江藤淳(2)
西田幾多郎を読んでいると時々意表をつくような文章に出会えることがある。例えば次のような文章。(太字引用者)
『哲学研究』第百二十七号に掲載さられた左右田博士の論文を読み、私は近頃初めて理解あり権威ある批評を得たかに思う。今間を得て、私の考える所を述べ、更に博士の高教を乞いたいと思うのであるが、詳細に私の考を述べるのは今後の論文に譲りたい。「場所」の終において、私は多少従来と異なった考に到達し得たかと思う。無論、それは他から見て何らの価値もない私の幻覚に過ぎないかも知らぬが、私は今後姑くその立場によって、私の思想を精錬し発展して見たい。
(「左右田博士に答う」西田幾多郎)
上の文章は、左右田喜一郎の「西田哲学の方法に就て」という批判論文に対する西田からの応答論文であるが、自分の思索は単なる主観的な幻覚に過ぎないかもしれない、といういささか当惑してしまうような発言は、しかし単なる形式的な謙遜でも韜晦でもなく、西田の本心から言わせたものであったと私には思われる。この、私が受け取る直接性のみが真なるものである、という一種の信仰告白は、例えば、小林秀雄の以下の文章とも正確に対応するものである。
人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼(=ボードレール(引用者註))の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!
(「様々なる意匠」小林秀雄)
「己れの夢」という直接性を懐疑的に語ることによって、批評は初めて一つの作品として自律し得た。近代批評の始まりを謳いあげた小林の文章と、哲学の側から発せられた西田の文章を等置することによって、「主観的な直接性」という信仰が、個人の問題に収まらない、いわばひとつの時代精神による産物であったことが自ずと明らかになる。併せて、上の小林の思索態度を端的に示すエピソードを引いておきたい。
映画などを漠然と見物している時、つまらない樹の佇まいだとか、ほんの人間の表情だとかが、過去の経験と結びついて、驚く程深い感動を受ける事がある。そういう時自分が今こんな具合な気持ちで画面を眺めている事は誰も知らぬと思う。
(「批評について」小林秀雄)
何処にでもあるようなつまらない樹が、ふとした契機で驚くべきほどの豊かな直接性と現在性を湛え始める。小林秀雄は常にこのような情景を見ていた。もちろんそれは、小林だけではなく世代的に共有されている情景でもあった。
それでは、江藤淳は、小林秀雄とは世代を異にする彼は、どのような情景を見ていたのであろうか。昭和54年の9月初旬のある水曜日、なじみの理髪店で散髪をすませた江藤は、銀座東急ホテルの裏手のタワーパーキングに預けてあった車を出し帰途に着く。日は暮れかけている。奇妙に静かな夕暮れでもあった。「銀座街頭には人通りも少なくないのに、物音がほとんど聞こえないのである。」桜田門の警視庁の工事現場前を通り過ぎ、国会の下手まで来たとき、信号が赤に変わった。江藤は、サイド・ブレーキを引いた。
車の窓越しに見る西の空には、どういうものかまったく奥行きというものがなかった。
それは広重や清親の空というよりは、むしろ芝居の書割の空に似ている。そして、僅かに夕映をとどめたこの奥行きのない空を背景に、国会議事堂が黒々と大きなシルエットを浮かび上らせていた。
国会正門前の信号は二つとも緑で、夕闇を貫いて、にじむように輝いている。議事堂の右手には、残照を受けて麹町から九段へかけてのスカイラインがひろがり、それもまた少しも奥行きを感じさせなかった。
私はなぜか、この風景を覚えておかなければならないと思っていた。ただ美しいからというだけではなくて、そのなかになにか自分にとって重大な意味が隠されているように感じられたからである。
車があたりにひしめきあっているというのに、相変わらず物音は聞こえない。
(「生者と死者」江藤淳)
上の情景は、小林や西田が体感していた情景とは明らかに何処か異質である。江藤が体感した情景は、例えば永井龍男の短編「私の眼」の主人公が物語の最後で体感する情景ともどこか似かよっている。
軽く肩をたたかれたような気がした。私は眼を上げた。
そして、私は見た。
パーラーの内部は、まったく色彩を失っていた。生牡蠣の肉を見るような、すべてが薄青く、薄白い半透明さの室内は、ひっそり静まり返っているのだ。
何か、過去に記憶があった。私はあせっていた。
そして、一つのことに思い当たった。
これは、テレビの映像に似ている。音を消して、画面の動きだけを見ている時の感覚だと思った。
しかしそれは似ているのであって、それではなかった。なにかもっと、不気味な世界が眼前にあるのだ。何一つ動くものはないのに、何か動いている……。
(「私の眼」永井龍男)
江藤も「私の眼」の主人公も、共に「直接性」や「現前性」からかけ離れた情景を見ていることは確かである。そこには、奇妙なほど奥行きがなく、そして物音もない。ゼロ年代以降さかんに喧伝されたスーパーフラット的な情景を、江藤は1970年代の時点で体感していたのだろうか。
江藤は上で見た情景を「日本的な風景」だと云う。また、小林―西田的な情景と江藤―永井的な情景を分かつ線を引くとしたら、当然戦争終結時に引かなければならない、と江藤なら云うだろう。江藤淳も永井龍男も戦後の文壇人である。戦後とともに風景が変わった。だが、なぜ戦後なのか。江藤的に云うなら、そこには云うまでもなく占領期の米軍検閲が関わってくる。
江藤淳は、1979年の10月から国際交流基金派遣研究員としてワシントンのウィルソン研究所に赴任し、占領下日本でのGHQの検閲の実態を調査する作業に没頭することになる。その偏執的な熱意はある種ファナティックですらあり、かの福田恆存ですら揶揄するほどであった*1。一体何が、江藤をここまで駆り立てたのか。それは、福田恆存が云ったような単なるスタンドプレーに過ぎなかったのか。おそらくそうではあるまい。
ここでまず確認しておくべきことは、占領軍の検閲が、検閲制度の存在への言及自体をも検閲の対象に含まれるという、いわばメタ検閲の性格も備えていたという点である。ここに占領時検閲の本質と特異性がある。これにより日本国民には検閲の存在を知られないまま検閲を行うことが可能になった。江藤淳の表現を借りれば、「日本人は鏡張りの部屋に閉じ込められたようなもの」であり、「この鏡はこちら側から見ればまさしく鏡としか見えず、自分の顔以外なにも写さないが、あちら側、つまり占領軍当局と米国政府の側から見れば実は素通しのガラスで、部屋の中の様子は細大洩らさず、手に取るようによくわかる仕掛けになっている」ものであった*2。
それでは実際の検閲はどのように行われたか。例えば、江藤淳はウィルソン研究所のプランゲ文庫のファイルの中から、七カ所にわたって削除を命じられている柳田国男の「氏神と氏子」の校正刷りを発見する*3。そこで、削除を命じられた初版のテクスト(原型)と現在一般に流通している定本の中のテクストを比較してみると、初版テクストで削除された7つの箇所が、「定本」ではほぼ同じ字数の全く異なったテクストで埋められていたことを発見する。要するに、通常の検閲のように、「□□□」などで検閲した痕跡を残すのではなく、異なるテクストで空白=欠如を埋め合わせることによって検閲そのものの存在自体をも隠蔽したのである。これらのことは見かけ以上の重大さを秘めているように思われるし、江藤自身もそのことに気づいていたに違いない。「欠如」すらも隠蔽されること。「欠如」の欠如。
ここで注意すべきなのは、これらのことが、もっぱらテクスト、つまりエクリチュールの次元の問題であるということである。テクストの根源的本質である「書き換えられる可能性」に江藤はほとんど直感的な嗅覚でもって着目した。その意味で、江藤のこの時期の検閲論は総て江藤なりのテクスト論なのである*4。
とはいえ、もちろんこれだけでは江藤の占領時検閲に対する取り組みに於けるオブセッショナルな「過剰さ」は説明できない。江藤に取り憑いていたもの、それは端的に云えば「死者の声」、もしくは「霊」である。江藤は検閲により改竄された「かえる霊」という詩を引用しながら次のように云う(太字引用者)。
この奇妙な“詩”が“表現”している言語空間は、文字通りそこから完全に「霊」が抹殺され、拒否された空間である。
(中略)一見してわかるように、この“詩”は不具な詩である。詩人がありありと身近に感じている「霊」たち、つまりは超越的な存在への言及が禁じられている以上、それは倫理的にはもとより、美的にもいちじるしく限定された詩にならざるを得ないからである。
この連載(=「落ち葉の掃き寄せ」(引用者註))の第四回目で、私は、河森好蔵氏の『静かなる空』に触れながら、戦後の言語空間が、実は“閉ざされた言語空間”にほかならなかった所以を詳述した。だが、この“閉ざされた言語空間”は、また同時に「自然と人」しか許容せず、すべての「霊」たちを抹殺した、奇妙に平べったい言語空間でもあったのである。
(「『かえる霊』と拒まれた霊」江藤淳)
江藤淳の得体の知れぬ「過剰さ」がここにある。テクストから「霊」を、「死者の声」を聞き取ろうとする試み。「死者の声」はテクストの隙間から、つまりは「欠如」からやってくる。注意すべきは「死者の声」はパロールと同じものではないということだ。江藤淳はパロール主義者であるというような安直な批判をよく耳にするが、それは当たっていない。ここでの「死者の声」は、パロールというよりも、むしろデリダ的な原エクリチュールに近い。「欠如」を埋め合わせる検閲は、原エクリチュールを圧殺し、テクストを奥行きのない奇妙に平べったい風景に変える。そこでは、死者=他者は常に既に死に絶えている。江藤がかつて黄昏時に見た風景は、死者が死に絶えたこのような風景ではなかったか*5。
霊の声は圧殺され、死者が死に絶えた、そのような情景が戦後だとしたら、小林秀雄が戦時下に書いた次の文章は、死者がまだ死に絶えていなかった未だ幸福な時代を象徴していると云えるかもしれない。
又、ある日、ある考えが突然浮かび、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか、鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは人間になりつつある一種の動物かな」
(「無常という事」小林秀雄)
小林秀雄の言葉を裏切るかのように、戦後に現れた風景は、人間になりつつある一種の動物が、その死とともに死に絶える、そのような風景であった。
*4:同様のテクストの改変に対する執着は「昭和の文人」などにも見られる
*5:本が手元に無いので正確な確認と引用ができないのだが、確か「戦後と私」で、江藤が故郷である大久保の生家があった場所を戦後になって訪れたところ、ラブホテルが建っていて「これが自分にとっての戦後だ」と憤慨する一節があるのだが、もしその場所が何もない空き地だったら、つまり「欠如」であったら、江藤はあれほど憤慨したであろうか。もしくは逆に、もしラブホテルではなくそこに何の変哲もない民家が建っていたら、江藤はまったく憤慨しなかっただろうか。江藤が憤慨したのは、「欠如」を別の何か(ここではラブホテル)で埋め合わせられたからではなかったか