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他者、目玉、あるいは幽霊

哲学の書物は、一方では、一種独特な推理小説でなければならず、他方では、サイエンス・フィクション[知の虚構]のたぐいでなければならない
(「差異と反復」ドゥルーズ

 コルタサルに「占拠された屋敷」と題された奇妙な短編がある。或る兄妹が見えない何かによって住処である屋敷を追い出される、という筋だけ見ると得体のしれないとしか言いようがない印象を受ける。しかしだからといってこの短編を、南米特有のシュルレアリスム幻想文学の枠にはめてそれで良しとするだけで事足りるのであろうか。私はむしろ、この短いテクストの中に、ある隠蔽された殺人を、テクストを読むという行為自体に内在した密室殺人の寓意を、その紙背から読み取らざるを得ないのだ。いずれにせよ、話を急ぐこともあるまい。
 推理小説は常に己の存在根拠や、まったくカント的な意味でのテクストの超越論的可能性を探究してきたし、また推理小説ほどそのような存在根拠がある極点において不可能に至るということに自覚的であった小説形式はない。彼らは推理小説の創始者ポーが「ライジーア」で描いた不気味な目玉を、意識することはなかったが、それでも心の奥底でそれとなく直視していた。

なるほど、ライジーアの顔には古典的な美の基準にあてはまらないところがあること、その美しさがいかに「精妙」でもそこにはかなりの「奇異」なところが染み渡っていることはよくわかっているつもりだが、それでもその規格破りの本質とは何か、自分自身がそうした「奇異」をどう認識しているのかを突き詰めようとすると、たちまちつまずいてしまう。
(……)そしていよいよわたしは、ライジーアの大きな瞳をのぞきこむ。
(……)だが、わたしが彼女の目に見出した「奇異」というのは、目の形状とか色合いとか輝きといったたぐいのものではなく、つまるところ、目の「表情」にまつわるものなのである。おお意味なき言葉!しかしその単語の響きが秘める巨大な領野の裏側に埋められてきたものこそ、わたしたちの精神的なものに対する無理解であろう。ライジーアの眼の表情!
(「ライジーア」ポー)

 この「奇異」は言葉を超え出ている。私は目玉の中に或る得難い不気味なるものを直視する。しかし、私がそのような言語を超越した或る異様なものを感じ取っているときは常に、目玉の方もまたこちらを覗きこんでいる。
 恐らくは推理小説史においてテクストの自己根拠を徹底的に突き詰めた作品はクリスティーの「アクロイド殺し」をおいて他にないであろうが、そこにおいても未だこちら側を直視する目玉という存在は隠されたままであった。その意味において目玉の存在に自覚的だったのは皮肉なことに創始者のポーのみであったというべきであろうか。恐らくそうではない。私は幸いにも折原一の短編「我が生涯最大の事件」に目玉の要素を見出すことができると信じた。以下論じてみる(「アクロイド殺し」は基礎教養だと思われるので粗筋等の基本的な解説は省き、トリックも周知の上と見做す)。
 「私」という一人称による手記形式によって書かれたこの作品は明らかに「アクロイド殺し」を意識している。小説の設定とあらすじを簡単に述べると、「私」=進藤金之助は過去に起きた未解決の連続殺人事件を調査する元警官であり、小説の前半は過去の事件に関係のある記事や投書をパッチワークのように並べたもの、後半は私が当時の関係者へしたインタビューをテープ起こししたものがまとめられている。ここまでは普通の事件の調査記録といった体だが小説は終盤間近になって急展開を見せる。手記の執筆者である「私」が突然自分が犯人であったと告白しだすのである。

二十年前に起こった女子高生連続殺人事件の犯人は誰あろう、私、進藤金之助である。
(「101号室の女」所収347ページ)

 犯人は語り手である「私」だった。このトリック、というかオチ(信用出来ない語り手)は「アクロイド殺し」と同型反復であり特に推理小説的な目新しさはない。しかし話はここでは終わらない。

高橋は私を今度は仕事部屋に運びこみ、私の前でワープロに文章を打ち込みました。つまり、340ページの破線部分までは私が書いたものであり、その後は「偽物の私」が書いたものなのです。偽物は私が昔の殺人の犯人だと告白し、野辺山及び都留殺しを私がやったように創作します。
(前掲書352ページ)

 ここで驚愕の真実が明かされる。なんと、私の「告白」は高橋という真犯人が勝手に書いたもの、捏造であった。ここにおいてこの小説は「アクロイド殺し」から完全に逸脱するに至る。もはや問題は信用出来ない語り手ではない。信用出来ない語り手による最終的な「告白」という審級すらここでは失効する。なぜならその「告白」すら他者による書き換え=捏造に過ぎないからだ。
 犯人=他者によるテクストへの直接的な介入=書き換えという可能性を受け入れた瞬間からテクストの信頼性、自明性は根底から瓦解する。犯人が340ページの破線部分から348ページの破線部分を書き換えた、という「私」の記述を保証することすらできなくなるからだ(この記述すら別の真犯人によって書き換えられたという可能性を棄却することは不可能である)。ここにこそ、この小説の特異性がある。折原一は、近代文学を成り立たせている「告白」という制度の欺瞞性を図らずも看破していた。彼は、「私」という一人称による告白を、無限かつ不気味な他者による不断の侵入に置き換える。テクストは他者=犯人に向かって無限に送り返される。
 「アクロイド殺し」は一人称による告白形式であり、従って徹底的にモノローグ的である。そこに他者が介入する余地はない。一方「我が生涯最大の事件」のテクストは他者による侵食の可能性を常に孕んでおり、他者に向かって、云ってみれば他者という無限に向かって開かれている。私はこのような事象、つまり他者のテクストへの介入可能性をデリダの用語に倣って「幽霊」と呼ぶこともできる。
 この問題をオブジェクトレベルとメタレベルという二分法の問題に還元することはできない。この地点においてはそのような二分法の設定自体がもはや無意味であるからだ。幽霊は、階層的な上下方向ではなく、云ってみれば横方向に突き抜ける線を描く。
 しかし通常の読者はテクストの自明性が瓦解に至る極北の地点まで思考を進めない。大抵は高橋が真犯人だったという地点で納得し思考を止めるからである。そこでは結果的にはテクストの自明性がなお保たれたままであり、幽霊が介入してくる余地はない。ここに読み手の欺瞞性がある。他者による介入可能性を受け入れること、それはテクストの自明性を徹底的に疑うことであり、それを柄谷行人のひそみに倣って仮にデカルト的懐疑と名付けることもできるかもしれない。そしてそれを彼岸に至るまで突き詰めたところに無限という他者、言い換えれば作者の固有名が現れる。

 いいかえれば「疑う」ことには、最初から、他なるもの、他者の他者性がひそんでいる。この他者は、心理的・人格的なレベルでの他者ではない。しかし、フッサールが超越論的コギトから構成するような他者でもない。「疑う」ことには、レヴィナスの言葉でいえば、「他者の痕跡」がひめられている。一方、「思惟する」ことにおいては、それは消されてしまう。
(……)「われ在り」とは、いわば「無限の中で疑いつつわれ在り」ということである。
(「探究Ⅱ」柄谷行人

 ここにはバルト的なテクスト讃歌は存在しない。生命論的なテクストの「快楽」も、無責任かつ楽観的な作者の「死」も存在しない。逆に、テクストは無限に触れた瞬間に凍死する。福田和也の言葉を借りれば「その無限は、祝福と神と詩の偏在に彩られたロマン的な無限とは対極にある、無意味で希望も快楽もない不吉な連なり」であり、その場所は、「身体も凍り、魂も凍てついた場所である。」(南部の慰安)
 テクストへ直接介入できる犯人とは一体何者か、それはもはや作者と同じ権限を持った犯人ではないか。テクストの自由裁量を持っている時点でその犯人を作者と区別して考えることは無意味ではないか。ここに犯人=作者という図式が見えてくる。他者のテクストへの介入可能性を認めた時点で総ての推理小説は突き詰めて考えると作者こそが真犯人であるという一点に到達する。
 しかしその作者とは誰なのか。犯人が作者だとわかったところでその作者をどのように特定できるのか。ここにも「我が生涯最大の事件」と同じ問題が見られる。小説内から小説の外部へ問題が移っただけだ。つまり表紙に例えば折原一という作者名が印刷されていても、本当に折原一がその小説を書いたという保証は一切ないのだ(まさしく文字通りのゴーストライターの問題がここにはある)。
 このような小説の可能的根拠すら危ぶまれる地点において、それでは読者はその小説を読むことを放棄する他ないのであろうか。恐らくはそうではあるまい。作者もテクストも消滅した場所、小説の自明性すら根絶したような場所においてすら、それでもなお、小説を小説として成り立たしめている存在根拠、それでもなお読者を小説に向かわせるものが在るとしたら、それは、作者の「署名」、作者の「固有名」にこそ求める以外の道はない(作者の「署名」がないテクスト、例えば匿名掲示板に投稿された小説等の場合はどうなるのか(しかし匿名掲示板の場合は例えば「名無しさん」という名前が署名代わりにならなくもないとも言える)。この問題の検討はいずれにせよ避けて通れないだろうがひとまずここではおく)。読者は文字通り作者の固有名に触発される。テクストはもはや作者の固有名を映し出す透明なフィルターのごときものになり、そこにおいて読者は作者の抜き差しならない固有名とじかに対面することになる。
 テクストとは自己生成的な快楽に満ちた場所ではない。そこは空虚な場所であり牢獄であり、密室である。そこには死体がひとつある。その死体とは作者である。殺したのは読者に他ならない。読むという行為は、テクストの無限の可能性を、一つに絞り込むということであり、言い換えれば「無限」を一度殺すということである。「なお一歩を踏み超えるためには、書き、読むためには、テクストの、言葉の、「無限」を殺さなければならないのである。」(「生きている文章、死んでいる文章」福田和也
 しかし無限を一度殺したところに、言い換えれば殺された無限は、「幽霊」として、「固有名」として、密室の現場に回帰する。
 最初の推理小説、すなわちエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」は、まさに「幽霊」というテーマを批評的に扱ってみせた小説であるという点で、正確な意味で推理小説の元祖として位置附けることができる。この密室殺人の犯人は、人間であってはならなかった。なぜなら、この犯人が話すパロールは、どこの国の言語にも回収され得ない(ある証人はそれをスペイン語だと云い、また別の証人はそれをフランス語であると云う)純粋な差異として、言い換えれば無限性の象徴として提示されなければならなかったからである。
 密室殺人とは端的に云って不可能である。なぜならばそこが密室だからである(よって既存の推理小説に出てくる密室殺人はすべて不完全な密室殺人である。なぜなら密室は犯人によって、そして探偵によって常に破られるからだ)。しかし幽霊は、幽霊だけが、不可能性の可能性として、まさしくアポリアの経験として、その場所に不断に回帰するのだ。
 作者の死を、さらには「幽霊」を不可能性の可能性として受け入れること、それは読者を認識論的主体と同時に或る倫理的主体として構成することを意味している。

 というのも逆に、もし死がまさに、不可能なものの可能性であり、従って、死が、それ自体として現れることの不可能性がそれ自体として現れることの可能性であるとするなら、人間、あるいは現存在としての人間の方もまた、死それ自体への関係など決してもっておらず、単に滅びること、死亡することへの関係を、そして他者ならぬ他者の死への関係をもつに過ぎない。他者の死はこうして再び、喪の経験すなわち、私の私自身への関係を創設し、この経験を構造化する――内的でも外的でもない――差延のなかで、egoのego性と同様にあらゆるjemeinigkeitを構成する喪の経験として、「第一の」ものに、常に第一のものになる。
(「アポリアジャック・デリダ

 この引用文だけではなんのことやらわからないので補助線として廣瀬浩司による解説を引いておこう。

「喪の経験」とは、失われた他者を自己の中に取り込み直そうとする運動である。それは、私の内部の他者の死として、私の私自身への関係を創設する。到来する死者が、自己の中にすでに歓待を受けていなかったら、自己性も固有性もない。他者は、あたかも家に住みつく亡霊のように、つねに回帰するものとして現れる。しかしそれは、まったく予測不可能なときに、そのつど新たに現れるのである。言い換えれば、それは不意に現れる客であると同時に、現在の家の主人よりも古い主人として振る舞う、そのような「客」なのである。このトポロジー的な二重性ゆえに、失われた他者を自己に取り込み直そうとする喪の作業は、不可能で終わりのない作業となる。
(「知の教科書 デリダ」林好雄 廣瀬浩司

 「無限」という他者に責任を取ること、それは終わりのないプロセスとして無限に反復されざるを得ない。「読む」とは、つまりはそのような行為に他ならないのである。
 上述のコルタサルの「占拠された屋敷」は、まさしく家に亡霊が回帰するプロセスそのものを描いた寓話として読まれなければならない。また、上の議論を念頭に置いた上で読めば、そこには描かれてない一つの殺人事件が隠蔽されていることも看取されるはずである。隠蔽された殺人、それは他者の殺害であり、犯人は読者である。描かれない殺人はテクストの外部で、読者と作者という関係の次元の中で人知れず遂行される。幽霊はテクストの中に、密室空間の中に回帰する。
 最後に一つの作品を紹介したい。色川武大の「生家へ」である。

ふと眼をあけると、生家の中に自分が居る。眼の中に生家の幻が焼きついていて他のすべてを遮断し古い映画のフィルムのようにチカチカとまたたきながら、それは私の視界を覆っている。眼を開けていてもつぶってみても同じことで、自然に消えていくまで、静かな発作に身を任せるようにして、つくねんとそれを眺めているより仕方がない。
(……)けれども、生家の幻には、人の姿を見たことがない。肉親に密着するときの情念のようなものがまったく無いとさえいえる。だから私には対応のしようがない。幻が消え去ってから、そうだ、あそこは懐かしいところなんだから、というような決着をわずかにひとりでつけるのである。
 幻の八畳間には、仏壇があり、遠い棚があり、小さな庭に面したガラス障子に秋草を模した切り紙が貼ってある。天井がかなりくろずんでおり、天井版のすきまに貼った紙に雨漏りの痕がついている。そうしてかすかに黴の臭いさえ意識される。
(……)けれども、ただひとつちがうのは、誰も人の姿がない。
(「生家へ」色川武大

 なるほど確かにその生家の中には誰の人影も認められない。しかしそれは空虚を意味しない。むしろその家の内部は数多の幽霊によって、死者たちの記憶によって満ちている。
 人は何かを読むとき、常にテクストを殺しているし、殺し続けることによってしかテクストを読むという行為は成し得ない。しかし人はテクストを殺すということに、たとえ一瞬でも自覚的になることができる。テクストを殺すことを認めること、他者の死に対して責任を取ること、死者たちの声なき声に応答すること。そのような場所に立つときだけ、幽霊は常に不可能なものとして回帰する。