アニメと写生文

 アニメにおけるリアリズムについて思考するとき僕が最初に考えるのは「文学」だ。周知のように映画はカメラに映った光をそのままフィルムの上に保存する、つまりは生の、リアルそのもののメディアなので「リアリズム」という思想自体があまり用をなさない。よって映画のアナロジーによってアニメを分析する試みをある程度のところまで行くと行き詰まる、と思う。例えば、二葉亭四迷の『小説総論』の、「模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり」という有名なテーゼは映画においては問題にならない。しかし、一方でアニメーションにこれを当てはめてみると、このテーゼが意外なほどの深みとアクチュアルな響きを伴って僕らに迫ってくるのを感じるだろう。
 
 日本の近代文学におけるリアリズムは明治時代の坪内逍遥二葉亭四迷に端を発し硯友社を経て言文一致運動に発展して行きそれが自然主義に結実し云々、というのが教科書的な理解だが、リアリズムの本格的な批判的深化ということを考えるならば、どうしても正岡子規高浜虚子らの写生文運動にまで立ち戻らないといけない。
 まず、正岡子規によって発明された写生文以前の一般的な文章はどのようなものだったか。例えば山田美妙による言文一致を見てみると、

 あゝ今の東京、むかしの武蔵野。今は錐も立てられぬ程の賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。
(『武蔵野』)

 これは漢文の対句をベースにした文体で未だに散文とはいえない。さらにもう一つ例を見ておく。

 思えばむかし較べこし、振分髪のをさななじみ、おとなしやかでひとがらで、利発なお方と思ひしのみ、縁はきれても忘られぬ義理恩愛があるゆゑに、まだ兄さんぞと思はれて、いつかも花見に逢ひし日に、恋ならねばこそ憚なういひにくいこと打いだして、「時たま呼んで下さいナ」と幼稚時とおなじやうに、あまへたことを言ひたりしが、今さら思へばなかなかに、お身の障りとなりたるかも。
坪内逍遥当世書生気質』)

 これも馬琴調の漢文崩しの文体で現代の我々から見るといかにも古めかしい。このように言文一致とはいっても、未だに文語体の脈を引いている漢文崩しもしくは擬古文体という前時代的なスタイルの文章が支配的であった。
 
 それに対して、正岡子規らの写生文を見てみると、差異は歴然としている。以下は『ホトトギス』同人の坂本四方太が寄稿した「夢のごとし」という文章である。

 或時ふと眼が覚めた。炬燵に只独り寝かされて居つた。(中略)頭のところに黒光りのするけんどんの箪笥があって、箪笥の上に大きな仏壇が載せてあった。吊した真鍮の灯明皿の尻がきらきら光つて居る。

 対象を精確に写生、描写することによって、漢文的な要素や戯文的な要素が排除されていくということがわかるだろう。加えて、この文章には活き活きとした時間の流れが存在している。文章を文章としてのみ自己運動させていた「漢文崩し」や「擬古文体」の枠が除去されたことによって、それまで覆い隠されていた時間の層が現れ、文章はその時間の単線的(=クロノジカル)な流れに身を任せている*1
 まとめると、従来の漢文崩しの文体では文章の「自己運動」がベースになっており「時間」はそこから派生する二次的なものでしかなかった。それに対して、写生文ではクロノジカルで均質な「時間」がベースになっており、文章はもはや自己運動せず直線的な時間のセリーに配列される。このように文学における近代的なリアリズム技法は時間を基調低音とする自覚によって達成された、と言ってもよい。
 
 日本のアニメーションにおける正岡子規、つまりは写生文の創始者を例えば磯光雄に求めることができるだろう。磯光雄が成し遂げた革新、それは言うまでもなくストレート・アヘッドによるフル3コマの発明である。それまでのアニメーションの作画方法では、ポイントとなるキーフレームをあらかじめ設定しておき、その間を後から中割りによって埋めていくというポーズ・トゥー・ポーズの手法が一般的であった。つまりそこではアニメーションの流れは恣意的に決定されたキーフレームに引きずられることになり、これは先に挙げた文章の自己運動を核とする漢文崩しの文体に相当していると言える。そのように考えるとポーズ・トゥー・ポーズにおける「後ヅメ」や「ため」などの魅せるためのアクセント/タイミング操作技法は、七五調や八六調でリズムを作りながら文章を駆動させていく馬琴調の擬古文体を思わせてくる。
 それに対して、すべての動きを原画によって送り描きしていくストレートアヘッド法においては、すべてのコマは一本の直線的かつ計量可能な時間に基づいて等分され、タイムシートというビットマップ上のセリーに配列し直される。ストレート・アヘッドがベースにしているのは時間の概念であり、運動ではない*2磯光雄はエフェクトやキャラクターの動きの面で日本アニメにおけるリアリズムを更新したというのが一般的な評価だが、その磯光雄によるリアリズムの深化と更新が、「時間」という概念を内に孕むことを契機にして達成されたという事実にももう少し眼を向けられてもよいと思う。磯光雄によるストレートアヘッドの実践は、その後一方では三原三千夫のラインに、もう一方では松本憲生のラインに伸び後者がタイムライン系と呼ばれる技法の系譜に繋がっていくことは周知だが*3磯光雄の時点でタイムライン系作画の要素は既に胚胎していたということについては論を俟たないだろう。
 「リアリズム」という言葉が混迷を極めているなかで、リアリズムというのはいつ頃どのようにして生まれ、そしてどこへ行ったのかということを考えてみたくなったのでこのような文章を書いてみた。

 ※主な参考文献

江藤淳『リアリズムの源流――写生文と他者の問題』
相馬庸郎『子規・虚子・碧梧桐 : 写生文派文学論』

*1:写生文による時間性の獲得について議論するならば高浜虚子は外せない。写生文運動は元々は俳句の分野から起こったものであることは周知だが、高浜虚子の俳句に「時間」の要素がすでに見られることは師である正岡子規も指摘している

*2:磯光雄のフル3コマについては以下も参考に。http://www.style.fm/as/01_talk/inoue03.shtml

*3:詳しくは山下清悟と平川哲生の対談「作画の時間、演出の時間、絶望の時間」を参照

のんのんびよりの4話は凄かったね

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 アニメブログやインターネット掲示板の類をまったくといっていいほど見ないので「のんのんびより」4話がどのような評価を受けてるのかまったく知らないのだけれど、個人的には久々のクリーンヒットだった。ここでは主にBパートの例の止め絵長回し演出について書く。
 
 基本的にアニメでは登場人物の「行動」を積み重ねることで話を駆動させていくというスタイルが一般的である。例えば、登場人物Aがとある場所へ行き、そこで登場人物Bと会い、然るべき会話をし、次にまた然るべき行動へ移る。このように人物の「行動=運動」の蓄積からナラティブを紡いでいく手法においては、時間は人物の運動に従属し、時間が時間そのものとして立ち現れてくることはほとんどない。もっと言えば、「時間」という概念自体が希薄、もしくは存在しない。
 
 「よつばと」の作者は、「よつばと」をアニメ化しない理由について以下のように書いている。

で。えー、なんでよつばがアニメになってないかです。
一番大きいのは「よつばと!」をアニメにするのは、とても難しいってことです。
とりあえずアニメにする、ならできます。
例えば、よつばが綾瀬家に遊びに行くってシーン。
よつばがドアを開けて走っていって「こんにちはー」と言う。
カットをポンポンといくつか使って、数秒で終わりそうなシーンです。
それでいいなら出来そう。
でも、「よつばと!」なら、よつばがよいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、
でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き、よっこらしょっと重い玄関のドアを開けて、元気よく家を出て行く。
そういう、普通アニメでカットされそうな描写もやらないと、アニメにする意味が無いと思うんです。
引用元

 上の発言はある意味でアニメの本質的な部分に触れている。要するに「よつばと」の作者はここで「アニメは<時間>を描くことができない」と言っているのだ。よつばが綾瀬家に遊びに行く、これは人物の「行動」である。それに対して、よつばがよいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き…というのは人物の「動作」である。物語とは何の関係もない細かい仕草や動作、これらは30分という時間的な制約と作画リソース*1という資本的な制約の下にあるTVシリーズのアニメにおいては必然的に省略されてしまうものである*2。しかし、このような省略の下では単一的な時間の流れが立ち上がってくることもまた無いであろう。

 のんのんびより4話は止め絵を用いることで作画リソースを消費せずに純然たる「時間」を現出せしめている。ピアノの劇伴とともに宮内れんげの顔に少しずつカメラが近づいていく。気づくとセミが鳴いており、そこで初めて時間が経過していたことに気づく。視聴者はそのとき時間の流れの中に身を置いている。
 このような止め絵による効果は、例えば出崎アニメにおける止め絵と比較すればその差異がよくわかる。出崎アニメの止め絵は時間を停止させることを狙いとしており、無時間的な性格のものである(そういう意味ではとても「アニメ的」である)。それに対して「のんのんびより」の止め絵は時間の流れを作動させる潤滑油のようなものとしてある。
 付け加えておくと「のんのんびより」的な止め絵は過去にも若干ながら見つかるものである。例えば旧エヴァにおける止め絵長回しの多用(有名なエレベーターのシーンなど)は作画リソースを節約しながら時間イメージを現前させている。しかしながらこのようなアプローチからエヴァを評価した批評を私は寡聞にして知らない。
 何はともあれ「のんのんびより」4話は素晴らしい回でした。

*1:例えば沖浦啓之のようなスーパーアニメーターならすべての仕草や動作を描くことも可能だろうが……

*2:人物の細かい仕草や動作にクローズアップした「かみちゅ!」のコタツ回はその意味で画期的であったと思う

 世間では吾妻ひでおを所謂「オタクカルチャー」、または「萌え」の始祖とする向きがあるようだが、どうだろう。吾妻ひでおが「萌え」に与えた影響は認めるにやぶさかでないにしても、吾妻ひでおを萌えの「始祖」とまでするにはよほど慎重にならないといけないような気がする。
 吾妻ひでおコミックマーケット11にて同人誌「シベール」を販売したのは1979年。手塚治虫的な漫画キャラクターによるエロ表現は、この「シベール」を以って嚆矢とする、というのは教科書的な知識の確認である。なるほど確かに吾妻ひでおが「シベール」によって果たした意義は大きいし、「シベール」や吾妻作品には後年の萌えカルチャーの要素が既に含まれていることも確認できるだろう。しかし、そのような現在の萌えカルチャーの位置に立って、80年代の吾妻ひでおの仕事を遡及的に眺める姿勢には、単なる「萌えの始祖」というレッテルに還元できないような吾妻本来の固有性や特異性を取りこぼす危険があるのではないか。実際昨今の、吾妻を「萌えの始祖」とする評価はその多くが単なる還元主義に堕しているように私には思える。
 雑誌「ふゅーじょんぷろだくと(1981年10月号 特集「ロリータ あるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」)に、吾妻ひでお内山亜紀、谷口敬、蛭子神健など当時のロリコンブームを牽引していた作家や編集者による座談会が組まれている。そこで吾妻ひでおは司会の「まず最初に皆さんがロリコンであるかどうかということを確認してみたいと思います」という質問に対し、はっきり「僕は違います(キッパリ)」と答えている。さらに、

司会 やっぱり(ロリコン)ブームとか言われていますけど、まだ市民権は得ていないと
吾妻 なんでロリコンがブームになるかわからない。ありゃあブームでするもんかね

 とも言っている。この座談会での吾妻のトーンは、他の出席者達のそれとは明らかに異質であり、ロリコンブームそのものへの批判性がある、という点で特筆に値する。このようなロリコンブームの渦中にいながらも一歩引いた客観的な姿勢は「吾妻ひでお大全集(奇想天外・臨時増刊号1981年)」所収の吾妻ひでおインタビュー<PART5>ロリータ編にも仄見える。

インタビュアー どうですか。最近ロリコンブームに関して、何か責任の一端を感じることはありませんか。
吾妻 僕はそういう徴候を見て、影響された方だから、それは特に僕の責任ではないです。

 ここで吾妻ひでおは自分はロリコンブームの始祖ではないと断言しているのだが、これを単なる韜晦と受け取るわけにもいかないだろう。さらに「今の人はアリス趣味の人が多い」「幼女指向。幼女というかアリス!ワシラよりもタチが悪い!」「破滅すればいいと思っている(笑)」という発言からも、シベールに影響を受けた若手の「萌え」指向から一歩距離を置く批判的姿勢が感じ取れる。
 ところで、先の「僕はそういう徴候を見て、影響された方だから」という発言の「そういう徴候」とは具体的にどのようなものなのだろうか。このことを知るためには当時の、具体的にはシベール発刊(1979年)前後の文化背景を抑えておく必要性がある。まず、最初にロリータ的なものがアンダーグラウンドで出現し始めたのは、私が確認した限りでは「現代詩手帖」の編集者だった桑原茂夫がキャロル特集号を組んだ1972年であり*1、ほぼその直後には種村季弘がキュレーターになったアリス展が画廊人魚館で開催されている。さらに翌年の1973年には沢渡朔による少女ヌード写真集「少女アリス」が刊行され、80年代のロリコンブーム時には聖典の一つにまで崇められた。1974年のユリイカ「総特集オカルティズム」では表紙に「少女アリス」からの図版が採用されている。種村季弘ユリイカ、オカルティズムと並べてみれば分かる通り、当時はアリス的なものとサブカルチャーとオカルティズムとアカデミズムがケイオティックに混在していた。1975年にはグラフ雑誌「アリス出版」が設立され、1977年には清岡純子によるヌード写真集「聖少女」が出版、アカデミズムの側では高橋康也ルイス・キャロルをノンセンス文学の文脈から論じた「ノンセンス大全」が出版され、後の高山宏の「アリス狩り」(1981年)の下地を作った。この頃になるとSFも俄に表舞台に出現し始め、1978年の「月刊OUT8月号」で「吾妻ひでおのメロウな世界」と題された特集が組まれ、SFの文脈から吾妻ひでお作品が採り上げられる。江古田に喫茶店「漫画画廊」が出現し、そこにアニメオタクや蛭子神健や狐ノ間和歩を含むロリコンが集まるようになったのもこの頃であろう。吾妻の先の発言の「そういう徴候」とはざっと見て以上のような時代背景を指している。
 以上を鑑みても、「シベール」による達成を吾妻一人に帰することはできないように思う。そもそも「シベール」は吾妻ひでお沖由佳雄の二人による構想であり、「ALICE」というコピー新聞を発行し、漫画画廊にも出没し、さらに蛭子神健を吾妻ひでおに紹介した沖由佳雄は「シベール」においても重要な役割を果たしていたのではないかと思われる。
 とはいっても以上に見たようにロリコンブームの祖を吾妻ひでおに求めることはできないということは言えるにしても、そこから現代の萌え文化の元型を「シベール」に求めることはできないと一概にして言うことは不可能であろうし論点がズレてくる。萌え文化とシベールの対応関係を検証するには漫画作品そのものの分析が不可避であり、文献学や系譜学的なアプローチでは自ずと限界があるであろう。ただ、ここで言いたいのは、現代の萌えカルチャーの諸要素から鏡写しのように遡及して吾妻ひでお作品を検討しようとする身振りは倒立的であり転倒しているということである。そのような還元主義によっては、1980年に開始された「純文学シリーズ」や、吉行淳之介の短編を思わせるシュールリアリスティックな自伝作品「夜の魚」「笑わない魚」(1984年)を経て、「失踪日記」、「地をはう魚」と私小説的漫画へとドライヴしていった吾妻ひでおの軌跡の必然性や、ロリコンブームの渦中にあって「なんでロリコンがブームになるかわからない」と冷静に言い放つクールさを含めた吾妻ひでおの「過剰さ」や「固有性」は一生わからないであろう。他に依存することなく、吾妻ひでおの漫画作品の只中に身を置き、吾妻ひでお作品そのものの「強度」を掴み出すこと。このような実践を達成したときに初めて、何物にも還元できない吾妻ひでお本来の単独性と可能性が姿を現すだろう。

*1:しかし1969年には既に種村季弘が復刊したばかりの「ユリイカ」にアリス論を寄稿している