家」「八紘一宇」「平和国家」「文化国家」といったようなもの――との緊張関係が加わるという状態、この状態が日本人の「純粋国家」という概念であって、それは常にさまざまな衣裳をまとい、よそおいを新たにして登場しても不思議ではない。もちろん、こういう純粋国家は、現実には存在しない。そしてそれが存在しえない理由を、日本人は常に、いわゆる「社会の壁」や「国際問題における社会の壁」に求め、それを排除すれば、純粋国家が出来ると思ったり、いや、地上のどこかに純粋国家は実在していると夢想したりして、さまざまな国に純粋国家という概念を投影してみたりする。そのうちに、その投影をまた自国に反射してみるようになる。
 その結果、内外の壁を打ち砕き取り除くため、大規模な軍事行動や小規模な銃撃戦をおこす。… しかし「壁」は、前述のように実は、「純粋人間」の逃げ道だから、「壁」をこわすことによって、「壁」のために「純粋」でありえなかったという「生存」のための言い訳を、次々に自らの中でふさいでいく結果になる。(山本七平山本七平の日本の歴史(上)』p103)

日本の現状における「壁」とはいうまでもなく「原発」である。そして左翼(中には右翼もいるが)が精を出している反原発運動が根底では「純粋国家」を求める運動であるとともに、いかにこれまたピュアなナショナリズムに立脚した運動でもあるかがわかる。私は原発問題が浮上した時から右翼が原発に反対しない(といっても最近はそうでもないようだが)のはおかしいと思っていたのだが、原発に猛烈に反対する既成左翼は右翼以上に右翼、ということなのであろうか。(ちなみに上に引用した山本のロジックがジジェクにおけるイデオロギー批判のロジックと大変似通っていることにお気づきの人もいるかと思う。ジジェク山本七平という一見水と油の組み合わせに内在する類似性と親和性、というテーマについては未だ調査中である。)