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noteに東山翔論をアップしました。

noteに『東山翔論――絶対的自由へ向けて』をアップしました。
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最終章以外は無料で読めますが、当方万年金欠ですのでsubscribe感覚で購読して頂けると助かります。
とはいえ、はやくも全文を書き直したい(特に4章以降)という誘惑に駆られていますが、それでもあえてこのテクストでの議論を乱暴に図式化してみるなら大体以下のようになるでしょう。
まず、マンガなどの二次元表現の領域には大雑把に、実在/非実在という二項対立があります。主に「表現の自由」を守ろうとする運動は、多かれ少なかれマンガ表現を「非実在」の側に置くことによって、あらゆる反道徳的、暴力的な表現を「想像力」に還元し免罪することでかろうじて「自由」を担保する試みだと言ってよいでしょう。また他方で「想像力」は、震災やアウシュヴィッツなどの、現実におけるなんらかのトラウマ的な事象に対しても、「想像せよ」という形で、現実に対する何らかの批評的な眼差しを向けることを可能にするとされてきました。
ところが、ロリ漫画、特に東山翔の作品は、ある意味で「現実=実在」が常に「想像力=非実在」に先行してしまうという意味で、根源的な転倒を孕んでいます。そこでは、実在/非実在を分かつ「/」という境界=前線が、「非実在」を飲み込み、外へ外へと溢れ出ていくかのようです。それは端的に言えば、前線が「内部」をすべて含み込んでしまったという意味で「外部」が何もない世界です。東山翔の作品では、すべてが虚構=非実在であると同時に、現実=実在でもあり得る。「実在」と「非実在」が等価であり並列している。
しかし、それでは、そのような「外部」のない世界において、それでも「外」があるとすれば、また「倫理」があるとすれば、それはどのようなものなのか。またそこにおける「自由」とはどのようなものでありえ、かつ作家が線を引く営為はどのような意味を持ちうるのか。
このテクストでは、それらについての答えをはっきりと提示することはできませんでした。白状すると「わからない」と言ってもいい。
このテクストにおける議論の混乱と迷いは、端的に言ってこの「わからなさ」に起因しています。
ただ、このテクストが何らかの端緒となり、有益な議論か何かに発展してくことでもあれば、とりあえずこのテクストの役目は果たされたと言うべきでしょう。

想像力は死なず、え、死んだって、そう、では死せる想像力よ、想像せよ。
(『死せる想像力よ想像せよ』サミュエル・ベケット