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否定神学共同体

書かずにいようと思ってたけどやっぱり書くか。問題は原発なのだ。とはいっても最近の反原発ムーブメントみたいなのを見てもなんかモヤモヤしたものがあるわけで。どうも反原発の風潮は左翼界隈だけではなく痛いニュースとか見ても全体的にそういう風潮らしい。在特会の連中は原発推進デモみたいなのをやったらしいが全然人集まらなかったらしいし、在特会の言説が衰退して反原発的言説がメインストリームになりつつある。これはすごいことだ。インターネットにおけるネット右翼離れ(そういや最近SPAでも「ネット右翼疲れ」とかいう特集が組まれてたな。これ)と(左翼的言説と親和性の高い)反原発的機運の高まり。いったい何が起こっているんだろうか。俺はここに新しいタイプのナショナリズムの萌芽を見ている。つまり、いままでのネット右翼的なナショナリズムは共同体の外部に敵(韓国人や中国人)を措定してそれを排斥することでナショナリズムを確立してきた。ようするに、内向きで自閉的なナショナリズムだ。しかし今回の原発事故で浮上してきた新しいタイプのナショナリズムは、外の敵を想定する必要がなく内側にいる敵、つまり原発を中心にして確立されるナショナリズム=共同体である。俺はこれを東浩紀の用語を借りて否定神学的共同体と呼ぶ。なるほど確かに原発によって「日本」という共同体はある種の危機に晒されているだろう。だがその危機によって(ここが逆説的なポイントだが)共同体を安定化させているとしたら?以下適当に引用。

…ただしここで「否定神学」とは、肯定的=実証的な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある。少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している。(東浩紀存在論的、郵便的」)

…そのポイント(あるいは穴)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考です。逆説的にというのはそこでは、問題のシステムはつねに、安定性を欠きつつも、まさにその不安定性によって安定しているものだとして説明されるからです。(東浩紀「郵便的不安たち」)

どのような科学的言説も原発をすべて包含することはできない(メルトダウンの可能性とリスクを0にすることはできない)。原発はどのような象徴化もすり抜けていく、純粋な表象不可能性の<核>となる。原発を表す言葉があるとすれば、それはたった一語だけだろう。それは「死」だ。上で引用した、否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在、それが原発だ。こうして原発はラカン的な意味での対象aとして機能する。

「対象a」とはジジェクの表現を借りれば、象徴界の直中に空いた欠如の「実体化」、いわば主体の穴を塞ぐものを意味する。(同上)

対象a(前々回の記事で言えば超越論的シニフィアン)は象徴界=共同体に開いた亀裂を縫い合わせる。反原発論者は原発をフェティッシュ=対象aとして捉えることによって(イデオロギー化)、実体化=象徴化することに成功する。

マルクス主義者によれば、物神=フェティッシュは社会的諸関係のポジティブなネットワークを隠蔽する。一方、フロイト(≒ラカン:引用者)によれば、象徴的なネットワークは欠如(「去勢」)の周囲に張り巡らされており、物神(呪物)=フェティッシュはその欠如を隠蔽する。(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」)

「象徴的なネットワーク」を「共同体」、「欠如」を「原発」、「物神」を「反原発イデオロギー」に置き換えれば、今の日本の状況に合致する。反原発論者は原発反対運動をすることによって剰余享楽を引き出している。つまり無意識のレベルでは症候(ここでは原発)を享楽しているということだ。(彼らの言動とは逆に)彼らにとって原発を失うことは主体の崩壊=消滅に等しい。

ここで肝に銘じておかなければならないのは、症候の根本的な存在論的地位である。サントム(≒対象a:引用者)として捉えられた症候は、文字通りわれわれの唯一の実体であり、われわれの存在の唯一のポジティブな支えであり、主体に一貫性を与える唯一の点なのである。言い換えれば、症候とはすなわち、われわれ――主体――が、われわれの享楽を、われわれの世界内存在に最小限の一貫性をあたえる意味的・象徴的形成物に縛りつけることによって、「狂気を免れ」、「無(精神病的自閉、象徴的宇宙の破壊)の代わりに何か(症候形成)を選ぶ」ということなのである。もしこの根本的次元において症候が縛られていないと、それは文字通り「世界の終わり」を意味する。(同上)

原発」というシニフィアンに貫かれた否定神学共同体、日本。この国は幕末の開港以来、自己同一性の欠如に悩まされてきた(詳しくは岸田秀「ものぐさ精神分析」参照)。日本は今ようやく真の(?)アイデンティティを手に入れ、自己の歴史の始まりの地点に立つことができたのかもしれない。

症候に唯一代わりうるのは、無、すなわち、純粋な自閉、精神病的自殺、象徴的宇宙の完全な破壊にまでいたるほどの死の衝動への屈服なのである。だからこそ、精神分析過程の終了に下したラカンの最終的な定義は、症候への同一化である。患者が自分の症候の<現実界>の中に自分の存在の唯一の支えを見出すことができたとき、分析は終了する。(同上)