エロリ漫画私感

 エロ漫画を読むという孤独な営み、容易な物語化を拒む一回性の出来事としてその都度立ち上がってくるような種類の営みの裏側には、エロ漫画を描くという、ある意味ではよりいっそう孤独な営みが存在している。それは性的なオブセッション等の精神医学的に解釈可能な地平の彼方にあり、その営みの「異形さ」が、ふとした際に我々読者の前に裸形を晒して迫ってくる。エロ漫画における作品は、そのような読者の「出来事」と作者の「出来事」の一回的な出合い頭にしか存在し得ず、またそのような出合い頭に於いて読者と作者との間で交換された「何か」を、能う限りそのまま掬い取ってみせるような批評以外に、真にエロ漫画批評と呼べるようなものは存在し得ない。

 昨今のコミックLOが、批評的な緊張度と男根的な緊張度を共に萎えさせるような、著しく強度性を欠いた作品で占められるに至った原因を那辺に求めるべきか、という問いが在る。ひとつ云えることは、昨今のLO作品の大半が、読者の「出来事」と作者の「出来事」の出会い=相剋を意図的に回避し、場合によっては圧殺するような地平の上に堂々と胡座をかくことによって成立しているということである。そのような回避と圧殺は、例えば作品内にコミックLOを登場させるという自己言及=自己客観視によって容易になるだろう。
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冬野みかん『Best☆position』)
 
 LOという「けしからん雑誌」を当のLOに掲載されている漫画内に登場させるという自己客観的な身振りは、エロリ漫画とそれを描く自分との距離を不断に相対化することによって、エロリ漫画が不可避的に孕み込んでいる「悪」を免罪させる。後に残るのは、読者と作者との間で共有される、ニヤニヤ笑いを伴う無言の頷き合いでしかない。此処には、読者と作者の間に暗黙の共犯関係=黙契が存在している。
 以上のような中途半端な自己客観視的戦略をさらに推し進めた例にクジラックスを挙げることができる。例えば『さよなら姦田先生』は、少女にコミックLOを朗読させることによって、いかにもなLO的ステロタイプ淫乱少女に仕立てあげる調教モノ漫画である。クジラックス作品を通底する過剰な露悪趣味=偽悪趣味の発露は、しかし己を無限に客観視=メタ視することによって、作品とそれを読む読者の「罪」を無限に浄化し洗い流す機能を果たす。この機能によって読者は何の後ろめたさも覚えず少女を強姦する漫画を消費することができるようになり、例えば東浩紀による熱烈なラブコールはそのささやかな一例に過ぎない。
 
 これら読者と作者とのナアナアな共犯関係を常に強固にするような(LO系)メタ・エロリ漫画が一方にあるとすれば、五月五日のエロリ漫画は、もう一方の極にあるようなメタ・エロリ漫画と云えよう。
 主に非LO系雑誌で活動している五月五日のエロリ漫画は、それまでのエロリ漫画における作者と読者が暗黙の前提としてきた共犯関係=コードを不断に「裏切る」ことによって成り立っている。彼によって企てられるエロリ漫画的コードの転倒は、常に周到を極めている。例えば『レイぷ。』という作品はレイプものエロ漫画における「主=男」「客=少女」という関係を巧みに転倒してみせるが、役割を交換されたキャラ同士が交わす会話の巧みさとドライヴ感は、物語開幕における叙述トリック的な巧みさと相まって一種の清々しさすら感じさせるほどだ。会話は例えばこのような感じである。少女「先っちょ濡れ濡れじゃねーか!ちんぽ触られて感じたんだろ?なあ?」男「か…感じてなんかいませんっ…!」少女「クンニなかなか良かったぞ。褒美にこのちんぽを今濡らしたまんこにぶち込ませてやるぜ」男「そんな…!約束が違います!」少女「オレは考えてやるって言っただけだぜ。このままでまんこ収まるかよ」少女「スケベなちんぽだな、オレの子宮口に亀頭がチューチュー吸い付いてきやがる」男「あっあっ動いちゃだめェ!」少女「くっ…イク…中に出すぞ!オレの一番奥におまえの濃い精子たっぷり出してやる!」男「中は駄目!赤ちゃん出来ちゃう!妊娠しちゃう!」少女「うるせえ!童貞ちんぽで孕ませるっ!!」
 男女という役割を交換しながらエロ漫画のテンプレート的会話を再演させることによって生み出されるブレヒト的な異化効果。エロ漫画というジャンルが暗黙の内に前提しているコードを暴露させる自己言及的な視座が、この作品を単なる逆レイプものではない特異なものにしている。
 しかし、コードの転倒と組み換えという理知的な操作は、それ自体実り多いものであり、また読者の知的好奇心を駆り立てるものではあっても、そこに作者の裸形の「目玉」が見えてくることは遂に無い。見る側である読者を見返すような「目玉」が立ち現れてくる或る一点=クリティカル・ポイント。読者の足元を掬い、またそのことによって不可避的に読者と作者とが裸のままで相対=相剋してしまう、そのような地点は何処に於いて見い出されるのか。

 町田ひらくの「異様さ」は、物語構造やまたその構成要素にない。むしろ、そのような物語の構造や構成要素を規定し内包する持続的緊張度そのものにある。剥き出しになった作家の精神の糸は、鋭く張りながら無限の直線軌道を描く。
 ひらく作品の少女達は一つの基本テーゼを共有している。それは、「私達は汚い爺達とはセックスしても決してお前=読者とはしない」という、恐らく永久に破られることはないテーゼである。云うまでもなく、このテーゼは身も蓋も無いような真実である。しかしだからこそ、ある生々しい強度を伴って我々読者の前に突き付けられてくる、そのような種類の真実である。ならばこのテーゼは一体何処から来るのか。

それで、いつも思うんです。〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね
(『ヒロイン手帖 × 町田ひらく』)

 町田ひらくの根底に抗いがたいものとしてある「相手は僕じゃない」という、論理よりも先に世界に対する肌触りとして先取り的に捉えられた確信は、「思想」よりもむしろ不可侵の「倫理」として氏の作品の底の底に一本の緊張した糸――物語の総ての構成要素がその周りから立ち上がってくるような糸を張る。自分は女の子を抱く側なのか、それとも懊悩を抱えながら憧れだけで終わる側なのか。「本当はどちら側だったのか、答えはとうの昔に出ていたのでした。」*1
 この確信から先のテーゼまでの距離は、己の確信としての倫理、倫理としての確信を読者にも共有させようという一つの「悪意」によって一飛びに埋められる。「ぼくががまんしていることを、やってしまうやつがいることが許せない」と氏は語る*2。氏の苛烈な倫理は自然読者にも向けられる。「僕は思った。『この子(姪)にワルサする奴は殺す』許さないのでは無く『殺す』のだ。」*3ここでの町田ひらくの倫理性は「悪意」を通り越し「殺意」にまで純化している。
 『たんぽぽの卵』11話、単行本103ページに於ける、所謂「死ぬまでなんでもやっていい子」であるところの少女が我々を視る鋭い<眼>。ここでは少女を視ている我々読者を、少女が視返している。だがもちろん媚びている眼ではない。むしろ逆で、徹底的な「拒否」と「拒絶」の<眼>が在る。ここに我々は、作者そのものの、町田ひらくそのものの<目玉>を見い出さざるを得ない。
 我々は、おそらく永遠に町田ひらくが描いた二次元美少女と交わることはできない、という観念を了解するより以前に、ただ少女達の眼差しに既に射られている。ここに論理や抽象が入り込む隙はない。唯一つの苛烈な精神と、作家の目玉と読者の目玉の交差だけがある。

 時々新聞で、というか報道で耳にしますね、「~ちゃん10才が…」
 耳をふさぎたい気分です、できれば知らないままでいたい出来事です、僕の創造の中でしか起こってはダメな事です。だって現実に実行してるヤツがいるなんて…ロリコンの人達に希望を持たせてしまうじゃありませんか、僕も含めて…。
 僕は夢は売るけど希望は絶対に売りたくない。
(『青空の十三回忌』自己解説)

 夢は売るが希望は売らない、これは反転させれば、希望は売らないが夢は売るということである。しかし、それにしてもなんという残酷な「夢」であることか。我々は氏が描いた少女に指一本触れることができない。町田ひらくが完成させた「悪意」の究極が此処にある。
 ひらく作品は「夢」であるというのは精確だ、ただしその夢は「悪夢」であるという意味に於いて。

*1:『たんぽぽのまつり』あとがき

*2:エロマンガ・スタディーズ永山薫

*3:『green-out』あとがき