雑感

 それにしても、と僕は思う。

日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。
(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀

 東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。
 「巧いアニメーターを語ろう!」というタイトルのスレッドが2ちゃんねるに立てられたのが2001年の12月20日で、これが事実上の作画スレの記念すべきPart1ということになっているらしい*1。これより以前は、インターネットの掲示板で作画について議論を交わすといったこと自体が考えられないことだったわけで、云ってみれば作画スレの登場は、やや大袈裟に云えばアニメに対する一種の認識論的転回でもあった、と云っても云い過ぎではないだろう*2 これらは、アニメの作画をただ見るだけでなく、批評的に見ることへの可能性を開く端緒にもなったのではないか。現に、沓名健一や山下清悟などの作画スレ上がりのウェブ系アニメーターの、作画スレでの議論を通じて知識を培い昇華した(かどうかは本人にしか知らないだろうが)独自の理論とその応用としての実際の作画技法には、作画に対するある種の批評の姿勢を感じる。実際、山下清悟が松本憲生の作画の精緻な解読から導き出して理論化した「タイムライン系作画」を巡る氏の論は、少なくとも僕の目には批評的に映った*3。それはもはや単なる作画語りではなく、確かに批評の感触があった。アニメをこのような視点から批評できるという事実に目から鱗が落ちる思いだった。もちろん山下は当時の批評界隈、換言すればゼロアカの言説空間とは無縁の人間であり、それが氏の議論を自由なものにもしていた。しかしそれは山下が批評的な感性に先天的に優れていた、換言すれば特異的なケースだったからであって、幸か不幸か批評界隈と作画界隈との断絶は、今に至るまで作画批評の本格的な出現を拒む遠因のひとつになっているように思われる。
 ゼロ年代のアニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志斎藤環東浩紀やその取り巻きはアニメ作画を完全に無視したし、作画オタクも東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブ系アニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。といっても、この辺りは少しだけ釈明が要るかもしれない。一般的な作画オタク的教養では、ウェブ系アニメーターが立脚する点はうつのみや理であり松本憲生でありまた磯光雄であるとされている。僕の感触では、磯光雄が始めたフル3コマという動画を媒介する必要のない革新的技法が、個人でフラッシュアニメやGIFアニメを作っていたアマチュア時代のウェブ系に多大なインパクトを与えたであろうことは想像に難くないと思っている。分業を介さない、一人でも作画が可能であるということを磯光雄は商業アニメにおいて証明しかつ実践してみせた。この、ウェブ系と磯光雄が共有する職人気質といえるような徹底的な個人主義(一人でアニメを描く)という思想は、しかし元を辿れば手塚治虫に端を発すると考えることもできる。以前の記事でも何度か引用してるので細かい部分は割愛するが津堅信之の「アニメ作家としての手塚治虫」によると、手塚治虫は「アニメは一人で作れる」という理念を持っており、虫プロを「個人作家の集団」と規定していたらしいことがわかる。

「手塚さんは、虫プロをやる段階で商業作品と芸術作品とをやろうと考えていて、当時はその程度の話しかしていなかったんですが、後々になって、あの人の出方というか、我々に対する態度を見ていると、漫画部のアシスタントへの態度と我々への態度とは違うんですよ。……そのうち『お前たちも実験作品を作れ』という話になって……要するに虫プロというのはひとつの『場』なんだということです。……『あなたたちは、ぼくと同じ対等の作家で、作家が集まって虫プロダクションをやっているんだ』と、彼はそう言いましたけど、それがあの人の虫プロに対する願望だったと思うんです」
(「アニメ作家としての手塚治虫津堅信之

 つまり虫プロは極めて個人主義的な色彩の強い職人集団であった。この手塚治虫の思想を、同じく手塚治虫がアニメーションに導入した3コマ打ちという技法をさらにラディカルに押し進めることによって徹底化したのが磯光雄であり、その過程で生まれた技法がフル3コマであった、というのが自分なりの「史観」である。要するに、ウェブ系アニメーターも松本憲生磯光雄も、その元を辿れば手塚治虫に行き着くのであって、ゼロ年代中盤以降のウェブ系の全盛は一種の手塚ルネッサンスであった、と云ってもいいのではないか。漫画批評の側で手塚神話の破算が唱えられていたのと同時期に、アニメ作画の側では一種の手塚ルネッサンスが起こっていた、という興味深い現象は、しかし同時にサブカル批評と作画語りの断絶の深さを端的に示すものでもある。とは云うものの、テン年代に入ってウェブ系の活躍にも陰りが見えはじめていることも確かである。手塚治虫は二度死につつある。

*1:この辺りは当時の現場にオンタイムで立ち会っていなかったこともあって非常に断片的な知識しか持っていない。作スレの歴史については以下も参照 http://anond.hatelabo.jp/20110827031238 http://www18.atwiki.jp/sakuga/pages/36.html

*2:といっても作画スレが始まる前にも例えばWEBアニメスタイルが2000年から登場してるし、そもそもそれ以前から作画オタクは存在していたはずだろう。僕は80年代以前のアニメについては無知に等しいからカンで云うしかないけれど、例えば「銀河鉄道999」に熱中していた人間、つまりオタクは等しく金田伊巧の名前くらいは知っていたはずだと思われる。しかし90年代以降、特にゼロ年代にもなるとアニメオタクと作画オタクの分化と棲み分けが決定的なまでになる。例えば村上隆は自己の「スーパーフラット」という概念の正統性を語る文脈で金田伊巧を持ち出すが、彼は恐らくゼロ年代以降のアニメーターについては一人も知らないだろうと思われる。要するに90年代以降の作画オタクはオタクの中でもアウトサイダーな存在だったのだ。これらは作画オタクがゼロ年代初頭に至るまで作画について語る場=コミュニティを持たなかったこと、さらには作画に関する批評が育たなかったことともおそらく関連する

*3:http://bokuen.net/interviews/yahi.html