日本の天皇は実のところユダヤ人でもあり中国人でもあった、という話

 ユダヤ資本やフリーメイソンといった語句を駆使する反ユダヤ主義的陰謀論はいつの世にもあるが、日本におけるその根を辿ると意外なことに親ユダヤ思想にも行き着くので戸惑うことになる。しかもこの根は厄介なことに近代日本におけるイデオロギー(右左関係なく)を絶えること無く反復再生産してきた基盤構造と恐らくは同型でありその桎梏の根は予想以上に深いように思われる。
 日本に反ユダヤ主義の古典であり象徴である書物「シオン賢者の議定書」を持ち込んだのは安江仙弘と酒井勝軍と言われているが彼らは狭い意味での反ユダヤ主義者ではなかった。例えば酒井勝軍は「シオン賢者の議定書」の反ユダヤ主義思想を受け入れながら、同時に日ユ同祖論の信奉者でもあったのである。どういうことか。すなわち、現在この世に蔓延り世界を征服せんとしているフリーメイソンは間違ったユダヤの血、つまり傍系なのであって、真のユダヤ、つまり純粋かつ正統なヘブライの血は実は日本人にこそ流れているのだ、というようなロジックである。要するに、いいユダヤ人と悪いユダヤ人がいて、正しきユダヤである日本が、正統性を取り戻さなければならないというのだ。*1このような一見アンビバレンスかつダブルスタンダードに見える立場はどのようにして生まれるのか。恐らくここには、<他者>を絶対化しその鏡像を自己自身として引き受ける、という迂回した自己絶対化のプロセスがあり、それが反転すると他者憎悪を引き起こすという倒錯した退行的対象関係があるように思われる。*2言わずもがなここには象徴的な去勢が媒介されていない。この去勢の不在、いわゆる去勢否認は日本におけるイデオロギーに普遍的に見られる宿痾のようなものである。
 日ユ同祖論は反ユダヤ主義といわばコインの裏表のような関係であったが、*3例えばこのような関係は江戸時代における日本の中国観にも見られる。その核心はずばり「天皇=中国人」論であり、これは上記の日ユ同祖論とほとんど同型反復であるという点で注目に値する。「天皇=中国人」論は遡れば南北朝時代の僧中厳円月を嚆矢とする。中厳円月は、神武天皇は呉の太伯の子孫だという説を立てたが聞き入れられず、その書を焼いてしまったという。*4この「天皇=中国人」論は江戸時代に入ると林道春ら慕夏主義者によって再び採り上げられることとなる。慕夏主義とは、山本七平によれば徳川幕府が自己の正統性(要は天皇を差し置いて自分たちが政務を司る権限がいかなる正統性と根拠に基づいているのかという問題)を確保するために苦肉の策として導入された体制イデオロギーであり、その実は中国思想=朱子学の絶対化であった。すなわち、朱子学が絶対視している皇帝の正統性を図らずも体現している万世一系であられる日本の天皇こそが、中国の皇帝以上に中国思想の体現者であり(ここからそのような体現者はそもそも実は中国人であって日本人ではないという発想が生まれてくる)、そのような天皇から政務の権限を委譲されている徳川幕府はそれに照応した正統性を保持しているのだ、というロジックが引き出されてくる。要するに、中国という<他者>を絶対化した後にそれに照応させる形で自己を絶対化するという迂回したプロセスを経ているわけであるが、上述の日ユ同祖論と同じく、ここから反中国主義まではほんの一歩の距離しかない。実際、皇帝の正統主義を体現しているはずの中国、つまり当時の明王朝満州族によって転覆されるという事件が起こるとその潜在的だった反中国主義性を顕在化させることとなる。この明朝の崩壊=清朝の誕生という事態は当時の日本にとっても相当なショックであり、ここにおいて中国から借り受けた正統主義という思想の正統性すら危ぶまれるのは必至である。この正統主義思想を断固として保持するためにはそれなりのロジックの飛躍が必要であった。すなわち、日本こそが「真の中国」であり、王朝がコロコロ変わるような中国は実は偽物の中国だったのだ、という飛躍である。*5ここにおいて慕夏主義は超国家主義的イデオロギーとなり、華夷秩序体制の規範を踏襲して、日本はかつて中国が周囲の国々に対して採ったのと同じ態度であるべきだということにもなる。ここに北一輝など戦前右翼の大アジア主義や第二次大戦における侵略主義、加えて上述の酒井勝軍などの反ユダヤ主義の萌芽が既に現れているのがわかるだろう。さらにはこのような鏡像的<他者>の絶対化は柄谷行人による<外部>の絶対化などを経て日本におけるポストモダニズムに反復継承されることになる。*6
 他者の絶対化からの自己の絶対化(その実は他者の抹消)という鏡像的な対象関係は日本思想の根底に抱え込む宿痾である。その構造的本質は前述したように<去勢>の不在にあり、また他者と自己を相対化する視点の決定的な欠如にある。去勢という土台の無いところでは他者との建設的な対話は行われるべくもない、それは昨今の対中国関係に不可避的に現れている通りである。もちろんこれらの問題は日本における思想や批評の行き詰まりとも無関係ではいられない、それはいずれ歴史が証明するであろう。

*1:海野弘「陰謀と幻想の大アジア」

*2:ジャック・ラカンは「鏡像段階」を承認をめぐる闘争的な双数関係であると述べている

*3:海野弘も述べているように、日本とユダヤは同祖であるというと、日本主義とは違うコスモポリタニズムに聞こえるが、実はあくまで日本中心のナショナリズムの変種なのである

*4:山本七平「現人神の創作者たち」

*5:このような他者の絶対的な理想化からの幻滅→他者の絶対的な敵視、という対人様式境界性人格障害によく見られる

*6:この柄谷の<外部>の絶対化という思想は前期のみに見られるが、「探究」に転回した後も例えばユダヤ教の神に<他者>の概念を見出すなどしていて興味深い