のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析

キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。

彼らに共通する特徴として、①独学で得た技術的知識を活かす ②比較的低予算 ③活動拠点をYoutubeに限らない ④個人的な欲望が出発点*2、などが挙げられる。中でも、みゅみゅとのらきゃっとは、本来はニコ生を活動拠点にしていたという点で、その他の有名どころのVtuberとは出自を異にする。この出自の相違は重要である。というのも、ニコ生におけるライブ性は、みゅみゅ、そしてのらきゃっとのスタイルと密接に関わっているからである。本稿では、のらきゃっとにおけるスタイルの考察をとおして、インディペンデント系Vtuberのアクチュアリティを探っていく。


まず、ニコ生時代から一貫して、のらきゃっとはライブ配信を中心した活動を行っている。ここがまず企業系Vtuberとはもっとも異なる差異だろう。その意味で、のらきゃっとは所謂Youtuberというよりは生主の形態に近い。Yotubeとニコ生というメディア的差異は、そのままスタイルの差異に繋がる。のらきゃっとのスタイルは、すべてライブ配信のために生み出されたスタイルと言っても良い。事実、のらきゃっとの魅力は、ライブ配信における視聴者たちとの一回的なコミュニケーションにこそある。

のらきゃっとのライブ配信に欠かせないのがいわゆる「ご認識(=誤認識)」である。周知のように、のらきゃっとは、音声認識による自動の字幕生成と、さらにその字幕を読み上げるVOICEROIDという二つの演算プロセスを経て発話している。結果、プロデューサー(≒中の人)の発話が、のらきゃっとの発話として変換されるまでの間に、様々な誤配の罠が待ち受けることになる。例えば、「紅茶」を誤認識して「校舎」と発話してしまうケースが基本パターン。他にも、同音異義語が区別できず「1000人」と発したいのに字幕が「仙人」と生成されてしまうパターン。さらには、グーチョキパーの「チョキ」が同音異義の「猪木(ちょき)」として字幕生成され、それをVOICEROIDが「いのき」と発音してしまうという、いわば二重の誤認識とでも言うべき複雑なパターンも見られる*3。これらの「ご認識」のパターンが複雑に絡み合うことで、のらきゃっとの言語は、ときに一種の隠喩と暗号の体系のようにすら見えてくる。いわば視聴者は、のらきゃっとが発する「ご認識」をそのつど適切に「解釈」する必要性が出てくるのだ*4

言ってしまえば、これはいわゆる精神分析におけるセッションに近い。周知のように精神分析においては、カウチに横になった患者の自由連想的な発話から、分析家が患者の無意識の欲望を取り出してくるのだが、その際に重要な測鉛となるのが俗にフロイディアン・スリップと呼ばれる「言い間違い」なのである*5。例えば、フロイトは『精神分析入門』の中で、ある教授が発した「女性性器には無数のVersuchungen(誘惑)にもかかわらず……いや失礼……無数のVersuche(研究)にもかかわらず」という「言い間違い」の例を挙げているが、これなども、のらきゃっとの「ご認識」を彷彿とさせるに余りある。また同時に、視聴者たちは、そういったのらきゃっとの「ご認識」に対して(ときには正確な発語に対しても)、折に触れて「(意味深)」を文末に付けることで、そこに性的な「隠喩」を読み込もうとするのだが、これなども正しくフロイト的な作法と言えるだろう。

もちろん、のらきゃっとはアンドロイドなので無意識は存在しないはずである。それでも、「無意識は言語のように構造化されている」というジャック・ラカンのテーゼのように、のらきゃっとと我々視聴者との間に横たわる広大な言語の体系が無意識の代わりを担っているのかもしれない。のらきゃっとと視聴者は、間に介した言語の体系(=象徴界)にそれぞれアクセスすることで、各自の無意識の欲望を引き出してくる。もはやここにおいては、患者と分析家の区分は曖昧である。例えば、のらきゃっとが誤認識で「パパ」と発声してしまうとき*6、視聴者は即座に「私がパパだ」と応答することで、みずからをのらきゃっとの父的主体として生成させる。いわば、のらきゃっとは、「ご認識」を通して言語の体系にアクセスすることで、視聴者の無意識的欲望(のらきゃっとのパパになりたいという欲望)を指し示すのである。あるいは別の視点から見れば、視聴者は、のらきゃっとの無意識=欲望を、みずからの無意識=欲望として受け入れるのである。このような関係は、「分析」というよりは、のらきゃっとが正しく言うように「調教」なのであって、このような「調教」のプロセスを経ることで視聴者は訓練された「ねずみさん」へと生成変化していくのである。

確認してきたように、のらきゃっとと私たちは、「ご認識」(=言い間違い)と「(意味深)」(=隠喩)というツールをコミュニケーションに導入することで、言語を字義通りの意味から不断にズラし続けていくのだった*7。ただし注意しておくべきは、のらきゃっとと私たちとの間に発生する無意識の境域は、ライブ配信ごとにそのつど形成されるアドホックなものである、という点である。「ご認識」はそのつど、新たな「設定」や「欲望」を生み出すが、それが次回のライブ配信に持ち越されることは稀である*8。その意味で、プロデューサーがツイッターなどでも折に触れて発言するように、のらきゃっとは我々視聴者とプロデューサーが共同で作り上げていくのだ、と言ってよい。「私は、一番魅力的なわたしでありたい。」という名高い台詞は、プロデューサーと視聴者の双方にとって「魅力的」という意味であるから、そのためにのらきゃっとは常に変化し続けていくことを宿命づけられる。

それでは、「変化」こそがのらきゃっとの条件であるとするなら、のらきゃっとの自己同一性は一体どこにあるのだろうか。実際例えば、2018年1月21日の配信において、VOICEROIDをそれまでの東北ずん子から商用利用が可能な紲星あかりに変更したのだが、それに伴い口調も変更してみるといった試行錯誤が行われた。このような、声質に応じて性格も変えてみるといった実験は、のらきゃっとと中の人(≒プロデューサー)の人格が明確に分離しているからこそ可能と言える。それは、プロデューサー自身も愛好していたというTRPGやPBW(プレイバイウェブ)におけるPL(プレイヤー)とPC(プレイヤーキャラクター)の区別に等しい。プロデューサー(PL)はあくまで、のらきゃっと(PC)を外側から操作=ロールプレイしているに過ぎない*9

さらに、のらきゃっとは外見もいずれは商用利用可能なオリジナルアバターに換装されるだろうとプロデューサーは公言している。プロデューサー自身、1月22日のツイートの中で「テセウスの船」という言葉を持ち出しているように、ここにあるのはサイバーパンクめいた自己同一性の問題である。声と性格、そして外見すら変化していくとしたら、のらきゃっとをのらきゃっとたらしめる個性=自己同一性はどこに存在するのか。というか、それは果たして「のらきゃっと」と呼びうるのか。

もちろん、これはもはや我々が好きだった「のらきゃっと」ではない、として離れていく視聴者も今後一定数出てくるだろう。しかし、私はそれでも「のらきゃっと」を「のらきゃっと」たらしめているものは存在する、と主張したい。それは、「スタイル」である。あるいは「作家性」と言い換えてもいいかもしれない。

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これは2017年4月16日、ということは約一年前に放送されたニコ生の録画である。見ればわかるように、外見=アバターも声の調声も現在ののらきゃっとと異なっているのだが、ここには明らかにその後ののらきゃっとに通じる「スタイル」とでも言うべきものが見いだせる。それは、のらきゃっと的としか言いようがないので、まったく異なるアバターにも関わらず、そこにのらきゃっとの未来の痕跡(?)を見てしまうかのようだ。例えば、動作、姿勢、ジェスチャー、目線、「ご認識」に対する反応の仕方、等々……。

これらの「スタイル」は、極言すればプロデューサー側に依拠しているので、たとえPC(プレイヤーキャラクター)側の構成要素がどれだけ変化しようが変わらない。例えば、視線や眼差しはそれ自体としては存在していないが、アバターが置かれるとそこに「幽霊」のように宿る、といった具合に……。

結局、事態は依然として複雑なのかもしれない。我々がのらきゃっとに見つめられるとき、その眼差しはのらきゃっとの眼差しなのか、それともプロデューサーの眼差しなのか。だが、これ以上考えるのはやめよう。「皆さんが、私に魅力を感じてくださるなら、私は魅力的な私であり続けます。」という言葉を今こそ字義通りに受け止めなければならない。我々がのらきゃっとに魅力を感じ続ける限り、のらきゃっとがそれを「裏切る」ことは決してないのだから。

*1:みゅみゅ氏はVtuberを名乗っていないので厳密にはこのカテゴリーに含めることはできないのだが……

*2:例えば、ねこます氏や届木ウカ氏に見られるTS願望

*3:同じように「貴重」と言おうとして「帰蝶(かえりちょう)」と発してしまう等々

*4:付言しておけば、「ご認識」はキャラクターが直接「言い間違い」を発話するという形態を取る点で、受け手の一方的な解釈に依存する所謂ニコ動的な「空耳」文化とも異なる位相にある

*5:例えば、「精神分析は彼が何を言わんとしたかということよりは、むしろ彼が実際に言ったことのほうに関心を向けるのである」(『ラカン精神分析入門』ブルース・フィンク)とあるが、これはまさしく我々とのらきゃっとの関係に近い

*6:おそらくは「まだ」や「ただ」あたりの誤認識

*7:例えば、のらきゃっとが「ご認識」を訂正しようと自分自身にツッコみを入れるが、それがまた新たな「ご認識」を生み……、という差異と反復のループ

*8:ちなみに、特定の「ご認識」が次回にも持ち越され定着した例としては「クラリキャットカッター」や「猫松さん」などがある

*9:だからこそ、1月24日の配信のように、のらきゃっとにプロデューサーの人格をインストールしてみるという逆降霊術のような試みが可能になる