批評
イギリスの哲学者ニック・ランド(Nick Land)は、2012年、ネット上に「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」*1というテキストを発表し、新反動主義(Neoreaction:NRx )の主要人物の一人になった。詳しくは後述するが、この新反動主義のエッセンスがオル…
キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。彼らに共通する…
こうしたあいまいで、冗長かつ不完全な記述は、フランツ・クーン博士が『支那の慈悲深き知識の宝典』に見られると指摘している記述を思い起こさせる。はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で…
世界はリズムで満ちている。 例えば、自然には四季の周期があり天体には公転周期や自転周期がある。人体にはサーカディアン・リズムという体内周期がある。 複数のリズムが同時に存在すればポリリズムが生まれる。例えば、サーカディアン・リズムが23時間の…
「この国の隅から隅まで みんなウルサイな――」 ∴ 前期~中期の町田ひらく作品においては一対一であれ一対多であれ、そこには基調となる何らかの人間関係がありまたそこから演繹される何らかの人間ドラマがあった。しかし『たんぽぽの卵』にあっては例えば中…
ふとしたことで不可視の世界を幻視してしまうのではないか、という不安。初期の頃から町田ひらく作品を通底しているオブセッションはこのような種類の不安と関係している。例えば『蜃気楼回線』では間違い電話の留守録が主人公と不可視の世界を偶然に繋いで…
手塚治虫がアニメに導入したリミテッドアニメーションと3コマ撮りの手法によって日本独自のアニメのスタイルが確立されたというのがアニメ史における定説だが、なぜそもそも3コマ――1秒に約8枚という少ない枚数でも機能するのか、要は動いてるように見え…
白状すると僕は今の今まで高畑勲という存在にまったくと言っていいほど関心を持ってなかったし、『となりの山田くん』も『おもひでぽろぽろ』も観てない自分に、高畑勲について語る資格がそもそもあるとも思えないのだけれども、それでも何かを書かなければ…
ついこの間、近所を歩いていたら景観にふとした違和感を覚えた。そのとき私は交差点で信号待ちをしていたのだが、横断歩道の向こう側に何となく眼をやったとき、これは「何処か」が違うと直感的に思った。違和感の正体はすぐに気づいた。交差点の対角線上に…
西田幾多郎を読んでいると時々意表をつくような文章に出会えることがある。例えば次のような文章。(太字引用者) 『哲学研究』第百二十七号に掲載さられた左右田博士の論文を読み、私は近頃初めて理解あり権威ある批評を得たかに思う。今間を得て、私の考え…
1999年。この年、児童ポルノ法の制定と江藤淳の自裁という二つの出来事とともに20世紀は幕を閉じた。それは、とりもなおさず同時に批評の歴史の終わりをも意味していた、というのが私がここで提示したい仮説である。 児童ポルノ法の制定と江藤淳の自裁…
スクリーンの向こう側にあるのが大きな物語であろうとデータベースであろうとぶっちゃけ自分にはどっちでもいいし、どうでもいい。スクリーンの向こう側に物語を志向する人間もデータベースを志向する人間もスクリーン自体は見ていない。自分がアニメを見る…
東浩紀の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を久方ぶりに読んでみた。以下は躁的な状況の下で書き殴ったメモ群から抜粋した感想のようなものである。 東浩紀は、象徴界の権威が失効したポストモダンを、想像界に満たされた幼児退行的かつアナーキズム…
植草甚一の1945年5月23日の日記の引用から始めてみたい。 二十五、六日頃に空襲があるという専らの風評も馬耳東風、ところが一時半から三時半にかけて、大分やって来て、だいぶ焼夷弾を落としたが、僕は往来で約十キ撃墜キを見た、一所懸命で見た、新…
因徹は揺らめく炎を見ていた。ときたま木片が火花とともに爆ぜる音が微かに聞こえる。その音は、まるで何かに生き急いでいるようにも彼には思われた。 天保六年七月某日、赤星因徹は数日後に迫った松平家碁会に臨み某真言宗寺院堂内にて不動護摩供を修してい…
哲学の書物は、一方では、一種独特な推理小説でなければならず、他方では、サイエンス・フィクション[知の虚構]のたぐいでなければならない (「差異と反復」ドゥルーズ) コルタサルに「占拠された屋敷」と題された奇妙な短編がある。或る兄妹が見えない…
吾妻ひでおの漫画を読んでいるとわたしはどうしてもそこに色川武大の文章をクロスオーバーさせたくなる。例えば「帰り道」や「地を這う魚」(と続編の「夜の魚」)のようなシュールレアリスム文学的な傾向が強いとされる作品に、 麒麟が部屋の隅に入ってきた…