日記1 (2015.8.30)

個人的に書き貯めている日記から一部を抜粋(日記なので思いつきで書き飛ばしている部分あり)。

2015年8月30日

 ドゥルーズマゾッホとサド』読了。なんとなくだがこの本はフーコーに対する当て付けのように思われた。その理由として、まず、この書においてドゥルーズマゾッホの革新性を説き相対的にサドを貶めているが、フーコーは熱烈なサド読者であった点(高等師範学校時代のフーコーはサドの熱烈な愛読者であり、サドの愛好者ではない連中に対する軽蔑を声高に公言していたので同級生からキチガイ扱いされていたというエピソードはエリボンの『ミシェル・フーコー伝』にも記述されている)。そして、ドゥルーズがこの書の中で、マゾヒストとサディストが邂逅すると何が起こるのかという笑い話(マゾヒストを痛めつける=悦ばせることをサディスト側が拒否するであろうという笑い話)を引きながら、真のマゾヒスト(つまりドゥルーズのこと)であれば、マゾヒスト側もまたサディストを拒否するであろうと言っていること。つまり、マゾヒストとサディストは永久にすれ違うであろう、ということ。これは、一言でいえばドゥルーズからのフーコーに対する拒否=<ノン>の意思表示であろう。『マゾッホとサド』を読んだフーコーがどのように思ったか定かでないが、恐らく良い気分はしなかっただろう。そして、ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』の出版以降いよいよドゥルーズフーコーの関係は不穏なものになってくる。例えばフーコーは『アンチ・オイディプス』をセリーヌ的口調が気に食わない書物というようなことを知人に漏らしていたという(『ドゥルーズガタリ 交差的評伝』)。さらに、フーコーは「性の歴史一巻」『知への意志』を刊行しフロイト的<欲望>概念を厳しく批判したが、この批判の射程には『アンチ・オイディプス』はもちろんだが『マゾッホとサド』も当然含まれているに違いなかった。『マゾッホとサド』では<快楽>への到達を宙吊りにすることによって<欲望>を持続させるマゾッホ的な態度が称揚されていた。これらのフーコーによるDISに対してドゥルーズは直ちにアンサーの書簡を送る。『欲望と快楽』という題で後に公表されることになる書簡の中で、ドゥルーズは再びマゾッホを持ち出し「きみ(=フーコー)の言う<快楽>は<欲望>を中断させるための障壁でしかないと思う」というようなことを書く。フーコーはこの手紙に激怒しドゥルーズと二度と会わない決心をし、事実これをきっかけに二人は死ぬまで会うことがなかった。注目すべきは、ここでもサドとマゾッホの対立が問題になっている点である。サド=フーコーマゾッホドゥルーズは永遠に相容れない、すれ違いを運命づけられていたとしか思えない。後世の人間たちはとかくフーコードゥルーズの「友愛」みたいなことを口に出したがるが、そのような態度は単に偽善的だけでなく二人の間にある思想的差異を糊塗し隠蔽してしまいかねないという意味で有害ですらあるのではないか。と思った。

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』私的私感

 アニメーションとは魔法である。なんという単純なアナロジー。なんという分かりやすいメッセージ。しかし、内容と形式が完全に一致したとき、すなわち、アニメーションとは魔法である、というメッセージをまさしく魔法のような完璧なアニメーションによって提示されたとき、我々はそのあまりにも単純かつ強度を湛えた真理を前に言葉を失うしかない。今どき、アニメーションに対してこれほど誠実かつ子供心を忘れずに向き合って制作している人たちと、それを支える(主に海外の)アニメファン層が存在する、という事実にも救われる気持ちがする。
 だが、それと同時に、というかそれがゆえに、このアニメにはある種の「捻れ」とでもいう他ない要素が不可避的に貫入しているようにも思える。それは、これまであまり指摘されなかった「人種」という要素である。前作の無印版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『LWA』)では人種という要素はほとんど表に出てこなかった、というか私は今作によって何気に初めて主人公のアッコが日本人であるという設定を知った。物語中盤、パレードに向けて準備中のアッコに向かってダイアナが以下のような揶揄的な台詞を放つ。「東洋の島国から来たミーハー魔女のくせに」。この言葉に対してアッコがどのような言葉を返したのかはよく覚えていないが、それにしてもこの台詞はちょっと衝撃だった。思えば序盤に映し出される教室風景でもクラスメートに黒人の少女が混じっていたが、そのときは『LWA』がモチーフとしているカートゥーン的な意匠の一つに過ぎないのだろうとあまり気に留めることもなかった。しかし、恐らくそれだけではないのだ。監督の吉成曜含めた製作者たちは、たぶん意図的に「人種」というファクターを今作『魔法仕掛けのパレード』に忍び込ませた。つまり、日本人である我々が主にディズニーアニメからの技術輸入に拠った、すなわちアメリカを出自とするアニメーションを制作するというのはいかなる行為なのか、という所謂<ジャパニメーション>の起源と出自に差し向けられた問題意識がそこにはある。(ガイナックス時代からすでに顕在化していた)『LWA』におけるカートゥーンアニメ的な意匠も、恐らくこの問題意識と無関係ではない。「東洋の島国から来たミーハー魔女」とはまさしく吉成曜(と彼を含めた製作者たち)自身のことであり、そしてこのミーハー性を作り手自身が意識することは、図らずも<ジャパニメーション>といういささか奇形的な表現形態の隠された始原を明らかにすることでもあった。言い換えればそれは端的に言って、日本/アメリカという対立項をふたたび自分たちの中に内包させることをも意味している*1
 話を急ぎ過ぎた、いや、急ぎ過ぎていないか。話を少し変えよう。無印版『LWA』は、幼少時のアッコが親に連れられて観に行った魔女シャイニィシャリオのショーで魔法の魅力に目覚めるシークエンスから始まる。若手アニメーター育成事業『アニメミライ』に出品されたこの作品が、若手アニメーターが「魔法学校」であるところのアニメスタジオに入って修行する、という一種のアニメ業界的寓話=メタアニメとして作られたということはこれまで散々言われてきた。それでもなお、このオープニングのシークエンスに限っては、これは吉成曜の私的体験がベースになっているのでは、と思わずにいれない。吉成曜は恐らく幼少時に親に連れられて映画館でアニメ作品を、それもたぶんディズニー映画を観たに違いない。それが一種の原体験となり、吉成曜がアニメ制作を行う際に常に立ち戻ることになる定礎として機能しているのではないか(もちろん以上のことはすべて私的な妄想であり事実とは異なるかもしれない、あしからず*2)。少なくともそのように考えれば、『LWA』における日本/アメリカという分裂と葛藤がより腑に落ちるものとして理解されるのではないか。
 もう少しアニメ表現面にも目を向けてみよう。『LWA』のキャラデザは非常にカートゥーン的(『LWA』におけるカートゥーン性がもっとも際立っているキャラは言うまでもなく『魔法仕掛け』に出てくる市長であろう、というかどう見てもタウンズヴィルの市長にしか見えないのだが…)と言っていいが、例えば『魔法仕掛け』の中盤でアッコたちと悪ガキが乱闘になるシーンは、殴る蹴る等のアクションひとつ取ってもジャパニメーション的なリアリズム表現に貫かれており、アメリカのカートゥーン的なデフォルメ暴力表現とはかけ離れている。すなわちここにも日本/アメリカの分裂と混合がある。
 『Kickstarter』による海外アニメファンからの出資によって、海外のアニメファンに向けて自分たち日本人がアメリカ的カートゥーンスタイルでジャパニメーションを作る、という捻れ構造が『魔法仕掛け』でより一層明確になると同時に、吉成曜と製作者たちもそのような構造をより鮮明に意識するようになった、せざるを得なくなった。もちろん『LWA』には所謂「クールジャパン」的な驕りは一切存在しない。むしろ、唯一の日本人であるアッコは一貫して魔法学校内の落ちこぼれとして描かれていた。しかしそれでもアッコは日本/アメリカという葛藤と分裂を生きながら仲間と力を合わせてパレードを成功させる。ここにこの作品の感動がある。
 とはいえ以上に示した捻れ構造は、何も『LWA』に限った話ではなく、今のジャパニメーション全般に当てはまる普遍的な構造である。というのも、例えカートゥーン的見かけでなくとも(つまり萌えキャラ的見かけであっても)、日本がアニメーションの技術をアメリカのディズニー映画から輸入してきたという歴史的構造は不変だからである。
 急いで付け加えておけば、今のジャパニメーションはアメリカに回帰するべきだとか、海外のアニメファンにもっと媚びを売るべきだ、というようなことが言いたいのではもちろんまったくない。そうではなくて、日本/アメリカというジャパニメーションが原初において抱えていたはずの二項対立を、さも初めから無かったかのように慎重に除去=忘却した上でジャパニメーションが制作され、あまつさえそれが日本独自の文化であるかのように振る舞いしかもそれが「クールジャパン」などと海外から持て囃されているのだとすれば、それは端的に言って欺瞞以上の何物でもないのではないか、ということが言いたいのだ。そのような意味において、『LWA』はジャパニメーションの始原に立ち帰り、日本/アメリカという二項対立をふたたび自分たちの内部に取り込むと同時に、アニメーションとは魔法である、というアニメーション本来の身も蓋もないくらいの(だからこそ簡単に忘れ去られる)<本質性>を極上のエンターテイメントと共に提示し得た、非常に稀有な作品だと言えよう。

*1:この、日本/アメリカという分裂はいわゆる日本語ラップにも当てはまる。つまり、黒人発祥の音楽であるヒップホップを黄色人種である我々日本人がやるというのはどういうことなのか、という問いであり、BUDDHA BRANDやさんピンCAMP以後の日本語ラップはこの問いを中心に旋回しながら発展してきた。

*2:この文章を書く上で『アニメスタイル003』の吉成曜ロングインタビューを一応読み返してみたのだが、やはりと言うべきか幼少時のアニメーション体験については一切語られていなかった。もしかしたらある種の心理的抑圧が働いているのでは、と穿った見方もしてみたくなるが…。

アニメーション・ポリリズム

 世界はリズムで満ちている。
 例えば、自然には四季の周期があり天体には公転周期や自転周期がある。人体にはサーカディアン・リズムという体内周期がある。
 複数のリズムが同時に存在すればポリリズムが生まれる。例えば、サーカディアン・リズムが23時間の概日リズム睡眠障害患者と25時間の概日リズム睡眠障害患者が同じ屋根の下で生活するとする。このとき、当然二人の生活リズムは日を追うごとに乖離していくが、575時間ごとに束の間シンクロ=同期する(23と25の最小公倍数)。
 このように、世界は「ズレ」と「同期」を内に孕んだ複数のタイムスケールが同時進行する場である。例えば、土星の自転周期は約10時間40分であり、木星の自転周期は約9時間50分であり、火星の自転周期は約24時間37分であり(ということはサーカディアン・リズムが25時間の概日リズム睡眠障害患者は火星に移住した方が暮らしやすいということになる)……。
 同様に、アニメーションも複数のリズム=タイムスケールが同居するポリリズミックなメディアと捉えることができるのではないか。
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 上のGIF画像は、オーストリア在住の若手アニメーター・Bahi JDによる原画パート(『スペース☆ダンディ』一話)である。見ればわかる通り、各々のセル=レイヤーが微妙にずれたリズム=タイミングで動いている。このことにより化け物たちの蠢きがよりケイオティックなものになっている。
 このような技法は決して例外的ではない。例えば『てーきゅう』のOPでは「雲の動きを(原画1枚あたり)12コマ打ち、木・建物の送りは6コマ打ち、4人のスキップは4コマ打ち」(参考)という風に、総てのレイヤーのタイミングをバラすことによって音楽とのポリリズミックな揺らぎと同期が実現されているし、『アイドルマスター』シリーズではキャラクター達のダンスが完全に同期しないように微妙にキャラクター間のタイミングをズラしている。
 このような技法は当然実写映画には存在しないアニメーション特有のものであるが、このようなリズム=速度の複数性の技法を成り立たせている装置こそがタイムシートに他ならない。
 基礎的な知識を確認しておくと、タイムシートとは、各1秒24コマの諸セリー(系列)によって構成される撮影指示書であり、複数のセル=レイヤーの動き、カメラワーク、特殊効果などがどのようなタイミングで入るかわかるようになっている。ただし、ここでは議論をわかりやすくするため、カメラワークや特殊効果などの要素は省き、もっぱらセルのタイミングを指示するための装置としてタイムシートを捉えることにする。
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 上のタイムシートは議論のために簡略化されたモデルである。AセルとBセルの二つのセルがあり、それぞれのセルは等しく1秒間あたり24コマで反復する周期パターン(24fps)から成る。
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 試しに上のように原画が入るタイミングをタイムシート上に打ってみる。ここでは、Aセルは3コマ打ち、Bセルは2コマ打ちで打っている(つまり、Aセルは8fps、Bセルは12fpsということになる)。見ると、AセルとBセルはそれぞれ別のリズムで駆動しているのであるが、6コマ目と12コマ目と18コマ目と24コマ目に(つまり1秒間の間に計4回)両方のセルが同期していることがわかる*1
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 さらに、4コマ打ち(6fps)のセルを一つ加え、AセルとBセルとCセルの3つのセル=レイヤーから成る場合のタイムシートを考えてみる。この場合も、12コマ目と24コマ目に総てのセルがシンクロ=同期している。
 このように、各々のセル=レイヤーはバラバラなリズムによって動いているのだが、1秒間24コマというビットマップを総てのセル=レイヤーが共有しているため、12、8、6、という異なった周期のリズムパターンがそれぞれの秩序を保ったまま同時に存在することが可能となる。まず1秒間24コマという基底となる周期リズム=ビートが設定され、そのビートが何重にも整数的に分割されることによって複数のクリックタイムが生まれる。そしてその分割された時間は互いの公倍数ごとに同期しながら(たとえば2コマ打ちと3コマ打ちなら6、12、18、24、…が公倍数となる)反復される。
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 上のモデルは3コマ打ちと4コマ打ちのクロスリズムを直感的に捉えるために描いたモデルで、24個の点から成り、上で3ずつ区切ったのが3コマ打ちで、下で4つずつ区切ったのが4コマ打ちである。つまり、24個の点を3コマ打ちでは8等分、4コマ打ちでは6等分するということになる。アニメーションでは24による一周期だが、これを12による一周期にすればそのままアフリカ音楽におけるポリリズムの原形になる*2
 タイムシートはしばしばアニメーターにとっての楽譜に例えられるが、このタイムシート=楽譜というアナロジーは示唆に富んでいる。「ズレ」と「同期=シンクロ」を同時に内に孕んだアニメーションは、タイムシート=楽譜という計量可能なビットマップ装置にリズムを落とし込む、さらに言えば演算化させることによって可能となる。
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 トーマス・ラマールは著書『アニメ・マシーン』において、多層的なレイヤーを構成する装置としてのアニメーション・スタンドとそれを取り巻く諸処の装置(インク、セルロイドシート、カメラレンズ…)に着目し、そのような物質的な技術的集合体を横断して作用するある種の非物質的で抽象的な強度―位相を、ドゥルーズガタリの概念に倣って「アニメ機械」と呼んでいる。
 しかし、ラマールの議論は、多平面的なコンポジションを形成するアニメーション・スタンドに固執するあまり、アニメーションにおける「時間」や「リズム」という視点がなおざりにされており、そのせいでやや広がりを欠いた議論になっているきらいは否めない。
 ラマールがタイムシートという「アニメ機械」に着目しなかったのはいささか不可解と言わなければならない。タイムシートは、物質的な装置であると同時にデジタルで非物質的かつ抽象的な領域である「機械」でもある。アニメーションは、タイムシートという機械によるデジタル変換化という演算過程を経ることなしには現動化し得ない。ここから、アニメを日本中世の絵巻物に一足飛びで結びつけたり、素朴でイノセントなアニミズムに回収しようとする議論に対して我々は慎重にならなければらない、という教訓を引き出すことも可能であろう。
                    ※

 以上の議論を図式的に捉えれば、さしずめ以下のようになるだろう。

 抽象機械[リズム、分子的、死の欲動] ⇔ 表層[輪郭線、記号、表象、モル的、エロス的欲動]
 
 まず抽象的な機械の領域に分子的に蠢く複数のリズムがあり、その複数のリズムがタイムシートによる演算過程を経ることによって表層=スクリーン上にアニメーションとして現動化する。ここでの分子的/モル的という対立項は、ミクロ/マクロ、もしくは複数の局所的自我/大域的自我にそれぞれ置き換えても同じである。ちなみに、死の欲動/エロス的欲動というタームは言うまでもなくフロイトによる概念だが、ここでは『差異と反復』におけるドゥルーズによる死の欲動の定式化、すなわち、抑圧に先立つものとしての「反復脅迫」、超越論的原理としての「死の欲動」の議論を参考にしている*3
 さらに、機械―表層という位相に加えて、物語という第三の位相を考えることもできるだろう。物語という位相は、脚本などの物語―説話的装置によって生成される位相である。さしずめ機械―表層を「形式」の位相と捉えるなら、物語は「内容」の位相となるだろう。
 大雑把に言えば、これまで主流とされてきたアニメ評論は、そのほとんどが「表層」か「物語」の位相に関わるものである。ストーリーを分析し、そこから何らかの「意味」や「メッセージ性」を引き出そうとするスタンダードなアニメ評論は「物語」の位相に位置し、蓮實重彦くずれの表層批評や伊藤剛などによる漫画記号論やキャラクター論をアニメ評論に転用した評論は「表層」の位相に位置する。その他にも作画に着目した評論なども同様に「表層」に留まっている。
 表層に留まることなく、アニメーションという<出来事>を発生論的に捉える視座に立つこと。そのためにも複数のポリリズミックなリズムと様々な強度が交差する抽象機械に着目すること……。
                    ※

 以下は、影響を受けたり参考にした文章や音楽など。

 <それ>は作動している。
(『アンチ・オイディプス』ドゥルーズガタリ

 コミュニケーションの場は無数の分子的流れに貫通されており、それぞれの流れ=情報を処理する無意識的=分子的機械が並列的に、かつ異なったリズムで作動していると考えられる。会話も手の動きも視線のやり取りも、それぞれ流れのひとつだ。(……)<目―視線―目>、<相手の肩―自分の目―自分の肩―相手の目>と流れる情報は、意識的なコミュニケーションとは無関係に、バックグラウンドで高速に処理されている。
(『精神分析の世紀、情報機械の世紀――ベンヤミンから「無意識機械」へ』東浩紀

 ティポグラフィカの「訛り」や「揺らぎ」を支えるアフリカ的な要素については、これまで何度もメンバーの口から語られてきてはいるものの、まだ充分には理解されているとは言えないだろう。ティポのどこがどうアフリカなのか?(……)つんのめったり訛ったりしながら、幾層にもレイヤーされてゆくティポのメロディーやリズム・パターンは、基本となる一つのビート、曲中通して揺らぎ無くキープされている基本的なテンポのビットマップに基づくことによって演奏されており、メンバーはそのビットマップを共有することによってお互いの関係を明確に把握している。
 まず一個の巨大なビート/脈動が設定され、その脈動が何重にも整数的に分割されることによって複数のクリック・タイムが生まれる。そしてその分割された時間がそれぞれの大きさでぐるぐるループすることによって、ニ、三、六、五、七、といった異なった周期のリズム・パターンが一つの時間の中に同時に出現し、それらが互いに秩序を保ったまま、時には干渉しあい、溶け合いながら音楽が前に進められて行く。
(『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』大谷能生

 本稿では「原画」と対になる「中割り」については、議論の簡略化のため割愛したゆえ、必然的にコスモス的なポリリズムしか論じることができていない。すなわち「訛り」を議論から排除している。それならば、「中割り」をアニメーションにおける「訛り」と捉えてみるとどのようなことが見えてくるであろうか。今後の課題としたい。


Tipographica - 時代劇としての高速道路 Highway As A Samurai ...

Miles Davis - On the Corner (UNEDITED MASTER ...

*1:実際のアニメーションでは原画に加えて中割りが入ってくるため、このようなコスモス的なポリリズムが現れることは稀だと思われるが、ここではあくまで原理論として捉えてもらいたい

*2:参考:『憂鬱と官能を教えた学校』菊地成孔大谷能生

*3:「エロスとタナトスは、以下のように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(先験的原理としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。」『差異と反復』財津理訳p.63