江藤淳(1)

 1999年。この年、児童ポルノ法の制定と江藤淳自裁という二つの出来事とともに20世紀は幕を閉じた。それは、とりもなおさず同時に批評の歴史の終わりをも意味していた、というのが私がここで提示したい仮説である。
 児童ポルノ法の制定と江藤淳自裁は一見無関係に思える。しかし、この二つの並行して起こった出来事は、その実細く張り巡らされた糸によって緊密に結びついていたとしたらどうだろう。というようなことを書くと、江藤淳は実はロリコンであった、などというような下世話な与太話と受け取られかねないが、もちろんそうではない。私がここで問題にしたいのは、ひとつの時代精神、おそらくは戦後から児童ポルノ法の制定によってピリオドを打たれる1999年までの時代精神と、その時代精神に常に寄り添ってきた(江藤淳という)ひとつの個人の精神の絡み合い、である。といっても、一回分の記事の文章に纏めるのはしんどいので、今後気ままに少しづつ書き足していくという形式を採りたい。もちろんこれは希望的観測に過ぎないので飽きたらほっぽり出す可能性もある。要は気分次第である。

 スクリーンの向こう側にあるのが大きな物語であろうとデータベースであろうとぶっちゃけ自分にはどっちでもいいし、どうでもいい。スクリーンの向こう側に物語を志向する人間もデータベースを志向する人間もスクリーン自体は見ていない。自分がアニメを見るにあたって、スクリーンを虚心になって見るということ以外に自分に課している制約は特にはない。それは例えば小林秀雄が骨董やゴッホの複製絵を愛でたようにアニメを愛でるということに近いかもしれない。自分が言語化したいのは、スクリーンから受け取る「直接性」であって、作品を単位にして何かを語ったり批評したりすることは本当は嫌いである。スクリーンから立ち現れる直接性は、究極的には「作品」という制度的イデオロギーを瓦解にまで追い込むだろう。しかし本当の問題は、そのような「作品=物語」を解体させるに至るまでスクリーンを直視する「眼」にある。例えば小林秀雄は「美を求める心」において「眼」の鍛錬について語っている。

 極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。(中略)頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何を措いても、見ることです。
(中略)見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。(中略)頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。
(「美を求める心」小林秀雄

 さらにはこんなようなことも。

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
(同上)

 世のアニメ批評家と呼ばれる人種はどこまでも眼を閉ざして空疎なお喋りに耽っている。頭で考え、眼で見るということをしない。物語について語りたいのなら小説でも読めばよろしい(アニメ原作があるなら原作を読めばよい)。アニメーションという媒体の「特異性」についての反省や省察がまったく欠けていると言わざるを得ない。
 アニメを見るという行為は、不可避的に見る者を失語状態に追いやる限界経験でなければならず、そのためには見る者に眼の鍛錬を、更には、「物語」や「意味」や「想像力」を切り裂き内破させる「極北の眼」の会得を要請するだろう。

スクリーンの手前で立ち止まること

 野田努初音ミクの製作者佐々木渉との対談においてこんな発言をしていた。

野田:ブラック・ドッグですかぁ。それは面白いですね。当時のテクノはロックのスター主義へのアンチテーゼというのがすごくあって、自分の正体を明かさないっていう匿名性のコンセプトがすごく新鮮でね。売れはじめた頃のエイフェックス・ツインもたくさんの名義を使い分けてましたね。後からあれもこれもエイフェックス・ツインだったという、リスナーに名前を覚えさせないという方向に走ってましたね(笑)。
 で、ブラック・ドッグは、匿名性にかけてはとくにハードコアな連中でね、当時は『NME』が紹介したときも顔がぼけた写真しか載せなくて、まともにインタヴューも受けなかったんですよ。作家の優位性みたいなものへの否定もありましたからね。いちど作品を投げてしまったら、どう解釈されようがそれは受け手の自由であるという態度がいっきに広がった。作品は作り手のものであって、正しい解釈がひとつしかないというふうに限定されることをすごく忌避していた時代でしたよね。いまでもよく覚えているのは、『スパナーズ』で初めてブラック・ドッグがインタヴューを受けたときのことです。当時としては画期的な、チャット形式でのインタヴューをやったんですよ。姿は見せない、「<<......」という記号が入った、チャット形式のインタヴュー。彼らの発言はドットの荒いフォントで載って、写真はなし。

 アニメーターの世界についてもほとんど同じことが云える。アニメーターもまた匿名性を重んじ時に複数の名義を使い分ける(例えば森山雄治竹内哲也)。メディアへの露出の拒否という点では田中宏紀をまず思い浮かべる。第62回アニメスタイルイベントに一度出席したようだがそれ以外では公の場に出てくることはまずなく、もちろんTwitterなどもやっていない。典型的な職人気質なアニメーターの一人であろう。
 このようにテクノのクリエイターとアニメーターは作家主義へのアンチテーゼとしての匿名性の強調という点では一致している。しかし、アニメにおいてはアニメーターの匿名性が、逆説的なことに別種の作家主義の亡霊を呼び起こす基盤になっているという皮肉な実態がある。別種の作家主義とは云うまでもなく監督という作家主義である。例えばエヴァンゲリオンを評論しようとする人間は大抵においてエヴァンゲリオンという総体もしくは細部を庵野秀明という監督個人の作家性に無批判に結びつけて論じようとする傾向がある。これは図らずもスクリーンを透明なものとみなし視聴者と監督=作家が直接的にメッセージを交換し合うことが可能であるという暗黙の前提に立脚している。しかし、これはもちろん誤りである。
 スクリーンを透明なものと見なし、そこから監督=作家の意図や思想を直接的に掴み出そうとする試みは野蛮であり、悪しき作家主義の一変種に過ぎない。問題は、視聴者と監督を媒介するスクリーンの表面上に蠢く無数の分子的な匿名的個人=アニメーターの存在であり、彼らに目を向けるためには、まず「スクリーンは透明である」という盲目的なイデオロギーを破棄することから始めなければならない。スクリーンは徹底的に不透明なものとして我々に対して現前し、ときに解釈を執拗に拒絶する抜き難い物体性を持っている。しかし、全能性を断念したところにしか生きた解釈は生まれ得ない。