超越論的地平としての言葉と死の欲動

前回の補足。カントの超越論的=アプリオリな形式的カテゴリーはフロイトにおいては「無意識」として定式化されていました。ここでは少し振り返ってラカンにおける無意識=超越論的カテゴリーについて軽くおさらいしておきましょう。簡単に一言で言うとラカンにおける無意識とは言葉のことです。

ラカンは、「無意識は言葉の条件である」とする弟子のラプランシュの理論を批判して「言葉こそが無意識の条件である。言葉が無意識を作り出すのだ」と断言する。(丸山圭三郎「言葉と無意識」)

ここでは話をわかりやすくするために内田樹によるロラン・バルトの解説を引いておきます。

文章を書くとき、しばしば「言いたいこと」は言葉にならず、逆にそんな考えを自分が持っていると予測もしなかった言葉が頁を埋めて行くことがある。「言いたいこと」と「書かれたこと」が過不足なくきちんと対応するということはまずない。私たちはつねに「言い足りないか」か「言い過ぎる」かどちらかである。(内田樹・難波江和英「現代思想のパフォーマンス」)

言葉を完全に自分のものにすることは端的に言って不可能というものでしょう。言葉は時にド忘れして言いたい言葉が出てこなくなったり時に言いたくない言葉まで言ってしまう、それは手懐けようと思っても完全に手懐けることができない、自分の内にありながら時に根源的な「他者」として我々の前に現前するのです。フロイトは無意識(エス)を奔馬に例えましたがまさしく言葉も奔馬と言って差し支えないでしょう。

自我はエスに対して、自分を上回る大きな力を持つ奔馬を御す騎手のように振舞う。…自我は騎士の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかない場合が多いのである。すなわち自我は、あたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかないのである。(フロイト「自我とエス」)

内田樹の解説では書くという行為、つまりエクリチュールに焦点を当てていますが、言いたいことが言葉にならない、もしくは言い過ぎるという体験は広くパロールにも当てはまるでしょう。

あらためて言うまでもなく、私たちの思考や体験の様式は、私たちの言語に多く依存しており、用いる言語が異なれば、それに応じて思考や経験の様式も大きく異なってくる。私たちが自由に語り、好きに書いていると信じているときでも、私たちはそれと気づかぬうちに「見えないコード」に従って言語を運用している。(同上)

「見えないコード」とはもちろん文法であり「ラング」のことなのですがあえて世俗的に敷衍して言えば、それは「普段それとは意識しないで私たちが共有している世間の常識」と言い換えてもいいかもしれません。私たちは成長の過程で物心が付く前から両親から世間の常識や規範(もちろん言葉も)などを教え込まれ、それらを「無条件に」受容しています。この「無条件に」というのがポイントです。どういうことでしょうか。ここでは中村昇によるデカルトの方法的懐疑とウィトゲンシュタインについての文章を補助線として引いておきましょう。

そもそもデカルトの「方法的懐疑」とはいったいどんなものだったんでしょうか。ひとことでいうと、世界の中でもっとも「たしかなもの」を見つけるために、疑うことができるものは、すべて徹底的に疑ってみようというわけですね。…この懐疑は、大きく三つに分かれています。最初は、外的な感覚、つまり、私たちが五官で感じているものを疑います。つぎに身体感覚のようなもの、つまり私たちの内側の感覚(五官によらない感覚)を疑います。最後に数学や論理といった一見疑いようのない確実なものと思われているものを疑います。(中村昇「ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者」)

もちろんデカルトによればこれら三つすべて疑いうるというわけです。外的な感覚は「錯覚」があるので信用できません。身体感覚は「夢」という現象があるのでこれもあてになりません。そして最後に一番確実に思われる数学の論理においても、私たちの計算を邪魔する「悪霊」の存在を想定して、確かなものではないと断定するわけです。ここから中村昇はさらにウィトゲンシュタインによるデカルトの方法的懐疑の批判の解説に入ります。

まずは五感。デカルトは、私たちの知覚には、「錯覚」という現象があるから、外側の物に対する感覚はまったくあてにならない不確実なものだと言いたいわけですよね。それじゃ、そもそも「錯覚」というのは、どのようにして成立するのでしょうか。
まっすぐの鉛筆をお風呂に入れると、曲がって見えるという現象があります。よく、お父さんが、子供を驚かすためにやる儀式ですよね。でも、生まれたばかりの赤ん坊には、この儀式は通用しない。子供が、曲がった鉛筆を見て、「うはぁ〜、曲がっとるがに〜!」と言って驚くことができるのは、その子供が、鉛筆は、どんなときでもまっすぐだということを知っていなければなりません。…「鉛筆はまっすぐである」ということが、ちゃんと常識としてみんなに共有されていなければ、錯覚は生じない。「鉛筆はまっすぐである」という経験を何度も繰り返すことによって、私たちの中に、「鉛筆はまっすぐである」という基盤(常識)ができあがり、その上で、鉛筆が曲がって見えると「あじゃあ、これは錯覚っすねぇ」ということになるわけです。ようするに、何度も正しい知覚が繰り返されることによってできあがった基盤がなければ、錯覚は登場しない。…錯覚があるからといって、その基盤のほうも一緒に否定してしまったら、そもそも錯覚は成立しなくなるわけですから。錯覚がでてくれば、錯覚だけを否定すればよろしい。(同上)

ここでは物理的な知覚が問題になってるわけですが私たちが言語=常識を習得するプロセスについても同じことが言えるのではないでしょうか。私たちが両親から言語=常識を教えられるとき、その教えられた言語=常識をその場ですぐさま疑うことができない。とりあえずそれらをいったん所与のものとして無条件に受け入れた後、つまりアプリオリなもの(基盤)として受け入れた後、はじめてそれら(常識)を疑うことができるようになる、ということですね。疑うという行為は本来的にアポステリオリな行為なわけです。ここからさらに議論の中核に入っていきます。

こうしてデカルトの方法的懐疑は、ウィトゲンシュタインによって批判されます。それでは、以上のような批判からどういうことが言えるでしょうか。ウィトゲンシュタインは、「錯覚」や「夢」のような、私たちの普段のあり方を、少し疑わしいものにする現象というのは、それ単独で現れるのではなく、かならずその背景には、その逆の状態がある。そっちの方こそ大多数のわれわれが乗っている共通の基盤なのだということを言いたかったのです。その共通の基盤というのが、「わたしたちが日々おこなっている言葉のやりとりとその周辺の事柄」(言語ゲーム)の基盤にあるのです。(同上)

この「共通の基盤=言語ゲーム」がすなわち前述した「見えないコード」なわけです。それは私たちに「錯覚」させたり「疑わ」させたりすることを許す、超越論的な基盤であり、この基盤が無いと、そもそも疑うことすらできない。前回説明したカントの超越論的な次元との相同性は明らかですね。中村昇はさらにウィトゲンシュタインを引用しながらこう結論します。

疑うためには、信じるという行為を蓄積しなければならないのです。だから、その蓄積したものも一緒にまるごと疑うということは。「疑うことそのもの」も不可能にするわけですから、やはり、デカルトの方法的懐疑は、何かおかしなことをしているということになります。ウィトゲンシュタインは、こう結論じみた言い方をします。
私たちに何かが基礎として教えられなければならない。(「確実性の問題」449節)
すべてを疑う疑いは、疑いではない。(同書458節)
一定の根拠にもとづいて人は疑う。(同書458節)
疑い得ないものに支えられてこそ疑いは成りたつ。(同書519節)
すべてを疑おうとする者は、疑うところまでたどりつくこともないだろう。疑いのゲーム自身、すでに確実性(たしかなこと)を前提しているのだ。(同書115節)

廻り道をしましたがここでようやく私たちは、言語ゲームとはある種のカントにおける超越論的なカテゴリーであり、それを前回引用した柄谷行人の「無意識の超越論的な構造」という知見と結びあわせ、そこから「無意識とは言語である」というラカンのテーゼを導出する、というところまで辿り着きました。もちろんラカンはウィトゲンシュタインなんか(私が知る限りでは)引用していませんし、ラカンにおける言語観とウィトゲンシュタインにおける言語観はかなりの差異がある、ということをある程度認めた上である種の(ある意味では誇大妄想的な)アナロジーとして提示してみました。
ずいぶん遠いところまで来てしまいましたが、結局いまだにラカンの導入口にしか立っていない、という事実に気付かされるのですが、このことがまさにラカン理論をパフォーマティヴに遂行していた、つまり欲望とは欲望の再生産そのものである、というラカンにおけるテーゼ、を忠実に遂行していた、と言ったら驚かれるでしょうか。

われわれは、すでに「物自体」であるものを、「物自体」の延期と取り違える。つまり、欲望につきものの探索や迷いであるとわれわれが思い込んでいるものは、実はすでに欲望の実現なのである。いいかえれば、欲望の実現とは、それが「みたされ」、「充分に満足させられ」ることではなく、むしろ欲望そのものの再生産、つまりその循環運動と一致するのである。(スラヴォイ・ジジェク「斜めから見る」)

この理論からすると、私たちはラカン理論の解説に踏み入ることはできません。なぜならそれは「欲望の危機」を意味するからです。よって当初はここから死の欲動の解説に入ろうと思っていましたが、残念ながらそれはここで断念しなければならないようです。