白石晃士『ある優しき殺人者の記録』についての覚書

●『ある優しき殺人者の記録』は映画についての思考を迫るような映画である。つまり一種のメタ映画である。
●しかし『ある優しき殺人者の記録』(以下『ある優』)の作中で映画について言及されるシーンは一箇所しかない。(『素晴らしき哉、人生!』についてのやりとり)
●以下では、最近公開され『ある優』との類似性が指摘されるアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(以下『バードマン』)を参照しながら『ある優』の特異性とメタフィクション性について考える(以下ネタバレあり)。
●『バードマン』はそれこそ映画への言及に満ちた、すわりのよい典型的メタフィクション映画であったが、『ある優』はメタ映画というよりは、『CUBE』や『SAW』の系譜にあるような密室スリラーに一見みえる。
●『ある優』と『バードマン』はどちらも全篇ワンシーン・ワンショットに見えるように撮影編集されている作品である*1。『ある優』と『バードマン』の類似性を指摘する人のほとんどがこの点を強調する。しかし、以下の形式的差異性を無視すれば個々の作品の特異性を取り逃すことになる。
●『ある優』と『バードマン』の形式的差異性は、おおまかに二種類に分けることができる。ひとつは『バードマン』が客観的な三人称視点のショットを採用しているのに対し、『ある優』はPOVという主観的カメラによるショット形式を採用していること。もうひとつは、『バードマン』ではワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間が一致していない(例えば、2時間ノーカットであるにも関わらず、物語内では3日や4日という時間が経過しているということ)。それに対して、『ある優』にあってはワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間は完全に一致している(こちらのほうが普通に考えれば当たり前のように見え、『バードマン』の方が凄いことをやってるように見える)。
●『ある優』の特異性は、ワンショットの中で時間や空間が一瞬で飛び越えられているのにも関わらず、それでもなおワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間の一致が完全に保たれている点にある。つまり、時空間がいくら断絶的に超越されていても、映画内=物語内では映画の上映時間と同じ86分という時間しか経過していない。
●このような特異なワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間の一致という性質は、ひとえに映画内でカメラマンが持っている主観カメラの自己同一性によって担保されている。
●『ある優』の終盤、カメラを持っていたカメラマンは死ぬが、カメラは死なず次の持ち手に受け渡され、持ち手とともに時間を越える。さらにラストに至り世界線を越えるにあたってその持ち手も元の世界に置き去りにされる格好になるが、カメラだけは世界線を越え別の世界線の路上に投げ出される。時空間をどれだけ越えてもカメラの自己同一性は保たれている。
●そもそも、白石晃士作品においてPOV=主観的カメラはどのように機能しているのだろうか。
●短編作品『包丁女』は、白石作品における「カメラ」の用いられ方が短い時間に凝縮されている好例である。
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●『包丁女』において、主観カメラは男⇒女⇒男⇒包丁女という順番で次々と受け渡されていく。ここでのカメラは、或る一人の特権的なカメラマンの視点に帰属しているのではなく、登場人物達のネットワーク上に位置するある種の共同主観=間主観的な視点に帰属している。
●登場人物達の間で共有されていたカメラの共同主観=間主観性は、ラストでカメラが地面に投げ出されるに至って、物語内の登場人物達から観客である我々に引き受けられる。ファインダーを覗く者がいなくなったカメラの視点は、その形式性の純化によってスクリーンを見ている我々の視点と限りなく近づいていく。
●あるいは、カメラ自身がカメラを見ている。ともあれ、このようなカメラという形式性の自己言及的な純化は、カメラ/我々観客という視点の区別を無化してしまう境地にまで行ってしまうのではないか。
●『包丁女』と『ある優』の共通項は多い。まず、全篇ワンシーン・ワンショットで撮影されている。さらに、一台のカメラが登場人物達の間を巡っていく。さらに、ラストで映像ノイズとともにカメラの映像データが破損して終わる。
●ラストにおける映像データの破損=抹消というカタストロフィは、『ある優しき殺人者の記録』が、タイトルに「記録」とあるにも関わらずある種の反=「記録」映画であるという逆説性を指し示している。
●白石晃士監督は、一般にフェイク・ドキュメンタリーの作り手として知られているが、反=記録性という面ではアンチ・ドキュメンタリーの作り手でもある。例えば、『オカルト』ではドキュメンタリーという形式に「未来」という軸を導入することによってドキュメンタリーにおける「記録性」を問いに付した。また、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 最終章』は、ネット上でのストリーミング配信という形式を採っており、従来のフェイク・ドキュメンタリーにおけるファウンド・フッテージ物とは様相を異にしている。
●映像記録が抹消されて終わる『包丁女』また『ある優』と、ストリーミング配信という形式の『コワすぎ最終章』に共通するのは、ドキュメンタリーの「記録性」に対して「一回性」を志向する姿勢である。白石晃士は『ある優』の台本冒頭の言葉に次のように書き記している。

映画のラスト、劇中の世界ではこの映像が記録されたデータは破損して消滅する。観客が見ていた映像を劇中の人々が目にすることは永遠になく、全てが「無かった事」になる。だが、映像と音は、スクリーンのこちら側の世界、つまり観客の脳内にだけは残る。

●ここでは、映画とその<外部>について語られている。映画内における映像データの消滅という出来事は、『ある優』においては映写の終わりと一致している。言い換えれば、カメラが回りカメラがストップするまでの一回的な出来事がノーカットで映し出されるこの映画の形式は、始まりと終わりを観測する立脚点である映画の<外部>(=つまり観客である我々)に立って初めて看取しうるものである。『ある優』においては、内容ではなく形式そのものが<外部>、ひいては映画とは何かという問いに差し向けられている、と言っても良い。映写されるごとにスクリーンと観客の間でその都度立ち上がる有機体のような映画。

映画は、映写されて映写が終わるまでの人生だ。映写されるたびにスクリーンに新しく生まれ、映写が終わると同時に死ぬ儚い存在だ。しかし観客の脳内に映画は残り、新たな命になる。映画というのはそのような生命体である。
(『ある優しき殺人者の記録』台本冒頭の言葉)

●以上に出てきた、ワンシーン・ワンショット(ワンショットの経過時間と映画内の経過時間の一致)という形式性、カメラの間主観性という形式性、映像データの一回性という形式性はどれも分かちがたく結びついてる。そして、この3つの形式性をボロメオの環のように結びつけている結節点こそが、カメラの自己同一性であるように思われる。
●カメラの自己同一性は、一台のカメラによって総てが撮影されていること、さらには全篇ワンショットで撮影されていること、という二つの条件によって担保されている。
●しかし、『ある優』はもちろん本当にワンショットで撮影されているわけではなく、実際は55カットに分かれた断片を編集でワンショットのように見せている。ワンショット(風)映画におけるカット繋ぎという、無意識内における夢作業にも似た技法についての考察の必要性。
●白石晃士作品におけるワンショット風作品のもう一つの代表例として、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! FILE-04 真相!トイレの花子さん 』(以下『花子さん』)があるが、『花子さん』におけるワンショット表現が、異なる時間同士の断面、もしくは異なる空間同士の断面を半ば強引に接合させることによって、時空間に走る裂け目=断絶性を否が応でも意識させるものであったのに対し、『ある優』のワンショット表現は反対に職人芸に徹しており、カット間の断面はまったく意識されないものになっている。カット間の断面を意識させない繋ぎ方はどのようにして可能となるのか。
●秘密は、手持ちカメラを左右に振った時のブレやカメラマンが受ける心理的または物理的な暴力からカメラが大きく揺れる一瞬にあり、いわばそのような光の錯乱=壊乱の只中にカット割りが侵入してくる。「持続=ワンショット」と「断絶=カット割り」を止揚する弁証法は光の錯乱の中でのみ成立する。光の錯乱は、持続/断絶という二項対立を無化する真空地帯=臨界面において現れる、いわば<外部>の侵入である*2
●一方『バードマン』にあっては、カット割りはカメラが何気なく壁を向いた瞬間であったり、扉の前に存在する影=暗闇にカメラが入った瞬間であったりする。ここには暴力も光の錯乱もない、CGによって統制されたシームレスかつ静的な繋ぎがあるだけである。
●『ある優』にあってはカット割りは常にある種の「暴力」という形で<外部>からやってくる。しかもこのカット割りは観客に意識されないので、いわば観客の無意識下に抑圧される*3
●このように、『ある優』におけるカット割りは観客に対して外傷的=トラウマ的要素を持って働く。
●無意識下に抑圧された<外部=裂け目>はしかし常に回帰する。映画終盤に一瞬インサートされる異空間がそれではないだろうか。ここでの異空間は、いわば表象不可能な世界であって、映画の外側=外部の世界を指し示しているのではないか。
●以上のように、『ある優』は内容ではなくその形式性において真にメタフィクション映画である。『ある優』の形式性は映画の<外部>との緊張関係によってかろうじて成立している。我々は、映画が立ち現れ消滅するのを観測する地点に立つことによって、また光の錯乱という<外部>の裂け目に曝されることによって、映画とは何かという「問い」にその都度立ち戻らされる。

*1:厳密に言えば『バードマン』は序盤と終盤の二箇所にカット割りの入ったシーンがあるので全篇ワンシーン・ワンショット風ではない

*2:このような繋ぎ方を可能にする主観的カメラのあり方の重要性も考察される必要性がある。例えば白石作品におけるPOVカメラは、カメラマンの身体性と直に接続されているという意味でフィジカルな性質を強く持っている。

*3:白石作品に特徴的なカメラの映像ノイズも同じものとして捉えることが可能ではないか。カメラに映し出されるノイズはカメラに因するノイズなのか、それとも世界に内在するノイズなのか、それとも映画そのものに走る亀裂――そこから映画の<外部>が覗くような裂け目のようなものなのか

『たんぽぽの卵』試論

「この国の隅から隅まで みんなウルサイな――」

                      ∴
 
 前期~中期の町田ひらく作品においては一対一であれ一対多であれ、そこには基調となる何らかの人間関係がありまたそこから演繹される何らかの人間ドラマがあった。しかし『たんぽぽの卵』にあっては例えば中期の代表作である『お花ばたけ王朝紀』に見られるような複雑な人間ドラマは一切見られない。なぜなら『たんぽぽの卵(以下たんぽぽ)』に出てくるのは、日本各地に遍在している匿名的かつ不可視の組織――少女を犯すことのみを目的として集合離散を繰り返している共同体(作者は「NPO」と表現している)に属する無名の年寄り達であり、またそのような組織のために何処からか集められてきた漂泊の少女達だからである。この作品にはおよそ匿名的な人間しか出てこない。匿名的というのは名前があるとかないとかいった話ではなく、個々の人間が相互に交換可能であるということである。個々のキャラクター的な個性や内面性は慎重なまでに除去されているので個性的なキャラクターたちが織りなす人間ドラマといったものが生まれる余地はアプリオリに否定されている。この作品に描かれているのは、個々の主体ではなくむしろ共同体そのものである。さらに先取り的に云えば、本作品の究極的な試みは、<日本>という国家的共同体が生成してくる動的プロセスそのものを描き出すことにあった。
 
 本作品のヒロイン――毬子、もしくは「死ぬまでなんでもやっていい子」――は本人自身が「アタシは日本中のどこにでも咲いてるの」と云っているように特定の個人でもありなおかつこの作品に遍在する総ての無名の少女でもある。加えてこの両義的な少女はあらかじめ二重に排除=疎外されている。一つは皇族というアプリオリに宿命付けられた血統に因る排除である。ルネ・ジラールは共同体の秩序創成メカニズムの原初に一つの根源的な暴力を想定する。例えばイエス・キリストは共同体の内部にあって、相互暴力を一身に引き受けさせられるスケープゴートであり、この供犠=排除のプロセスによって自然状態から脱した共同体的秩序が形成される。この観点から日本における皇室という存在は日本というスタティックなマクロ共同体を維持させる第三項として機能していると捉えることができる。皇室とは日本各地に遍在するミクロな共同体のネットワークが放射状に集約する結束点でありそれ自体は空無でしかない。実際皇室は如何なる権能も持たず一切の能動性を剥奪された無個性かつニュートラルな存在(まるでこの作品に出てくる少女たちのようだ)であり、第三項排除が今も日本において現存していることがわかる。
 しかし、なおかつ少女は「辛い役目」を遂行するため寄る辺のない彷徨を義務付けられておりその意味で皇室からも排除=疎外されている*1。原初において外部に排除された者がさらに外部に排除されるという奇妙なねじれ。少女(もしくは少女達)はこのように二重に排除=疎外されているがゆえに目的地のない無限の彷徨と漂泊を宿命付けられている。
 一方でそのような漂泊の少女を受け入れる共同体もまた不可避的に危機に陥らざるをえない。何故か。それは、少女を受け入れることは一度共同体の秩序創成のために排除した<外部性>を共同体の只中に引き戻す行為に等しいからである。少女達は回帰する。例えば「最終章#1」の舞台である漁村では一年に一度海神を鎮めるための儀式を船上で執り行う習わしだが、その年の御役目を務めた毬子が船上から落下(下手落ち)したため海難事故による死者が後を絶たなくなる。しかし問題の本質は少女が船から落ちたとか落ちなかったという部分にはない。そうではなく、本来なら共同体の<外部>の存在でなければならないはずの生贄の少女が、実は日本の共同体の最も内奥の部分にあたる万世一系の血を引いている者だったというところに本質がある。同じく「11話」はダムの底に沈む予定である村落が舞台だが、ラストに至ってダム工事は無期限延期になったことが判明する。しかし村長は毬子との性交中に腹上死し共同体の危機は存続する。
 ジラールによれば共同体維持のメカニズムにおける第三項としての原初の<贖罪のいけにえ>は、やがて<儀礼のいけにえ>によって置き換えられるという。後者にあっては生贄として択ばれるのは共同体の外部にある<異人>である。例えば説経『まつら長者』ではある村に棲む大蛇にイケニエとして供されるのは、都から買われてきた少女さよ姫である。共同体の内側から犠牲者が選ばれる限り、共同体に安寧はもたらされない。<置き換え>によって供犠の暴力は遠くへ、外部へ放散されなければならない。*2
 しかし、相互暴力を外部へ放散させるために置き換えられた <儀礼のいけにえ>としての異人が、実は原初の暴力によって排除した当の<贖罪のいけにえ>の回帰であったとしたらどうだろう。ここには根源的かつ危機的な矛盾がある。つまり、<贖罪のいけにえ>と<儀礼のいけにえ>はイコールではないのか。
 このように『たんぽぽ』における総ての共同体は、二重の排除、二重の外部を内側へ折りたたみ返すようにすることによって安寧が訪れることが決してなく常に危機にみまわれながらその都度生成しなおすダイナミックな流動体のようなものとしてある。『たんぽぽ』における共同体は決してスタティックではない。このことは『たんぽぽ』の前半部に出てくる匿名的な少女売春組織のような共同体にも当然当てはまる。「7話」には船乗りたちの共同体が描かれる。彼らは本質的に流動的であり海の上を彷徨する漂泊の民である。「そんなにヤリたきゃニーちゃんよ、明日っから一緒に俺らの船に乗っか?」彼らの共同体に加わるということは住所を捨て流浪の身になることを選択するということを意味する。

                      ∴

 折口信夫柳田國男との対談で己の民俗学的探求のきっかけについて語っている。

 何ゆえ日本人は旅をしたか、あんな障碍の多い時代の道を歩いて、旅をどうしてつづけていったかというようなところから、これはどうしても神の教えを伝播するもの、神々になって歩くものでなければ旅はできない、というようなところからはじまっているのだと思います。
 (中略)台湾の『蕃族調査報告』あれを見ました。それが散乱していた私の考えを綜合させた原因になったと思います。村がだんだん移動していく。それを各詳細にいい伝えている村々の話。また宗教的な自覚者があちらこちらあるいている。どうしても、われわれには、精神異常のはなはだしいものとしか思われないのですが、それらが不思議にそうした部落から部落へ渡って歩くことが認められている。こういう事実が、日本の国の早期の旅行にある暗示を与えてくれました。
(『日本人の神と霊魂の観念そのほか』)

 少女たちには一切の能動性がない。ただひたすら年寄りたちに犯され、彷徨する。しかし何のために彷徨するのか。それは日本という境界の線を引き直すためである。少女たちの巡歴は遍在する共同体を侵し解体しながら再び生成させなおす。共同体は少女が通る度にその境界線を揺るがし、移動させ、流れさせ、溢れ出させる。少女たちの歩く道はそのまま神の道となりその彼方に<日本>が生成する。「彼方」である無限に生成する<日本>は、少女たちの旅の終わりなき過程=道そのものとして在り、またそのようなものとしてしか在り得ない。

 旅にして物恋しきに山下の朱あけのそほ船沖に榜ぐ見ゆ(万葉集巻三)

*1:ここにはオイディプス王の悲劇や旧約聖書におけるヤコブの子ヨセフの物語に共通するテーマが仄見える

*2:参考文献:『境界の発生』赤坂憲雄

町田ひらく試論

 ふとしたことで不可視の世界を幻視してしまうのではないか、という不安。初期の頃から町田ひらく作品を通底しているオブセッションはこのような種類の不安と関係している。例えば『蜃気楼回線』では間違い電話の留守録が主人公と不可視の世界を偶然に繋いでしまうことによって物語の幕が開ける。電話回線は、日常的な可視的世界がほんの些細な偶然によって不可視の世界と繋がってしまう、その身も蓋も無いほどの偶然性を象徴するものとしてこの作品の中に現れている。*1
 「トパーズ サファイア ラピス… 暗号――?」主人公は留守録のメッセージを一つの暗号として捉える。町田作品の主人公にとって、外部からのメッセージは暗号であり何かの徴候であり、それと同じように世界もまた暗号と徴候の集合として立ち現れてくる。
 「どうもオレの知らない場所で何事か楽しんでいる連中がいるらしい」これは町田作品における主人公が多かれ少なかれ共有している陰謀論的妄想の一例である。彼らは絶えず世界を二重化して視ている。世界は一つしか無いが、常に二重構造(可視的世界―不可視的世界)なのだ。パラノイア患者の脳内神経の偶然的なショートサーキットは可視的世界と不可視的世界を短絡(ショートサーキット)させる。しかし『蜃気楼回線』にあってはそれが電話回線間のショートサーキットというアナロジーによって置き換えられている。*2
 『たんぽぽの卵#7』では、可視的世界―不可視的世界という二重構造が階段の上昇―下降というイメージによって端的に示されている。主人公であるロリコンの中年男はとあるホテルの自販機売場で髪の毛に精液らしきものをつけた一人の少女を見かける。少女の髪の毛に付着した精液はここでも主人公にとって何事かの「徴候」として作動する。精液という偶然的な「徴候」によって可視的世界と不可視的世界は短絡し、主人公は少女を追いかけ「立入禁止」と書かれた札が置かれた階段を降りていく――。この『不思議の国のアリス』を思わせる物語の導入部は、しかしラストに至ってやはり『不思議の国のアリス』的な、夢からの覚醒、つまり不可視的世界からの拒否=排除によって幕を閉じる。幻視者はあくまで幻視者でしかなく、その世界に参入することは遂に許されない。「〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね」という町田ひらくのインタビュー中における発言は、そのまま町田作品の中にあっても強い倫理的な掟として働いている。『秋に 雲雀は囀るか』におけるカメラマンの主人公の「何故 オレじゃないんだ」という魂の慟哭は、そのまま作者の魂の慟哭でもある。
 
 しかし町田作品を通底している世界観はほんとうに以上で見てきたような単純な二重構造に還元できるようなものなのだろうか。『秋に 雲雀は囀るか』のラストにおける主人公の「彼女の見る夢の中にボクらが映っていないのなら ボクらは黙って消え失せるしかありませんよね」という台詞はこの点を考える上で非常に示唆的である。ここでは幻視する者(ボクら)と幻視される者(少女)という本来の主体と客体の関係が転倒されている。少女を幻視しているボクらはしかし少女によって夢見られる、つまり幻視されることによってしか存在できない、という入れ子構造、もしくはメビウスの輪のような構造は、可視的世界―不可視的世界、主体―客体といった二項対立的関係そのものを無意味なものとしないではおかない。<主体>の特権的な位置を剥奪し不断に相対化させる少女という<他者>。前者は後者を包み込んでいるが、なおかつ同時に(常に既に)後者に包み込まれるようにして存在している。このような他者性を備えた位置にいる町田作品における<少女>という特異な存在について、我々は更なる思考を迫られている。

 補記:以上に記述してきた「幻視」という概念からも理解できるように、私は町田ひらく作品を、他の作家のロリコン・ファンタジーと異なる「リアリズム」的なロリ漫画とは考えていない。町田作品もひとつのファンタジーである。しかし、そもそも「リアル」とは、「現実」とはなんなのだろうか。

*1:町田作品と最も親縁的な作品としてトマス・ピンチョンの諸作品、特に『競売ナンバー49の叫び』を挙げておきたい

*2:パラノイア患者は本来無関係であるはずのものを恣意的に繋げてしまう。例えば、街を歩いている親子を片っ端から「関係している」と捉えずにはいられない妄想が産んだ作品が『漫画で見る未来の三丁目』である。不可視の関係(というよりも本当は存在しない関係)をあまりにも簡単にショートサーキットさせる、これは町田作品における常套的テクニックと云える。処女率0%の街を幻視する『大泉モンスター』も同様の系統の作品である。