アニメの瞬き、それと超越論的アニメ批評

 手塚治虫がアニメに導入したリミテッドアニメーションと3コマ撮りの手法によって日本独自のアニメのスタイルが確立されたというのがアニメ史における定説だが、なぜそもそも3コマ――1秒に約8枚という少ない枚数でも機能するのか、要は動いてるように見えるのか、という問いは残る。認知科学の分野でこういう研究や考察が行われているのかどうかよく知らないが、僕が勝手に考えたところによると、どうもこの問題は人間の生理現象である「まばたき」と深い関係があるのではないか。というのも、「まばたき」という一瞬視界が暗転する、換言すればコマ落ちする現象が日常生活において平気で起きているのにも関わらず、視ている対象の運動の連続性はいささかも損なわれることがないという「不思議」さは、考えようによってはそのままアニメにおける「不思議」さとも直接繋がってくるように思われるからである。
 
 あなたがある対象――例えばボールの動きなどを追っているとき、途中でまばたきをしたとしても、対象の同一性が失われたり運動の連続性が中断されることはない(仮に対象の同一性が失われたり運動の連続性が中断されたりするならば日常生活は破滅する)。とはいえ「まばたき」は一方で視覚の運動性や継続性を中断させるかのような役割も担っている。例えば映像編集家のウォルター・マーチは、人間の生理現象としての「まばたき」を、映画におけるカットにたとえている。ウォルター・マーチによれば、まばたきは視覚的なイメージの流れを意味のある断片にカットする思考の編集行為であるという。まばたきが、目が乾かないようにするための単なる生理現象でしかないのであれば、機能的に反応するまばたきは等間隔に行われるはずであり、その間隔の長短は、湿度や温度が風邪の強さといった条件の変化だけに左右されることになる。しかし実際はそうではない。まばたきというものは、「頭の中で展開されている思考の分離作業を助長するもの、または無意識のうちに脳が行っている分離作業にともなって勝手に表出するもの、のどちらかではないだろうか」*1
 
 ウォルター・マーチは「まばたき」を映画との関係において考察しているが、これをアニメとの関係に置き換えてみるとどのようなことが見えてくるだろうか。まばたきの機能には、運動の連続性を担保すると同時に、運動を意味のある断片に編集するという逆説的ともいえる二重性が備わっていることを確認してきた。3コマ撮りのアニメーションは(なんなら単なるパラパラ漫画でもいいのだが)、このまばたきに備わっている機能の二重性をまさに逆手に取った形式ではないだろうか。3コマ撮りは、運動の情報量を断片に「圧縮」しながら、同時に運動の連続性を損なうことがないという、一種の情報のエコノミーであり、そしてそれを支えているのが人間の――つまりは視る側の「まばたき」の機能なのである。言ってみれば、映画では「ショット(1)→カット=まばたき→ショット(2)」という風だったのが、アニメにおいてはワンショットの中にいくつものカット=まばたきが存在し得る。
 
 上で考察してきたアニメとまばたきの関係性にも見られるように、アニメーションという固有の形式=メディアの可能性と限界性をとことん突き詰めたのが、アニメーション作家としての手塚治虫だったのではないだろうか。手塚治虫は漫画家であっただけに、かえって「漫画」と「アニメ」の差異について敏感であった。形式の可能性と限界性を突き詰めるということは、言い換えれば「批判的」ということであり、ここでの「批判的」というのは、厳密にカント的な意味での「批判的」である。カントにおける「批判」とは、自己自身の基盤――自己自身を成り立たせている暗黙の前提や無意識の条件を問い直す行為、つまり一種の自己―批判であり、手塚治虫はそのカント的な内在批判の方法をアニメに(ほとんど自己破壊的なまでに)適用させたという意味でジャパニメーションにおける最初のモダニストでもあった*2
 手塚治虫の自己―批判的な方法論が徹底された作品が、結果的に遺作となった『森の伝説』(1987年製作)であることは論をまたないであろう。この作品は一つの実験アニメーションであり、またメタ・アニメーションである。というのは、この作品が、アニメーションという形式が歴史の上でどのように発展してきたかということを、様々なパロディを織り交ぜながら内在的に「批判」していくというアニメーションであるからだ。第一章では、止め絵がメインとなっており、やがてアニメーションを最初期に最初期に製作したE・コールや、アメリカのW・マッケイを思わせる場面が現れる。第4楽章になると、ディズニー調のキャラによるフル・アニメーションVS人間キャラによるリミテッドアニメーションという壮大な構図に発展してゆく*3。アニメーションを成立させている「条件」と「可能性」を、アニメーション史を再構成しながら内在的に問う、というカント的な自己―批判の方法論を徹底させたこの作品は、手塚アニメの到達点であり究極であった。
 
 手塚治虫にあったのは「超越論的」な視線であり、『森の伝説』に代表される手塚アニメには、大塚英志の「まんが・アニメ的リアリズム」のような、漫画とアニメの区別すら理解できてないような、つまりは超越論的な視線を欠いてる凡庸な方法論に基づく批評によっては到底汲み尽くされ得ない(真の意味での)批評性とアクチュアリティがある。その意味でアニメ批評は未だに存在したことがない。「アニメ批評の不在」とは「アニメ批評固有の方法論の不在」である。大塚英志から東浩紀に至るアニメ批評と、その取り巻きのエピゴーネンによって再生産されてきた大量のアニメ批評は、どれも一様にアニメの「内容」ばかりを問題にし「形式」を問うことがない、という意味で超越論的な視座を欠いており、結果的にアニメ批評の方法論も確立することができなかった。要するに全くもって不毛であった。
 今アニメ批評に最も必要なのはアニメの批評ではなくアニメ批評そのものの批評、つまりは自己批判であろう。もちろん超越論的な視点を欠いている人間にはそのような自己批判も不可能なのであるが。

*1:ウォルター・マーチ『映画の瞬き―映像編集という仕事』

*2:ここでの「モダニズム」の定義は美術評論家のクレメント・グリーンバーグに依るところが多い

*3:参考文献:津堅信之『日本アニメーションの力―85年の歴史を貫く2つの軸』