『たんぽぽの卵』試論

「この国の隅から隅まで みんなウルサイな――」

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 前期~中期の町田ひらく作品においては一対一であれ一対多であれ、そこには基調となる何らかの人間関係がありまたそこから演繹される何らかの人間ドラマがあった。しかし『たんぽぽの卵』にあっては例えば中期の代表作である『お花ばたけ王朝紀』に見られるような複雑な人間ドラマは一切見られない。なぜなら『たんぽぽの卵(以下たんぽぽ)』に出てくるのは、日本各地に遍在している匿名的かつ不可視の組織――少女を犯すことのみを目的として集合離散を繰り返している共同体(作者は「NPO」と表現している)に属する無名の年寄り達であり、またそのような組織のために何処からか集められてきた漂泊の少女達だからである。この作品にはおよそ匿名的な人間しか出てこない。匿名的というのは名前があるとかないとかいった話ではなく、個々の人間が相互に交換可能であるということである。個々のキャラクター的な個性や内面性は慎重なまでに除去されているので個性的なキャラクターたちが織りなす人間ドラマといったものが生まれる余地はアプリオリに否定されている。この作品に描かれているのは、個々の主体ではなくむしろ共同体そのものである。さらに先取り的に云えば、本作品の究極的な試みは、<日本>という国家的共同体が生成してくる動的プロセスそのものを描き出すことにあった。
 
 本作品のヒロイン――毬子、もしくは「死ぬまでなんでもやっていい子」――は本人自身が「アタシは日本中のどこにでも咲いてるの」と云っているように特定の個人でもありなおかつこの作品に遍在する総ての無名の少女でもある。加えてこの両義的な少女はあらかじめ二重に排除=疎外されている。一つは皇族というアプリオリに宿命付けられた血統に因る排除である。ルネ・ジラールは共同体の秩序創成メカニズムの原初に一つの根源的な暴力を想定する。例えばイエス・キリストは共同体の内部にあって、相互暴力を一身に引き受けさせられるスケープゴートであり、この供犠=排除のプロセスによって自然状態から脱した共同体的秩序が形成される。この観点から日本における皇室という存在は日本というスタティックなマクロ共同体を維持させる第三項として機能していると捉えることができる。皇室とは日本各地に遍在するミクロな共同体のネットワークが放射状に集約する結束点でありそれ自体は空無でしかない。実際皇室は如何なる権能も持たず一切の能動性を剥奪された無個性かつニュートラルな存在(まるでこの作品に出てくる少女たちのようだ)であり、第三項排除が今も日本において現存していることがわかる。
 しかし、なおかつ少女は「辛い役目」を遂行するため寄る辺のない彷徨を義務付けられておりその意味で皇室からも排除=疎外されている*1。原初において外部に排除された者がさらに外部に排除されるという奇妙なねじれ。少女(もしくは少女達)はこのように二重に排除=疎外されているがゆえに目的地のない無限の彷徨と漂泊を宿命付けられている。
 一方でそのような漂泊の少女を受け入れる共同体もまた不可避的に危機に陥らざるをえない。何故か。それは、少女を受け入れることは一度共同体の秩序創成のために排除した<外部性>を共同体の只中に引き戻す行為に等しいからである。少女達は回帰する。例えば「最終章#1」の舞台である漁村では一年に一度海神を鎮めるための儀式を船上で執り行う習わしだが、その年の御役目を務めた毬子が船上から落下(下手落ち)したため海難事故による死者が後を絶たなくなる。しかし問題の本質は少女が船から落ちたとか落ちなかったという部分にはない。そうではなく、本来なら共同体の<外部>の存在でなければならないはずの生贄の少女が、実は日本の共同体の最も内奥の部分にあたる万世一系の血を引いている者だったというところに本質がある。同じく「11話」はダムの底に沈む予定である村落が舞台だが、ラストに至ってダム工事は無期限延期になったことが判明する。しかし村長は毬子との性交中に腹上死し共同体の危機は存続する。
 ジラールによれば共同体維持のメカニズムにおける第三項としての原初の<贖罪のいけにえ>は、やがて<儀礼のいけにえ>によって置き換えられるという。後者にあっては生贄として択ばれるのは共同体の外部にある<異人>である。例えば説経『まつら長者』ではある村に棲む大蛇にイケニエとして供されるのは、都から買われてきた少女さよ姫である。共同体の内側から犠牲者が選ばれる限り、共同体に安寧はもたらされない。<置き換え>によって供犠の暴力は遠くへ、外部へ放散されなければならない。*2
 しかし、相互暴力を外部へ放散させるために置き換えられた <儀礼のいけにえ>としての異人が、実は原初の暴力によって排除した当の<贖罪のいけにえ>の回帰であったとしたらどうだろう。ここには根源的かつ危機的な矛盾がある。つまり、<贖罪のいけにえ>と<儀礼のいけにえ>はイコールではないのか。
 このように『たんぽぽ』における総ての共同体は、二重の排除、二重の外部を内側へ折りたたみ返すようにすることによって安寧が訪れることが決してなく常に危機にみまわれながらその都度生成しなおすダイナミックな流動体のようなものとしてある。『たんぽぽ』における共同体は決してスタティックではない。このことは『たんぽぽ』の前半部に出てくる匿名的な少女売春組織のような共同体にも当然当てはまる。「7話」には船乗りたちの共同体が描かれる。彼らは本質的に流動的であり海の上を彷徨する漂泊の民である。「そんなにヤリたきゃニーちゃんよ、明日っから一緒に俺らの船に乗っか?」彼らの共同体に加わるということは住所を捨て流浪の身になることを選択するということを意味する。

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 折口信夫柳田國男との対談で己の民俗学的探求のきっかけについて語っている。

 何ゆえ日本人は旅をしたか、あんな障碍の多い時代の道を歩いて、旅をどうしてつづけていったかというようなところから、これはどうしても神の教えを伝播するもの、神々になって歩くものでなければ旅はできない、というようなところからはじまっているのだと思います。
 (中略)台湾の『蕃族調査報告』あれを見ました。それが散乱していた私の考えを綜合させた原因になったと思います。村がだんだん移動していく。それを各詳細にいい伝えている村々の話。また宗教的な自覚者があちらこちらあるいている。どうしても、われわれには、精神異常のはなはだしいものとしか思われないのですが、それらが不思議にそうした部落から部落へ渡って歩くことが認められている。こういう事実が、日本の国の早期の旅行にある暗示を与えてくれました。
(『日本人の神と霊魂の観念そのほか』)

 少女たちには一切の能動性がない。ただひたすら年寄りたちに犯され、彷徨する。しかし何のために彷徨するのか。それは日本という境界の線を引き直すためである。少女たちの巡歴は遍在する共同体を侵し解体しながら再び生成させなおす。共同体は少女が通る度にその境界線を揺るがし、移動させ、流れさせ、溢れ出させる。少女たちの歩く道はそのまま神の道となりその彼方に<日本>が生成する。「彼方」である無限に生成する<日本>は、少女たちの旅の終わりなき過程=道そのものとして在り、またそのようなものとしてしか在り得ない。

 旅にして物恋しきに山下の朱あけのそほ船沖に榜ぐ見ゆ(万葉集巻三)

*1:ここにはオイディプス王の悲劇や旧約聖書におけるヤコブの子ヨセフの物語に共通するテーマが仄見える

*2:参考文献:『境界の発生』赤坂憲雄

町田ひらく試論

 ふとしたことで不可視の世界を幻視してしまうのではないか、という不安。初期の頃から町田ひらく作品を通底しているオブセッションはこのような種類の不安と関係している。例えば『蜃気楼回線』では間違い電話の留守録が主人公と不可視の世界を偶然に繋いでしまうことによって物語の幕が開ける。電話回線は、日常的な可視的世界がほんの些細な偶然によって不可視の世界と繋がってしまう、その身も蓋も無いほどの偶然性を象徴するものとしてこの作品の中に現れている。*1
 「トパーズ サファイア ラピス… 暗号――?」主人公は留守録のメッセージを一つの暗号として捉える。町田作品の主人公にとって、外部からのメッセージは暗号であり何かの徴候であり、それと同じように世界もまた暗号と徴候の集合として立ち現れてくる。
 「どうもオレの知らない場所で何事か楽しんでいる連中がいるらしい」これは町田作品における主人公が多かれ少なかれ共有している陰謀論的妄想の一例である。彼らは絶えず世界を二重化して視ている。世界は一つしか無いが、常に二重構造(可視的世界―不可視的世界)なのだ。パラノイア患者の脳内神経の偶然的なショートサーキットは可視的世界と不可視的世界を短絡(ショートサーキット)させる。しかし『蜃気楼回線』にあってはそれが電話回線間のショートサーキットというアナロジーによって置き換えられている。*2
 『たんぽぽの卵#7』では、可視的世界―不可視的世界という二重構造が階段の上昇―下降というイメージによって端的に示されている。主人公であるロリコンの中年男はとあるホテルの自販機売場で髪の毛に精液らしきものをつけた一人の少女を見かける。少女の髪の毛に付着した精液はここでも主人公にとって何事かの「徴候」として作動する。精液という偶然的な「徴候」によって可視的世界と不可視的世界は短絡し、主人公は少女を追いかけ「立入禁止」と書かれた札が置かれた階段を降りていく――。この『不思議の国のアリス』を思わせる物語の導入部は、しかしラストに至ってやはり『不思議の国のアリス』的な、夢からの覚醒、つまり不可視的世界からの拒否=排除によって幕を閉じる。幻視者はあくまで幻視者でしかなく、その世界に参入することは遂に許されない。「〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね」という町田ひらくのインタビュー中における発言は、そのまま町田作品の中にあっても強い倫理的な掟として働いている。『秋に 雲雀は囀るか』におけるカメラマンの主人公の「何故 オレじゃないんだ」という魂の慟哭は、そのまま作者の魂の慟哭でもある。
 
 しかし町田作品を通底している世界観はほんとうに以上で見てきたような単純な二重構造に還元できるようなものなのだろうか。『秋に 雲雀は囀るか』のラストにおける主人公の「彼女の見る夢の中にボクらが映っていないのなら ボクらは黙って消え失せるしかありませんよね」という台詞はこの点を考える上で非常に示唆的である。ここでは幻視する者(ボクら)と幻視される者(少女)という本来の主体と客体の関係が転倒されている。少女を幻視しているボクらはしかし少女によって夢見られる、つまり幻視されることによってしか存在できない、という入れ子構造、もしくはメビウスの輪のような構造は、可視的世界―不可視的世界、主体―客体といった二項対立的関係そのものを無意味なものとしないではおかない。<主体>の特権的な位置を剥奪し不断に相対化させる少女という<他者>。前者は後者を包み込んでいるが、なおかつ同時に(常に既に)後者に包み込まれるようにして存在している。このような他者性を備えた位置にいる町田作品における<少女>という特異な存在について、我々は更なる思考を迫られている。

 補記:以上に記述してきた「幻視」という概念からも理解できるように、私は町田ひらく作品を、他の作家のロリコン・ファンタジーと異なる「リアリズム」的なロリ漫画とは考えていない。町田作品もひとつのファンタジーである。しかし、そもそも「リアル」とは、「現実」とはなんなのだろうか。

*1:町田作品と最も親縁的な作品としてトマス・ピンチョンの諸作品、特に『競売ナンバー49の叫び』を挙げておきたい

*2:パラノイア患者は本来無関係であるはずのものを恣意的に繋げてしまう。例えば、街を歩いている親子を片っ端から「関係している」と捉えずにはいられない妄想が産んだ作品が『漫画で見る未来の三丁目』である。不可視の関係(というよりも本当は存在しない関係)をあまりにも簡単にショートサーキットさせる、これは町田作品における常套的テクニックと云える。処女率0%の街を幻視する『大泉モンスター』も同様の系統の作品である。

エロリ漫画私感

 エロ漫画を読むという孤独な営み、容易な物語化を拒む一回性の出来事としてその都度立ち上がってくるような種類の営みの裏側には、エロ漫画を描くという、ある意味ではよりいっそう孤独な営みが存在している。それは性的なオブセッション等の精神医学的に解釈可能な地平の彼方にあり、その営みの「異形さ」が、ふとした際に我々読者の前に裸形を晒して迫ってくる。エロ漫画における作品は、そのような読者の「出来事」と作者の「出来事」の一回的な出合い頭にしか存在し得ず、またそのような出合い頭に於いて読者と作者との間で交換された「何か」を、能う限りそのまま掬い取ってみせるような批評以外に、真にエロ漫画批評と呼べるようなものは存在し得ない。

 昨今のコミックLOが、批評的な緊張度と男根的な緊張度を共に萎えさせるような、著しく強度性を欠いた作品で占められるに至った原因を那辺に求めるべきか、という問いが在る。ひとつ云えることは、昨今のLO作品の大半が、読者の「出来事」と作者の「出来事」の出会い=相剋を意図的に回避し、場合によっては圧殺するような地平の上に堂々と胡座をかくことによって成立しているということである。そのような回避と圧殺は、例えば作品内にコミックLOを登場させるという自己言及=自己客観視によって容易になるだろう。
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冬野みかん『Best☆position』)
 
 LOという「けしからん雑誌」を当のLOに掲載されている漫画内に登場させるという自己客観的な身振りは、エロリ漫画とそれを描く自分との距離を不断に相対化することによって、エロリ漫画が不可避的に孕み込んでいる「悪」を免罪させる。後に残るのは、読者と作者との間で共有される、ニヤニヤ笑いを伴う無言の頷き合いでしかない。此処には、読者と作者の間に暗黙の共犯関係=黙契が存在している。
 以上のような中途半端な自己客観視的戦略をさらに推し進めた例にクジラックスを挙げることができる。例えば『さよなら姦田先生』は、少女にコミックLOを朗読させることによって、いかにもなLO的ステロタイプ淫乱少女に仕立てあげる調教モノ漫画である。クジラックス作品を通底する過剰な露悪趣味=偽悪趣味の発露は、しかし己を無限に客観視=メタ視することによって、作品とそれを読む読者の「罪」を無限に浄化し洗い流す機能を果たす。この機能によって読者は何の後ろめたさも覚えず少女を強姦する漫画を消費することができるようになり、例えば東浩紀による熱烈なラブコールはそのささやかな一例に過ぎない。
 
 これら読者と作者とのナアナアな共犯関係を常に強固にするような(LO系)メタ・エロリ漫画が一方にあるとすれば、五月五日のエロリ漫画は、もう一方の極にあるようなメタ・エロリ漫画と云えよう。
 主に非LO系雑誌で活動している五月五日のエロリ漫画は、それまでのエロリ漫画における作者と読者が暗黙の前提としてきた共犯関係=コードを不断に「裏切る」ことによって成り立っている。彼によって企てられるエロリ漫画的コードの転倒は、常に周到を極めている。例えば『レイぷ。』という作品はレイプものエロ漫画における「主=男」「客=少女」という関係を巧みに転倒してみせるが、役割を交換されたキャラ同士が交わす会話の巧みさとドライヴ感は、物語開幕における叙述トリック的な巧みさと相まって一種の清々しさすら感じさせるほどだ。会話は例えばこのような感じである。少女「先っちょ濡れ濡れじゃねーか!ちんぽ触られて感じたんだろ?なあ?」男「か…感じてなんかいませんっ…!」少女「クンニなかなか良かったぞ。褒美にこのちんぽを今濡らしたまんこにぶち込ませてやるぜ」男「そんな…!約束が違います!」少女「オレは考えてやるって言っただけだぜ。このままでまんこ収まるかよ」少女「スケベなちんぽだな、オレの子宮口に亀頭がチューチュー吸い付いてきやがる」男「あっあっ動いちゃだめェ!」少女「くっ…イク…中に出すぞ!オレの一番奥におまえの濃い精子たっぷり出してやる!」男「中は駄目!赤ちゃん出来ちゃう!妊娠しちゃう!」少女「うるせえ!童貞ちんぽで孕ませるっ!!」
 男女という役割を交換しながらエロ漫画のテンプレート的会話を再演させることによって生み出されるブレヒト的な異化効果。エロ漫画というジャンルが暗黙の内に前提しているコードを暴露させる自己言及的な視座が、この作品を単なる逆レイプものではない特異なものにしている。
 しかし、コードの転倒と組み換えという理知的な操作は、それ自体実り多いものであり、また読者の知的好奇心を駆り立てるものではあっても、そこに作者の裸形の「目玉」が見えてくることは遂に無い。見る側である読者を見返すような「目玉」が立ち現れてくる或る一点=クリティカル・ポイント。読者の足元を掬い、またそのことによって不可避的に読者と作者とが裸のままで相対=相剋してしまう、そのような地点は何処に於いて見い出されるのか。

 町田ひらくの「異様さ」は、物語構造やまたその構成要素にない。むしろ、そのような物語の構造や構成要素を規定し内包する持続的緊張度そのものにある。剥き出しになった作家の精神の糸は、鋭く張りながら無限の直線軌道を描く。
 ひらく作品の少女達は一つの基本テーゼを共有している。それは、「私達は汚い爺達とはセックスしても決してお前=読者とはしない」という、恐らく永久に破られることはないテーゼである。云うまでもなく、このテーゼは身も蓋も無いような真実である。しかしだからこそ、ある生々しい強度を伴って我々読者の前に突き付けられてくる、そのような種類の真実である。ならばこのテーゼは一体何処から来るのか。

それで、いつも思うんです。〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね
(『ヒロイン手帖 × 町田ひらく』)

 町田ひらくの根底に抗いがたいものとしてある「相手は僕じゃない」という、論理よりも先に世界に対する肌触りとして先取り的に捉えられた確信は、「思想」よりもむしろ不可侵の「倫理」として氏の作品の底の底に一本の緊張した糸――物語の総ての構成要素がその周りから立ち上がってくるような糸を張る。自分は女の子を抱く側なのか、それとも懊悩を抱えながら憧れだけで終わる側なのか。「本当はどちら側だったのか、答えはとうの昔に出ていたのでした。」*1
 この確信から先のテーゼまでの距離は、己の確信としての倫理、倫理としての確信を読者にも共有させようという一つの「悪意」によって一飛びに埋められる。「ぼくががまんしていることを、やってしまうやつがいることが許せない」と氏は語る*2。氏の苛烈な倫理は自然読者にも向けられる。「僕は思った。『この子(姪)にワルサする奴は殺す』許さないのでは無く『殺す』のだ。」*3ここでの町田ひらくの倫理性は「悪意」を通り越し「殺意」にまで純化している。
 『たんぽぽの卵』11話、単行本103ページに於ける、所謂「死ぬまでなんでもやっていい子」であるところの少女が我々を視る鋭い<眼>。ここでは少女を視ている我々読者を、少女が視返している。だがもちろん媚びている眼ではない。むしろ逆で、徹底的な「拒否」と「拒絶」の<眼>が在る。ここに我々は、作者そのものの、町田ひらくそのものの<目玉>を見い出さざるを得ない。
 我々は、おそらく永遠に町田ひらくが描いた二次元美少女と交わることはできない、という観念を了解するより以前に、ただ少女達の眼差しに既に射られている。ここに論理や抽象が入り込む隙はない。唯一つの苛烈な精神と、作家の目玉と読者の目玉の交差だけがある。

 時々新聞で、というか報道で耳にしますね、「~ちゃん10才が…」
 耳をふさぎたい気分です、できれば知らないままでいたい出来事です、僕の創造の中でしか起こってはダメな事です。だって現実に実行してるヤツがいるなんて…ロリコンの人達に希望を持たせてしまうじゃありませんか、僕も含めて…。
 僕は夢は売るけど希望は絶対に売りたくない。
(『青空の十三回忌』自己解説)

 夢は売るが希望は売らない、これは反転させれば、希望は売らないが夢は売るということである。しかし、それにしてもなんという残酷な「夢」であることか。我々は氏が描いた少女に指一本触れることができない。町田ひらくが完成させた「悪意」の究極が此処にある。
 ひらく作品は「夢」であるというのは精確だ、ただしその夢は「悪夢」であるという意味に於いて。

*1:『たんぽぽのまつり』あとがき

*2:エロマンガ・スタディーズ永山薫

*3:『green-out』あとがき