レンズ的リアリズムと目玉的リアリズム

 「リアリズム作画」と言っても一言でそう簡単に割り切れるわけではない訳で。この作画はリアルだ、もしくはリアルっぽい、と言ったときに、その「リアル」もしくは「リアルっぽい」とは具体的にどういうことなのか、ということをキチンと掘り下げて問われることはこれまでほとんど無かったと言ってもいいと思うんですよね。とはいっても僕自身も上述の問題についての答えを持ち合わせているわけではないし、この記事で「リアリズム」の定義付けをしようなんて意志も毛頭ないけど、ただ最近リアリズム作画について考えることが多かったのでこの機会に僕が考えたことを少しまとめてみようと思ったわけです。
 
 ジャパニメーションには二つのリアリズム作画があると思います。一つはレンズ的リアリズムです。これは客体、つまり対象物をカメラのレンズを通して見られたものとして描き出す手法で、うつのみやさとるが1989年の「御先祖様万々歳!」でやり始めた手法です。

うつのみや 例えば「お化け」っていうのがありますよね。昔から、「お化け」という技法は確かにあったんです。でも、あれは、やっぱり誇張しすぎなんですね。僕が『御先祖様』であらためてやった事というのは、スカッシュと言うんですけどね。例えば、実写のフィルムを1コマずつ送って見てみると、走っている時には、手がブレて見えないんですよ。それは、1/24秒の、カメラのシャッタースピードで捉えているから、ブレるんですね。でも、昔のアニメーションを作った方々は、ブレて描くという選択を取らなかった。その代わりに、デフォルメして、「速く流れているんだよ」みたいな感じで手先をビュッって伸ばしたり、からだ全体のフォルムを人間の骨格からかけ離れた感じで崩したりして、表現するようになった。それがやがて「お化け」と呼ばれるものになり、その表現が一人歩きして、リアルからどんどん離れた方向に行ったと思うんですよ。
 そんな風になっトしまったのを「『御先祖様』で、リアルに戻そうよ」という事だったんです。さっきの投影光もそうなんですけど、描いているキャラクターは置いていて、アニメーションに関する考え方としては「リアルに、実写に戻そうよ」というのが『御先祖様』の方法論なんですよ。
小黒 当たり前になってしまった「アニメ的な表現」を一度捨てて、現実的な動きを描こうという事ですね。
うつのみや ブレに関してなら、実写の映像は1秒が24コマですが、2コマのアニメーションだとしたら、1秒が12コマですよね。同じ動きを、1/12秒のシャッタースピードで撮影したら、1/24秒よりももっとブレますよね。それを考えて動かさなくてはいけない。まあ、ブレに関してはテストケースで、完成されてはいませんけどね。
ウェブアニメスタイル うつのみさとるインタビュー)

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 スカッシュとは具体的どういうものか、というのは実際に見てみるのが一番わかりやすい。上の画像は「ご先祖様」のワンカットですが、見ればわかる通りゴルフクラブを振るときヘッドがブレています。こういうのが「スカッシュ」で、実写フィルムを強く意識した手法であることがわかると思います。このような実写フィルム及びカメラ・レンズを意識したリアリズム技法を総体としてここでは「レンズ的リアリズム」と呼びたいと思います。
 
 もう一つのリアリズムは目玉的リアリズムです。これは大平晋也が90年代にやり始めたもので、うつのみさとるのリアリズムがカメラ・レンズを意識したものであったように、大平晋也の場合は人間の目玉の存在を意識したリアリズムです。具体的にどういうことでしょうか。こちらの場合も一枚のカットを参照しながら確認してみましょう。
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 一見してわかりにくいのが難ですが、黒い部分は目蓋の裏側です。つまりカメラが瞬きをしているんですね。上は「鉄コン筋クリート」(2006年)からのワンカットですが、大平は90年代初頭からこの手法をそれこそ執拗なまでに繰り返しています。

小黒 新章4話(『THE八犬伝[新章]』4話「はまじ再臨」のこと:引用者註)では、今まで見た事のないようなアニメの描写が続出して、僕らはびっくりしました。
大平 そうなんですか?
小黒 ええ。実際に画面になっている事の、どのぐらいまでがプランにある事なんですか? 例えば、カメラが振れるところとか。
大平 それはコンテの段階でちゃんとやってました。
小黒 あるいは、カメラが人間の目線になってて、カメラが瞬きする場面がありますよね。
大平 瞬きは、昔から僕はやっていましたよ。『骨董屋』の時も過去に行く時に、目を開くみたいな感じのところがあるでしょう。僕のパターンです。
ウェブアニメスタイル 大平晋也インタビュー)

 重要な点は、うつのみさとるがカメラ・レンズを媒介にして対象物を描写していたのに対し、大平晋也は人間の目玉を媒介にして対象物を描写していることです。もしくは、大平晋也の場合はカメラ・レンズの無媒介性、つまり対象物をカメラ・レンズを媒介しないで人間の目から直接捉えようとしている、と言い換えてもいいかもしれません。
 人間の目玉によって対象物(客体)を直接捉えるということは、対象の生々しい感触をダイレクトに描き出そうという考え方にも繋がっていきます。実際、「骨董屋」や「八犬伝」における生々しいリアリズムは、うつのみさとるのカッチリとしたリアリズムとは明らかに異質です。ここで僕が言いたいのは、うつのみさとるから大平晋也への影響関係云々といったことではなく、二つの別種のリアリズムが時期をほぼ同じくして並列して存在していた、ということです。つまり、リアリズムは単一の概念ではなく複数的なものであり得る。どちらの方が「より優れている」とか「よりリアルっぽい」というような話ではありません。

 もう一つ。見てきたとおり、うつのみさとると大平晋也のリアリズムはある意味で対極的なものでしたが、一方で共通している面もある。それは、どちらも作画に「見る側」、つまり「主体」の軸を導入しているところです。うつのみやと大平以前のリアリズム作画は愚直に客体をリアルに描くことにだけ専念してきましたが、うつのみやと大平は「客体を見る主体」ということを初めて問題にしてみせた。この、主体という次元の導入と、客体から主体への軸の移動は、発想の転換でありアニメ史におけるある種の革命だったと思います。
 このことを哲学史に置き換えるとうつのみやと大平がやったことは近代哲学を確立したカントに近い(なぜ唐突にカントの名前を出すのかというと、アニメにおける「リアリズム」を、「近代」という広いパースペクティブのもとで考えてみたいからです)。
 物凄く暴力的なまでに要約して言うと、カント以前の認識論は、主体と客体の一致という考えに基いていました。既に存在している客体への主体の一致、事物への観念の一致。カントはそれに対して主体と客体を切り離されているとした(現象と物自体の区別)。具体的に言えば認識は主体と客体の「関係」によって決定される。後の人はこれを「認識論におけるコペルニクス的転回」と言いました。一言でいえば「客体」から「主体」へと軸を移動させたのですが、これはいわゆる「すべては主観的なんだ」みたいな話とは少し違います。ですがそれを説明しているとキリが無いのでここでは割愛します。
 例えばドゥルーズは映画論「シネマ」において、古典的映画から区別される現代的映画の特徴として「時間」が「運動」から逸脱していくこと、つまりカント的な時間を挙げています。

 ドゥルーズは運動イメージから時間イメージへの移行を、哲学史におけるアリストテレス的時間概念からカント的時間概念への移行に重ねている。運動イメージにおいては、時間は間接的に示されるに過ぎない。つまり、行動Aから行動B、そして行動Cへという運動がまずあって、それに付随するものとして時間が現れる。ドゥルーズはこれを指して、「時間が運動に従属している」と言う。これは「運動の数」として時間を定義したアリストテレスの時間概念に対応するのに対し、時間イメージにおいては、純粋な空虚としての時間が直接に示される。つまり、「運動が時間に従属している」。これは感性の純粋形式として時間を定義したカントの時間概念に相当する。
(「ドゥルーズの哲学原理(3)――思考と主体性――」國分功一郎

 カント以前、つまり前近代においては「時間」と「運動」は常に一致しているとされていましたが、カントはその考えを退け、「時間」と「運動」を分離させ、「時間」を主体にアプリオリに備わっている純粋形式(カテゴリー)の一種と定義しました。
 上のドゥルーズの運動イメージと時間イメージの考え方は示唆的で、なぜなら日本のアニメーションもほぼ同じ歴史を辿っていると考えることもできると思われるからです。つまり、主に80年代までのアニメの作画の仕方はポーズ・トゥ・ポーズであり、そこでは動きこそが時間を生み出していると考えられていました(運動と時間の一致)。一方、90年代以後に「ご先祖様」に参加していた磯光雄がやり出したストレート・アヘッド方式のフル3コマ作画は運動と時間を分離させ、時間を純粋な一つの形式として取り出してみせたという意味でカント以降の、つまり近代的な作画と言えます。これは時間を単系的かつ直線的なものとして捉えることを意味するのですが、このことは先のうつのみさとるの1コマを1/24秒のカメラのシャッタースピードとして捉える考え方や、磯光雄のストレートアヘッドの考え方をさらに発展させ理論化させた山下清悟のタイムライン系作画にも共通して言えることだと思います。
 
 以上のことは、1988年に発表された「AKIRA」は前近代的だから駄目というようなことが言いたいのではなく、アニメにおけるリアリズムとは近代的な思想に基づいた、いわば「近代」による産物だということです。実際、ゼロ年代以降に今石洋之周辺のガイナックス系アニメーターがやっている80年代作画のパロディ、サンプリング、コラージュは、単線的な時間や歴史性を脱構築することによって90年代以降のリアリズム作画ひいては「近代」そのものを批判する一つのポストモダン的戦略と捉えることも可能です。
 しかし、僕が思うに、90年代の、それこそ大平晋也やうつのみやさとるがやったリアリズム作画は未だに十分掘り下げた評価や批評がなされていないし、なされていないところでいくら昨今のリアリズム作画について言ったところで空論の域を出ないのでは無いかと思っています。作画批評(そういうものがあるとして)にいま必要とされているのは、リアリズムをリアリズムとして成り立たせていることの条件を検討し、ひいてはリアリズム作画の「可能性の中心」を探る試みではないかと思います。

江藤淳(3)

 ついこの間、近所を歩いていたら景観にふとした違和感を覚えた。そのとき私は交差点で信号待ちをしていたのだが、横断歩道の向こう側に何となく眼をやったとき、これは「何処か」が違うと直感的に思った。違和感の正体はすぐに気づいた。交差点の対角線上に小さな空き地があった。私はその空き地に見覚えが無かったので、少し前までそこに何らかの建物があったのだなと見て取れた。しかし、その建物が何の建物で、何階建で、どのような外観であったか、などがどうしても思い出せなかった。ただ、そこに何らかの建物があったこと、そして今は無いこと、それだけが確かな感触として受け取れた。しいて云えば(それも観念的に云えば)、私が受け取った「感触」とは、かつてあった建物の<存在>と云えるかもしれない。
 このようなかつてそこに在ったであろう<存在>の感触を、江藤淳は「死者たちの声」として聴き取ったのではなかったか。
                  
                  ∴

 こうして犬は死んでしまったが、私は間もなくなにかに挑むような気持で借金をかき集め、このわずかばかりの土地を手に入れた。なにに挑むつもりだったかと訊かれれば、日本の”戦後”という奇怪な時代に、とでもいうほかはないような気がする。
 もとより犬が死んだことと、”戦後”とのあいだには、なんの因果関係もありはしない。しかし大学が封鎖され、学生の暴動がつづいていたあのころ、フランスに留学中の若い友人から時勢を憂うる手紙をもらった際に、私はこういう返事を出した。あんなくだらないことを気にかけるのはおよしなさい。なぜなら流行している議論はすべてインチキであり、騒然として見えるものはすべて仮象だからだ。それよりも私は、飼っていた犬が死んでしまったのが悲しくてならない。
(「場所と私」江藤淳

 江藤にとって戦後とは飼い犬という<他者>の不在(つまり”死”)以外の何物でもなかった。しかもこの他者の死というのは(それがたとえ犬であっても)自分にって最も身近な、交換不可能な一回性的かつ固有的な他者の死である。このような固有的な他者の死は江藤の戦後においてもう一度訪れるであろう。すなわち江藤の父の死である。

日が暮れはじめていた。私は、そういえば大江氏に二年ほど逢っていないことに気がついた。これからも、いつどこで逢うという予定もないので、私は、大江氏と自分のあいだのことに関して、一つだけ機会があったら活字にして置きたいことがあるのを思い出し、メモしておかなければと鉛筆を取り上げた。
 それは、私の肉親の者たちについてのことであった。大江氏が私を罵倒するのも、「敵」扱いにするのも、一種の病気のようなものだと思えばさして腹も立たない。しかし、氏は、ときどきそのエッセイのなかで、ことさらにすでに死者となった私の肉親に対して、侮辱的言辞を弄することがある。これだけは、やめてもらわなければ困るのであった。
 (中略)新しい墓を建てているところなので、祖父母の骨も、父や母の骨も、一族の死者たちの骨はすべて掘り出して、私の住居の仮の祭壇に安置してある。私は、血肉を分けた者として、これらの死者を祀り、辱めから守らなければならなかった。絶対的なものは、現世にではなく、これらの死者たちのあいだにしか存在しないのであった。
(「文反古と分別ざかり」江藤淳

 上の文章が書かれたのは1979年、年譜によれば父の死の約一年後である。絶対的なものは死者たちのあいだにしか存在しない。このパッセージには見かけ以上に重要な示唆が含まれているように思われる。事実、上の二つの文章には(見落としてしまいがちだが)、江藤の、「他者の死」を軸にした一つの思想的転回が込められてる。それは、一言で云えば、サルトル的な実存主義から後期ハイデガー的な存在論への転回とでも云えるだろうか。
 江藤淳の60年代の仕事、例えば「成熟と喪失」などは読めば明らかなように、サルトル的な実存主義(それかもしくはエリクソン的な自我心理学)の影響が濃厚であった。例えばそこで問題になる”死”は、他者の死でなく徹底的に「この私の死」であり、それ以上のものではない。

 俊介がそれによって生きて来たイメイジが完全に崩壊したとき、彼の前にはにわかに実在があらわれる。(中略)役割から解放されたとき、人はそこで日常生活が営まれている社会の次元から、単に存在しているものの次元にすべり落ちる。それは絶望的な体験で、一種の「死」であるが、この「死」は決して空虚ではない。そこでは「死」そのものがものに充たされてしまうからだ。
(「成熟と喪失」)

 「死」とは実在との接触という意味で「生」に触れることでもあり、「喪失」とは一種の「充実」でもある、と江藤はまた書いている。これらの正反対の要素が接触し合う両義的な場においてのみ「成熟」への可能性もまた開けていく、とすればこれは世間一般で云われているような所謂「成熟」という言葉とは縁もゆかりもないであろうことは問うまでもないがここでは惜く*1。「成熟と喪失」は1967年に書かれているが、二年後の講演を元にした著書でも次のように書いている。

 われわれのなかに物事をありのままに直截に見るよりは、幻影や、夢の中で暮らすのをむしろ望むような傾向があるとすれば、これは人間の認識能力の根本に奇妙なディヴィエーションをさそう力が作用しているからだと考えられる。なぜ私どもは物事をありのままに直截に見ることができないのだろうか。このなぜに対して、なぜならばという答えがなされなければならない。それはなにかというと、私は、人間が死ななければならないからだろうと思う。
 人間の前には死というものが立ちはだかっている。人間はいつか死ななければならない。(中略)つまり死というものが、いつふりかかって来るか予測できない可能性として、われわれの前にひそんでいる。しかし、同時にまたわれわれは生存しなければならない。死ぬまで生き続けなければならない。この死と生存というものが、われわれの生の中に絡まり合っている。物事を直截に見ようとすれば、われわれはいやでも自分自身の死、自分の生存と自分の属している集団の存続、というような問題に直面しなければならなくなる。それは人間にとって非常に辛いことである。(中略)そこでその死をことばでおおう作業が始まってくるのだろうと思います。
(「批評家の気儘な散歩」)

 さらに別の箇所では、

 ギリシア人の自然観にしたがえば、自然というものは不変なもの、永久にそこにあるものでした。(中略)――季節が春夏秋冬と循環しているように、動物も、個々の犬やネコや牛や馬は死んでいくけれども、馬という種類、犬という種類、ネコという種類は恒に存在して循環している。
 (中略)しかし、その中で人間だけが生に限りがある。いわばそうして常にぐるぐる円周を描いて回っている世界を、垂直に通り過ぎていくのが人間である。人間には初めがあって終わりがある。生まれて死ぬからです。
(同上)

 上のような実存の捉え方においては、例えば個々のネコや犬の死は問題にならない(これは、自らの死を意識する先駆的覚悟性を備えた現存在と、死を意識しない動物とを厳格に区別した前期ハイデガーの態度とも繋がってくる)。個々の犬やネコはそれぞれの「犬」または「ネコ」といった普遍的なカテゴリーに括られ、各々が持っている固有性は宙吊りにされ、結果として、もっぱら私の死だけが焦点となる。しかし、ほぼ同時期に起きたと思われる(というのは、この講演が行われたのは1969年で、上に引いたペットの死についての文章も「大学が封鎖され、学生の暴動がつづいていたあのころ」というパッセージから1969年前後だと推定できるからだ)彼が飼っていた愛犬の死は、自らのそれまでの思想にある種の<転回>を、それもかなりの抜き差しならないレベルで要請したであろうことは想像に難くない。
 江藤はある日軽井沢にとある場所を見つける。彼はその場所に老いた愛犬を連れて行きたいと思った。

 ここに犬と一緒に座り込んで、あの山をぼんやりと眺めたらいいだろうなどということを、私はやや無責任に想像した。そのころの私は、自分の内面についても家族のことについても、自分の仕事についてさえもなにひとつまとまらずに、暗澹たる毎日を過ごしていたものだ。わかっていたのは、早くしないと老いた犬が死んでしまう、ということだけだったといってもよい。そして実際、犬は私がはじめてこの場所を見に来た翌々日に、私の腕のなかで死んだ。私は身体の暖もりが少しずつ冷たくなって行くのを掌に感じながら、声もなく涙を流した。
(「場所と私」)

 江藤は愛犬が死んだ後借金をかき集め、その場所にわずかばかりの土地を手に入れそこに小屋を建てた。恐らくそれは彼にとって死んだ愛犬の墓標のようなものであったかもしれない。さらに江藤はその小屋に父を招いて一緒に住みたいと考えはじめた。彼は自分の父とは生来まったく馬が合わなかった。云うなれば、江藤にとって父とはコミュニケーション不可能な<他者>として彼の前に現前していた。だが結局、老父は歩行不可能になったため計画はついに実現することはなかった。「どこにもない場所につくりあげた隠れ家」と江藤は書いているが、その場所とは限りなく死者たちの側に近い場所であったはずだ。彼は、死者たちの世界に建てた愛犬の墓標の中で一人佇む。父が死ぬのはその7年後のことである。
 さて、これまで江藤における「私の死」から「他者の死」への傾斜という思想的転回を見てきたわけだが、もちろんここには(例えば上野千鶴子が「成熟と喪失」の解説で述べているような)「治者」の回復などというナイーブなファクターが介入する余地はない。<父>、もしくは<アメリカ>といった大文字のファルスは、死者たちの声という複数的な<他者>によって揺るがされる。念を押しておけば、この<他者>とは例えば柄谷行人の<外部>のように抽象的な概念ではなく、もっと血の通った、ひとりひとりの顔が見えるような、そのような固有性と相対性を持った<他者>である。江藤淳は1985年の時点で柄谷の「外部」について懐疑を表明している*2。柄谷の使う<外部>では個々の死者の霊たちを捉えることはできない。(前回書いたように)江藤はGHQによって検閲された文章=エクリチュールから死者たちの声=パロールを聴き取ろうと耳を澄ました。この、エクリチュールとパロールの間の危うい均衡と緊張が、やがて江藤自身を死へと傾斜させていくことになるのは半ば不可避的であったかもしれない。

*1:例えば柄谷行人福田和也との対談「江藤淳死の欲動」において、小林秀雄江藤淳を比較しながら次のように発言している。「認識する欲望が、小林秀雄にはあるし、僕にもあるけれども、江藤さんにはあまり無いんですね。認識の欲望がない代わりに、死の欲望が強くて、それに耐えるのが「成熟」であり、それを懐疑的に語るのが「批評」であったという感じがします。」

*2:「六十年の荒廃」

江藤淳(2)

 西田幾多郎を読んでいると時々意表をつくような文章に出会えることがある。例えば次のような文章。(太字引用者)

 『哲学研究』第百二十七号に掲載さられた左右田博士の論文を読み、私は近頃初めて理解あり権威ある批評を得たかに思う。今間を得て、私の考える所を述べ、更に博士の高教を乞いたいと思うのであるが、詳細に私の考を述べるのは今後の論文に譲りたい。「場所」の終において、私は多少従来と異なった考に到達し得たかと思う。無論、それは他から見て何らの価値もない私の幻覚に過ぎないかも知らぬが、私は今後姑くその立場によって、私の思想を精錬し発展して見たい。
(「左右田博士に答う」西田幾多郎

 上の文章は、左右田喜一郎の「西田哲学の方法に就て」という批判論文に対する西田からの応答論文であるが、自分の思索は単なる主観的な幻覚に過ぎないかもしれない、といういささか当惑してしまうような発言は、しかし単なる形式的な謙遜でも韜晦でもなく、西田の本心から言わせたものであったと私には思われる。この、私が受け取る直接性のみが真なるものである、という一種の信仰告白は、例えば、小林秀雄の以下の文章とも正確に対応するものである。

 人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼(=ボードレール(引用者註))の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!
(「様々なる意匠」小林秀雄

 「己れの夢」という直接性を懐疑的に語ることによって、批評は初めて一つの作品として自律し得た。近代批評の始まりを謳いあげた小林の文章と、哲学の側から発せられた西田の文章を等置することによって、「主観的な直接性」という信仰が、個人の問題に収まらない、いわばひとつの時代精神による産物であったことが自ずと明らかになる。併せて、上の小林の思索態度を端的に示すエピソードを引いておきたい。

 映画などを漠然と見物している時、つまらない樹の佇まいだとか、ほんの人間の表情だとかが、過去の経験と結びついて、驚く程深い感動を受ける事がある。そういう時自分が今こんな具合な気持ちで画面を眺めている事は誰も知らぬと思う。
(「批評について」小林秀雄

 何処にでもあるようなつまらない樹が、ふとした契機で驚くべきほどの豊かな直接性と現在性を湛え始める。小林秀雄は常にこのような情景を見ていた。もちろんそれは、小林だけではなく世代的に共有されている情景でもあった。
 それでは、江藤淳は、小林秀雄とは世代を異にする彼は、どのような情景を見ていたのであろうか。昭和54年の9月初旬のある水曜日、なじみの理髪店で散髪をすませた江藤は、銀座東急ホテルの裏手のタワーパーキングに預けてあった車を出し帰途に着く。日は暮れかけている。奇妙に静かな夕暮れでもあった。「銀座街頭には人通りも少なくないのに、物音がほとんど聞こえないのである。」桜田門の警視庁の工事現場前を通り過ぎ、国会の下手まで来たとき、信号が赤に変わった。江藤は、サイド・ブレーキを引いた。

 車の窓越しに見る西の空には、どういうものかまったく奥行きというものがなかった。
 それは広重や清親の空というよりは、むしろ芝居の書割の空に似ている。そして、僅かに夕映をとどめたこの奥行きのない空を背景に、国会議事堂が黒々と大きなシルエットを浮かび上らせていた。
 国会正門前の信号は二つとも緑で、夕闇を貫いて、にじむように輝いている。議事堂の右手には、残照を受けて麹町から九段へかけてのスカイラインがひろがり、それもまた少しも奥行きを感じさせなかった。
 私はなぜか、この風景を覚えておかなければならないと思っていた。ただ美しいからというだけではなくて、そのなかになにか自分にとって重大な意味が隠されているように感じられたからである。
 車があたりにひしめきあっているというのに、相変わらず物音は聞こえない。
(「生者と死者」江藤淳

 上の情景は、小林や西田が体感していた情景とは明らかに何処か異質である。江藤が体感した情景は、例えば永井龍男の短編「私の眼」の主人公が物語の最後で体感する情景ともどこか似かよっている。

 軽く肩をたたかれたような気がした。私は眼を上げた。
 そして、私は見た。
 パーラーの内部は、まったく色彩を失っていた。生牡蠣の肉を見るような、すべてが薄青く、薄白い半透明さの室内は、ひっそり静まり返っているのだ。
 何か、過去に記憶があった。私はあせっていた。
 そして、一つのことに思い当たった。
 これは、テレビの映像に似ている。音を消して、画面の動きだけを見ている時の感覚だと思った。
 しかしそれは似ているのであって、それではなかった。なにかもっと、不気味な世界が眼前にあるのだ。何一つ動くものはないのに、何か動いている……。
(「私の眼」永井龍男

 江藤も「私の眼」の主人公も、共に「直接性」や「現前性」からかけ離れた情景を見ていることは確かである。そこには、奇妙なほど奥行きがなく、そして物音もない。ゼロ年代以降さかんに喧伝されたスーパーフラット的な情景を、江藤は1970年代の時点で体感していたのだろうか。
 江藤は上で見た情景を「日本的な風景」だと云う。また、小林―西田的な情景と江藤―永井的な情景を分かつ線を引くとしたら、当然戦争終結時に引かなければならない、と江藤なら云うだろう。江藤淳永井龍男も戦後の文壇人である。戦後とともに風景が変わった。だが、なぜ戦後なのか。江藤的に云うなら、そこには云うまでもなく占領期の米軍検閲が関わってくる。
 江藤淳は、1979年の10月から国際交流基金派遣研究員としてワシントンのウィルソン研究所に赴任し、占領下日本でのGHQの検閲の実態を調査する作業に没頭することになる。その偏執的な熱意はある種ファナティックですらあり、かの福田恆存ですら揶揄するほどであった*1。一体何が、江藤をここまで駆り立てたのか。それは、福田恆存が云ったような単なるスタンドプレーに過ぎなかったのか。おそらくそうではあるまい。
 ここでまず確認しておくべきことは、占領軍の検閲が、検閲制度の存在への言及自体をも検閲の対象に含まれるという、いわばメタ検閲の性格も備えていたという点である。ここに占領時検閲の本質と特異性がある。これにより日本国民には検閲の存在を知られないまま検閲を行うことが可能になった。江藤淳の表現を借りれば、「日本人は鏡張りの部屋に閉じ込められたようなもの」であり、「この鏡はこちら側から見ればまさしく鏡としか見えず、自分の顔以外なにも写さないが、あちら側、つまり占領軍当局と米国政府の側から見れば実は素通しのガラスで、部屋の中の様子は細大洩らさず、手に取るようによくわかる仕掛けになっている」ものであった*2
 それでは実際の検閲はどのように行われたか。例えば、江藤淳はウィルソン研究所のプランゲ文庫のファイルの中から、七カ所にわたって削除を命じられている柳田国男の「氏神と氏子」の校正刷りを発見する*3。そこで、削除を命じられた初版のテクスト(原型)と現在一般に流通している定本の中のテクストを比較してみると、初版テクストで削除された7つの箇所が、「定本」ではほぼ同じ字数の全く異なったテクストで埋められていたことを発見する。要するに、通常の検閲のように、「□□□」などで検閲した痕跡を残すのではなく、異なるテクストで空白=欠如を埋め合わせることによって検閲そのものの存在自体をも隠蔽したのである。これらのことは見かけ以上の重大さを秘めているように思われるし、江藤自身もそのことに気づいていたに違いない。「欠如」すらも隠蔽されること。「欠如」の欠如。
 ここで注意すべきなのは、これらのことが、もっぱらテクスト、つまりエクリチュールの次元の問題であるということである。テクストの根源的本質である「書き換えられる可能性」に江藤はほとんど直感的な嗅覚でもって着目した。その意味で、江藤のこの時期の検閲論は総て江藤なりのテクスト論なのである*4
 とはいえ、もちろんこれだけでは江藤の占領時検閲に対する取り組みに於けるオブセッショナルな「過剰さ」は説明できない。江藤に取り憑いていたもの、それは端的に云えば「死者の声」、もしくは「霊」である。江藤は検閲により改竄された「かえる霊」という詩を引用しながら次のように云う(太字引用者)。

 この奇妙な“詩”が“表現”している言語空間は、文字通りそこから完全に「霊」が抹殺され、拒否された空間である。
 (中略)一見してわかるように、この“詩”は不具な詩である。詩人がありありと身近に感じている「霊」たち、つまりは超越的な存在への言及が禁じられている以上、それは倫理的にはもとより、美的にもいちじるしく限定された詩にならざるを得ないからである。
 この連載(=「落ち葉の掃き寄せ」(引用者註))の第四回目で、私は、河森好蔵氏の『静かなる空』に触れながら、戦後の言語空間が、実は“閉ざされた言語空間”にほかならなかった所以を詳述した。だが、この“閉ざされた言語空間”は、また同時に「自然と人」しか許容せず、すべての「霊」たちを抹殺した、奇妙に平べったい言語空間でもあったのである。
(「『かえる霊』と拒まれた霊」江藤淳

 江藤淳の得体の知れぬ「過剰さ」がここにある。テクストから「霊」を、「死者の声」を聞き取ろうとする試み。「死者の声」はテクストの隙間から、つまりは「欠如」からやってくる。注意すべきは「死者の声」はパロールと同じものではないということだ。江藤淳はパロール主義者であるというような安直な批判をよく耳にするが、それは当たっていない。ここでの「死者の声」は、パロールというよりも、むしろデリダ的な原エクリチュールに近い。「欠如」を埋め合わせる検閲は、原エクリチュールを圧殺し、テクストを奥行きのない奇妙に平べったい風景に変える。そこでは、死者=他者は常に既に死に絶えている。江藤がかつて黄昏時に見た風景は、死者が死に絶えたこのような風景ではなかったか*5
 霊の声は圧殺され、死者が死に絶えた、そのような情景が戦後だとしたら、小林秀雄が戦時下に書いた次の文章は、死者がまだ死に絶えていなかった未だ幸福な時代を象徴していると云えるかもしれない。

 又、ある日、ある考えが突然浮かび、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか、鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは人間になりつつある一種の動物かな」
(「無常という事」小林秀雄

 小林秀雄の言葉を裏切るかのように、戦後に現れた風景は、人間になりつつある一種の動物が、その死とともに死に絶える、そのような風景であった。

*1:「問い質したき事ども」福田恆存

*2:「千九百四十六年憲法――その拘束」江藤淳

*3:「『氏神と氏子』の原型」江藤淳

*4:同様のテクストの改変に対する執着は「昭和の文人」などにも見られる

*5:本が手元に無いので正確な確認と引用ができないのだが、確か「戦後と私」で、江藤が故郷である大久保の生家があった場所を戦後になって訪れたところ、ラブホテルが建っていて「これが自分にとっての戦後だ」と憤慨する一節があるのだが、もしその場所が何もない空き地だったら、つまり「欠如」であったら、江藤はあれほど憤慨したであろうか。もしくは逆に、もしラブホテルではなくそこに何の変哲もない民家が建っていたら、江藤はまったく憤慨しなかっただろうか。江藤が憤慨したのは、「欠如」を別の何か(ここではラブホテル)で埋め合わせられたからではなかったか