文士と薬物・序説
大正・昭和期の文人の文章を読んでいるとベロナールやらジアール等の普段聞き慣れない薬物名をちょこちょこ見かけるので気のままに引用などしてみながら当時の文壇ドラッグ・カルチャーに一抹の光を当ててみたいと思い至った次第である。
床に横になると、舌の上にヂアールの白い塊を二つ載せた。私はもうカルモチンでは眠れなかった。二月程前、この薬を飲み過ぎて、翌朝縁側から足を踏み外して落ちたことがあった。友達の兄の医者の処へ行って目の覚める薬を呉れと云うと薄荷の様な水薬を呉れた。医者は「そんなものはもう止め給え。心臓を悪くする。眠らせたり、覚ましたり、君はまるで自分の頭を玩弄にしているんだね」と云った。
然し仕方がない――俺の頭よ。許して呉れ――私は薬で苦くなった口で呟いた。
――何んだか雨垂れの様な音がした。……
(「一ツの脳髄」小林秀雄)
初っ端から小林秀雄である。この私小説とも云うべき作品は大正十三年、小林が22歳のときに発表されている。私小説なのでほぼ小林の実体験だと思われる。ヂアールは睡眠薬の一種のようだが詳しくはGoogleででも調べてくださいとしか言いようがないが、ここでのささやかな収穫はジアールが「苦い」という事実である。今で云うアモバンに近い感じの後味だったのだろうか。わりとどうでもいいけど。
ちなみにヂアールは太宰治の「人間失格」において主人公が自殺を試みるときに用いている薬物でもあるらしい。
ジアール。自分はその頃もっぱら焼酎で、催眠剤を用いてはいませんでしたが、しかし、不眠は自分の持病のようなものでしたから、たいていの催眠剤にはお馴染みでした。ジアールのこの箱一つは、たしかに致死量以上の筈でした。まだ箱の封を切ってはいませんでしたが、しかし、いつかは、やる気でこんなところに、しかもレッテルを掻きはがしたりなどして隠していたのに違いありません。可哀想に、あの子にはレッテルの洋字が読めないので、爪で半分掻きはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。(お前に罪は無い)
自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうり、コップの水を落ちついて飲みほし、電燈を消してそのまま寝ました。
三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。医者は過失と見なして、警察にとどけるのを猶予してくれたそうです。覚醒しかけて、一ばんさきに呟いたうわごとは、うちへ帰る、という言葉だったそうです。うちとは、どこの事を差して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。
(「人間失格」太宰治)
青空文庫から適当に引用させてもらった。余談だが私は「人間失格」はおろか太宰治を一冊も読んだことがない。なぜなら嫌いだからである。さて、蛇足っぽくなるが前述した小林の小説に出てきたもう一方の薬物カルモチンもここでは大活躍している。
それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩みたいな事をはじめ、胸の病気のほうは一進一退、痩せたりふとったり、血痰が出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買って来て、べつに自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも一向に眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから引続き三度も便所にかよったのでした。不審に堪えず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤でした。
「同上」
ほほえましいエピソードであるが作者の太宰治はこのカルモチンで何度も自殺未遂をしている。
ここいらでもう一つの薬物、ベロナールにも焦点を当ててみよう。女流作家・宇野千代の「私の文学的回想記」にベロナールの文字が出てくる。近藤富枝の良書「馬込文学地図」に引用している文章から(孫引きになるが)引用してみよう。
この時期の自分のことを、私は自分で、動物状態と言ふ名で呼びました。幾つかの小さな恋愛をしたのも、この時期です。私はもう三十になつてゐました。酒は好きではありませんが、一度か二度、へべれけに酔つたことがあります。湯ヶ島で知りあつた中年の紳士から貰つた、ベロナールとか言ふドイツの睡眠薬を、眠るためにではなく、恍惚とするためだけに面白がって飲んだのも、この時期です
時期は昭和二年頃、宇野は尾崎士郎と離婚した直後であり精神的にも不安定であったと思われる。ちなみに「湯ヶ島で知りあつた中年の紳士」とは誰あろう三好達治のことなのだが、これについては後述する。ひとまずここで注目したいのは、眠るためでも自殺するためでもなく「恍惚とするため」だけにベロナールを「面白がって」使用したというくだりであろう。この薬物に対する姿勢は、上の小林や太宰の薬物に対するそれと明らかに断絶していると云わなければならない。さらにこの傾向は後年さらに加速する。
「わたし(引用者註:宇野千代)、いいことを発明したのよ。ジャールをのんで酒をのむと頭の中がボーッと空っぽになって、春風でも吹いているような気分になって眠っちゃうのよ」
そりゃあ面白いというので一同彼女の言う通りにやり、そのまま眠ってしまった。目が覚めるとまたジャールとアルコールをのどに流しこみ、一同が酔いからさめたのは三日後だったという。
(「馬込文学地図」近藤富枝)
ジャールとはジアールのことだろう。一同のメンツを挙げるなら榊山潤夫妻、今井達夫、藤浦洸などがいたという。ここで見られる光景は極めてヒッピー的なそれに近いのではないだろうか。現代の感覚で云えばハルシオンをダウナー系ドラッグとして用いるのにも近い。
もっとも、当時は睡眠薬をドラッグとして用いずともコカイン等のもっと強力なドラッグはいくらでも手に入った。以下は森永博志と福田和也の対談からの引用である。
福田:キメるのは昔は合法的だったでしょう。終戦直後ぐらいまではヒロポン、コカイン、オーケーだった。萩原朔太郎なんてコカイン中毒だったんだから。群馬かなんかの自分の家を、完全に船室の形にするんですよね、バカなんだけど(笑)。で、周りに理解者が全然いないから、マンドリン弾きながらずっとコカイン、キメているっていう。
(「スーパーダイアローグ」福田和也)
ここで先程後回しにしていた「湯ヶ島で知りあつた中年の紳士」、三好達治に話を戻そう。云うまでもなく彼は萩原朔太郎の弟子であった。これは憶測になるが、おそらく三好は師匠のドラッグへの耽溺に影響を受けていたはずであり、そのような師から受け継いだドラッグ文化を密かに宇野千代周辺の馬込文士に輸入したのではないだろうか。その手はじめに湯ヶ島で宇野千代にベロナールを手渡したのだろう。もちろん眠るためではなく気持よくなるために飲むものだという教育も忘れずに。
ちなみに、ベロナールとジアールを組み合わせて自殺した(ということになっている)作家に芥川龍之介がいることも付け加えておくべきだろうか。*1*2
コカインの名前が出てきたので最後に折口信夫について触れておきたい。折口信夫がコカイン中毒であったことはよく知られているだろうから、ここでは比較的面白そうなエピソードをいくつか抜粋してみることに留めたい。
表通りからちょっとはずれた横町の、小さな薬屋のそばを通ると、ひょいと立ち止まって、顎をしゃくって示しながら、
――あの薬屋も、金や春洋に内緒で、薬を買いにきた店だよ。
――ここはとうとう、さすがの金も最後まで気づかなかったよ。
――この店の親父は歌が好きで、薬を買うために僕が持ってきた短冊を、何枚か持ってるはずだよ。
などといわれることがあった。薬というのは勿論、昔使っていられたコカインのことである。色紙や短冊をなかなかお書きにならなかった先生も、薬を手に入れるためには、すすんで短冊を書いて、店の親父の歓心を買われたこともあったらしい。
そういう店はたいていは、先生が家から國學院か慶應へ通われる途中、あるいは、二つの学校と学校の間の道筋にあったが、ときには、どうしてこんなところへと思うような、とび離れたところに行きつけの薬屋のあることもあった。
こんな言い方をしたら、当時、真剣に先生の薬の購入先を押さえていかれた鈴木金太郎さんに叱られるだろうけれど、そういうときの先生は、子供の頃のかくれんぼの、得意の隠れ場所を、大人になってなつかしみながら、のぞき込んでいる人のような感じがした。
(「折口信夫の晩年」岡野弘彦)
折口信夫らしい、ほほえましいエピソードであるし、戦前はコカインが普通に薬局で買えたことの傍証にもなっている、という意味で実りの多い文章である。しかし戦後になるとコカインの入手も難しくなったらしく、女弟子の穂積生萩に、穂積の地元のルートを使ってコカインを入手してくれないか、などと頼み込んだりしているのも面白い。折口はコカインのやりすぎで鼻がボロボロになっていたので原稿用紙の上に鼻血をポタポタ垂らしながら執筆していたという、なんだかものすごい逸話も残っている。これは図らずもアクション・ペインティングの先駆とも云えるのではないだろうか。
ついでと云ってはなんだが小林秀雄と折口信夫の名前が出てきたので、最後に両者が絡んだ逸話も紹介しておこう。前述の穂積生萩と山折哲雄の対談からの引用である。
山折:折口信夫が使っていたのはコカインだけだったのですか。かなりいろいろな薬を飲んでいたということですが。
穂積:小林秀雄さんが、たしか『波』に書かれた随筆に、何という薬か忘れましたが、「一晩じゅうでも本が読めてとてもいいですよ。あなたもやってごらんなさい」と折口がいった。その後、小林秀雄が先生を訪ねていったとき「小林さん、私はあれをやめました。家中が真っ暗のなかで、私の着ている着物の絣がぜんぶ見えたのです。これは恐ろしい薬だと思って、やめました」と。
(「執深くあれ―折口信夫のエロス」)
「小林秀雄さんが、たしか『波』に書かれた随筆」は残念ながら未見だが、それにしてもあの折口信夫すら「恐ろしい」と思わせた薬とは一体何だったのだろうか。