海外の『serial experiments lain』コミュニティについて

今年(2018年)は『serial experiments lain』20周年ということで、ファンの有志によるイベント が開かれたり、脚本家の小中千昭氏がブログを開設したりと、各所で『serial experiments lain』を回顧する催しが行われているようです。

そこで、この記事では、そういった盛り上がりとは一見したところ無関係の場所で営まれている『lain』コミュニティを紹介することで、『lain』の受容層の広がりと深さの一端をお伝えしたいと思います。

 

■lainchan

海外のインターネットには、いわゆるchan系と呼ばれる、日本の「ふたば☆ちゃんねる」に端を発する匿名画像掲示板が数多く存在しています。その中でも、『serial experiments lain』をモチーフとするchan系画像掲示板が、この「lainchan」です。

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「lainchan」は、2014年4月に設立された、サイバーパンクとテクノロジーとカルチャーに特化した匿名画像掲示板で、他と同じく様々なテーマの「板」によって構成されています。たとえば、/λ/(プログラミング)、/sec/(セキュリティ)、/Ω/(テクノロジー)、/inter/(ゲームとインタラクティブ・メディア)、/drug/(ドラッグ)、/zzz/(意識と夢)、等々。おわかりいただけるように、『serial experiments lain』そのものを語るというよりは、これら様々な領域を横断して現れる共通のイコンとして『lain』=岩倉玲音のビジュアルが用いられている、と言ったほうがいいでしょう。

加えて、このコミュニティの特徴として、年齢層がとても若い、ということが挙げられます。InstallGentoo Wiki記述によると、管理人チームは全員10代の若者で、前運営者だったKalyxは、設立当時14歳だったとも言われています。

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■/lit/

すべての板を紹介する余裕はないので、ここではあえて/lit/(文学板)を紹介してみます。SF小説や『serial experiments lain』公式ファンブックに関するスレッド、自作ポエムを投稿するスレッドなどが立ち並んでいますが、中でも「S H A R E T H R E A D」という、その名のとおり書籍を「シェア」するためのスレッドがアナーキーさで群を抜いています。

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ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』やハルキ・ムラカミに交じって、銃器や簡易地雷の作り方から格闘術、外国人が書いた怪しげな「忍術」の書、オカルトや陰謀論、さらには白人至上主義の本まで、無数の書籍がPDFやEPUBファイルで無断アップロードされています。アンダーグラウンドといえばまさしくアンダーグラウンドなわけですが、とはいえ違法アップロードはもちろん推奨されるべき行為ではありません。

 

■Lainzine

また、「lainchan」では有志たちが集まって『Lainzine』という名の非営利のWebzineを不定期に発行しています。もちろん誰でも無料で読むことができます。

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内容は多岐にわたっており、プログラミング、ネットワークセキュリティと暗号化、電子機器の修理方法、ゲーム機のハッキング、グリッチアートの作り方、ダークウェブでドラッグを購入する方法、スタンガンの作り方、夢日記、小説、エッセイ、トランスパーソナル心理学に基づいた変性意識と自己変革の勧め、等々、どれも『lain』とは直接的にはほぼ無関係ですが、しかしきわめて『lain』的としか言いようがないトピックが並びます。

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中には明らかに法に触れていそうなトピックも含まれているので、あまり人に勧めるのはお勧めできません。

 

■arisuchan

さて、「lainchan」は2016年の9月にKalyxが運営から退き、代わりにAppleman1234が新たな運営者となっています。その際、一部の管理メンバーが新運営者の方針に異を唱え、その結果、「lainchan」から分化する形で「lainchan.jp」という掲示板が新たに生まれます。その後、「lainchan.jp」は「arisuchan」と名前を変え現在に至っています。言うまでもなく、arisuとは、ここではルイス・キャロルの幼い恋人の名前ではなく、岩倉玲音の親友の名前を指していると思われます。

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 あくまで「lainchan」の姉妹サイトなので、「板」の構成こそ若干違えど、雰囲気はだいたい「lainchan」と同じです。

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ちなみに、/λ/(プログラミング板)では、なぜかアニメキャラクターがプログラミングの参考書を読んでいるコラ画像をよく見かけます。

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『計算機プログラムの構造と解釈(SICP)』を手に持つ様々なアニメキャラクターたち。

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これは『計算機プログラムの構造と解釈』を熱心に読み耽る雪村あおいの様子です。

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『The Little Schemer』を一緒に読んでほしいと懇願してくる萌えキャラ。

 

■TSUKI Project

ここでchan系画像掲示板コミュニティから一旦離れて、変わり種として紹介したいのが、TSUKI Projectと呼ばれる謎めいたコミュニティです。f:id:shiki02:20180702232934p:plain

TSUKI Projectは、去年テクノロジー系のWebメディアMOTHERBOARDが報じたことで、海外インターネットユーザーの間でも若干知られるようになりましたが、それでもまだまだアンダーグラウンドかつオンリーワンな存在感を醸し出しています。

「サイバーパンクな死後の生を約束する謎の4chan宗教」と題したMOTHERBOARDの記事では、TSUKI Projectは「アニメ自殺カルト教団」(anime suicide cult)と表現されています。「アニメ」と「自殺」と「カルト」という、なかなか凄い並びの文字列ですが、一体全体どんなコミュニティなのでしょうか。

TSUKI Projectとは、Tsukiというハンドルネームの16歳の若者が2017年1月頃に開始した「プロジェクト」。Tsukiは、以前から自身の頭の中で"Systemspace"と呼ばれる「第二の世界」を構築していました。同時期に匿名画像掲示4chanの/r9k/にTsuki自身が立てたスレッドにおいて彼は、今の世界は消えつつある、しかし多数の人々の共同作業によって人類は新世界に移行することができるようになる、と主張しました。最初はネタだと思って相手にしなかったanon(=名無し)でしたが、徐々に耳を傾ける人々が増えていきました。

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次にTsukiは、スレッドの人々に紙を用意し、"a62cd92b2104acbd928ccb29"というコードと適当に思いついた絵を描いたのち、その画像をアップロードするように指示しました。それはひとりひとりの魂の座標を把握するためで、指示に従った人々には"EIDs"と呼ばれるIDが個別に発行されました。ちなみに、Tsukiが各"EIDs"をまとめた手書きのメモ画像には、見たことのない国の言語が書かれていたのですが、それはやがて"Synapsian"と呼ばれる独自の人工言語として体系化されていくことになります。

またTsukiは、同スレッドにおいて、この「登録」の作業を自動化するためのサイトを目下構築中であると宣言しています。このサイト(Systemspace.link)は同年3月に完成し、TSUKI Projectのいわばポータルサイトとして運用が開始されます。トップページには、東京を思わせる街並みを背景にこちら側を振り向く岩倉玲音のビジュアルが用いられています。

急速に体系化&肥大化していったTsukiの思想(=妄想?)をここで網羅することはもとより不可能ですが、要は「死後の生」と「サイバーパンク」をミクスチャさせた疑似宗教と言うことができそうです。彼の教義には数えきれないほどの造語と専門用語が頻出しますが、重要となるキータームはさほど多くありません。

Tsukiによれば、宇宙は"Systems"という無数の仮想現実によって構成されていると言います。その中の私たちが住む仮想現実空間は“Life”と呼ばれ、宇宙を司るエネルギー"Aurora"の漸進的枯渇によって消滅の危機に瀕しています。そこで、"RISEN"と呼ばれる企業は新たな集合宇宙(omniverse )である"Systemspace"を設立。いわば"Systems"のリブートと言えるわけですが、その過程で古い"System"である“Life”は"Systemspace"との接続を切断され、やがて消滅する運命にある。しかし、"RISEN"と提携関係にあるTSUKI Projectを介して事前にサインアップした人々は、“Life”が"Systemspace"から切断された後も魂は"Systemspace"に移行され、“Life”の上位階層にあたる"LFE"において第二の永遠の生を送ることになる……。ちなみに、先のMOTHERBOARDの記者が、メンバーの一人に"LFE"のイメージを尋ねたところ、「『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を思わせる近未来のトーキョー」という答えが返ってきたそうです。

以上はあくまで筆者の拙い理解による大雑把な要約にすぎません。より正確な教義を知りたい向きは、TSUKI Projectに関する難解なジャーゴンをまとめたTSUKI Project Wikiや、TSUKI Projectにおける聖典ともいえるSystemspace Compendiumを参照することをお勧めします。

さて、この教義の真の要諦は、2017年7月1日までにTSUKI Projectに魂のサインアップを完了させておいた者は、それ以降に死ぬと魂がTSUKI Projectに保管され、“Life”の消滅後に自動的に"LFE"に移行できるという点です。この「死ぬ」というのは、老衰であっても自殺であっても同じで、死んだ者は皆ひとしく"LFE"に「次元上昇」することが約束されます。

TSUKI Projectが「自殺カルト」と表現されたのはこのためです。もっとも、Tsuki自身は決して自殺を推奨していませんし、むしろ避けるよう公言しています。しかし、このセントラルドグマが、自殺志願者にとってある種の避けがたい誘惑となりかねないのも確かだと思います。

そもそも、Tsukiが最初にインターネット上に姿を現したのは、2017年の1月19日、Reddit上の「Maladaptive daydreaming」というフォーラムにおいてでした。Maladaptive daydreamingとは、DSMにも記載されていない、最近になって存在が確認されてきたマイナーな精神疾患ですが、簡単に言えば、強迫的な空想や白日夢によって日常生活に支障をきたす疾患とされています。Tsukiはそのフォーラムで、「自分の白日夢が8月28日までに死ねと言ってくる」というタイトルのスレッドを立てています。そこでは自身の"Systemspace"に関する教説を唱えながら、同時に「"Life"の崩壊を初期化するために8月28日までに自殺しなければならない」といった悲痛とも言える強迫観念や、"Systemspace"を「僕の白日夢の世界」と表現したりと、以降の体系化と抽象化を施された教義と異なり、明確にTsuki自身の、切れば血が出るような実存とオブセッションとに関わっていることが伺えます。したがってTSUKI Projectは、単なるロールプレイ的な"SFごっこ遊び"とも言い切れない「剰余」を抱えていることも確かだと思われます。

serial experiments lain』から随分遠く離れてしまったようにも思えますが、たしかにTSUKI Projectの教義そのものに『lain』が関わってくることはないとはいえ、サイトのトップページに岩倉玲音のビジュアルが載せられていること、さらにTsukiが掲示板の書き込みに併せて必ずといっていいほど岩倉玲音のキャプチャ画像を載せること、などからもTsukiの『lain』に対する偏愛は明らかです。そもそも『lain』自体が、とりわけTVアニメシリーズ前半において、サイバースペースである"Wired"を「死後の世界」の見立てとして提示していました(たとえばTVアニメ第一話は、自殺した同級生のメッセージが"Wired"から届くという導入でスタートします)。TSUKI Projectにおける"LFE"が一種の「死後の生」であるとするならば、『lain』における"Wired"との親和性は明らかです。他にも、キリスト教における千年王国思想、または日本のいわゆる「異世界転生もの」との類縁性も指摘しておきたいのですが、キリがないので今回はこの辺にしておきましょう。

TSUKI Projectは、2017年の8月に内部のゴタゴタがあったようでプロジェクトを休止していましたが、今年2月下旬頃に装いも新たに再始動。現在は新たな登録者を受け入れるための"Project Miracle Ribbon"なるプロジェクトが目下進行中であるとのこと。

 

■TSUKICHAN

おまけとして、TSUKI Projectの信者(?)が集うchan系画像掲示板「TSUKICHAN」のトップ画像を載せておきます。

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余談ですが、先に紹介した「arisuchan」は、TSUKI Project関係の避難所スレッドが立てられたりと、TSUKI Projectと少なからず親交があるようです。

のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析

キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。

彼らに共通する特徴として、①独学で得た技術的知識を活かす ②比較的低予算 ③活動拠点をYoutubeに限らない ④個人的な欲望が出発点*2、などが挙げられる。中でも、みゅみゅとのらきゃっとは、本来はニコ生を活動拠点にしていたという点で、その他の有名どころのVtuberとは出自を異にする。この出自の相違は重要である。というのも、ニコ生におけるライブ性は、みゅみゅ、そしてのらきゃっとのスタイルと密接に関わっているからである。本稿では、のらきゃっとにおけるスタイルの考察をとおして、インディペンデント系Vtuberのアクチュアリティを探っていく。

まず、ニコ生時代から一貫して、のらきゃっとはライブ配信を中心した活動を行っている。ここがまず企業系Vtuberとはもっとも異なる差異だろう。その意味で、のらきゃっとは所謂Youtuberというよりは生主の形態に近い。Yotubeとニコ生というメディア的差異は、そのままスタイルの差異に繋がる。のらきゃっとのスタイルは、すべてライブ配信のために生み出されたスタイルと言っても良い。事実、のらきゃっとの魅力は、ライブ配信における視聴者たちとの一回的なコミュニケーションにこそある。

のらきゃっとのライブ配信に欠かせないのがいわゆる「ご認識(=誤認識)」である。周知のように、のらきゃっとは、音声認識による自動の字幕生成と、さらにその字幕を読み上げるVOICEROIDという二つの演算プロセスを経て発話している。結果、プロデューサー(≒中の人)の発話が、のらきゃっとの発話として変換されるまでの間に、様々な誤配の罠が待ち受けることになる。例えば、「紅茶」を誤認識して「校舎」と発話してしまうケースが基本パターン。他にも、同音異義語が区別できず「1000人」と発したいのに字幕が「仙人」と生成されてしまうパターン。さらには、グーチョキパーの「チョキ」が同音異義の「猪木(ちょき)」として字幕生成され、それをVOICEROIDが「いのき」と発音してしまうという、いわば二重の誤認識とでも言うべき複雑なパターンも見られる*3。これらの「ご認識」のパターンが複雑に絡み合うことで、のらきゃっとの言語は、ときに一種の隠喩と暗号の体系のようにすら見えてくる。いわば視聴者は、のらきゃっとが発する「ご認識」をそのつど適切に「解釈」する必要性が出てくるのだ*4

言ってしまえば、これはいわゆる精神分析におけるセッションに近い。周知のように精神分析においては、カウチに横になった患者の自由連想的な発話から、分析家が患者の無意識の欲望を取り出してくるのだが、その際に重要な測鉛となるのが俗にフロイディアン・スリップと呼ばれる「言い間違い」なのである*5。例えば、フロイトは『精神分析入門』の中で、ある教授が発した「女性性器には無数のVersuchungen(誘惑)にもかかわらず……いや失礼……無数のVersuche(研究)にもかかわらず」という「言い間違い」の例を挙げているが、これなども、のらきゃっとの「ご認識」を彷彿とさせるに余りある。また同時に、視聴者たちは、そういったのらきゃっとの「ご認識」に対して(ときには正確な発語に対しても)、折に触れて「(意味深)」を文末に付けることで、そこに性的な「隠喩」を読み込もうとするのだが、これなども正しくフロイト的な作法と言えるだろう。

もちろん、のらきゃっとはアンドロイドなので無意識は存在しないはずである。それでも、「無意識は言語のように構造化されている」というジャック・ラカンのテーゼのように、のらきゃっとと我々視聴者との間に横たわる広大な言語の体系が無意識の代わりを担っているのかもしれない。のらきゃっとと視聴者は、間に介した言語の体系(=象徴界)にそれぞれアクセスすることで、各自の無意識の欲望を引き出してくる。もはやここにおいては、患者と分析家の区分は曖昧である。例えば、のらきゃっとが誤認識で「パパ」と発声してしまうとき*6、視聴者は即座に「私がパパだ」と応答することで、みずからをのらきゃっとの父的主体として生成させる。いわば、のらきゃっとは、「ご認識」を通して言語の体系にアクセスすることで、視聴者の無意識的欲望(のらきゃっとのパパになりたいという欲望)を指し示すのである。あるいは別の視点から見れば、視聴者は、のらきゃっとの無意識=欲望を、みずからの無意識=欲望として受け入れるのである。このような関係は、「分析」というよりは、のらきゃっとが正しく言うように「調教」なのであって、このような「調教」のプロセスを経ることで視聴者は訓練された「ねずみさん」へと生成変化していくのである。

確認してきたように、のらきゃっとと私たちは、「ご認識」(=言い間違い)と「(意味深)」(=隠喩)というツールをコミュニケーションに導入することで、言語を字義通りの意味から不断にズラし続けていくのだった*7。ただし注意しておくべきは、のらきゃっとと私たちとの間に発生する無意識の境域は、ライブ配信ごとにそのつど形成されるアドホックなものである、という点である。「ご認識」はそのつど、新たな「設定」や「欲望」を生み出すが、それが次回のライブ配信に持ち越されることは稀である*8。その意味で、プロデューサーがツイッターなどでも折に触れて発言するように、のらきゃっとは我々視聴者とプロデューサーが共同で作り上げていくのだ、と言ってよい。「私は、一番魅力的なわたしでありたい。」という名高い台詞は、プロデューサーと視聴者の双方にとって「魅力的」という意味であるから、そのためにのらきゃっとは常に変化し続けていくことを宿命づけられる。

それでは、「変化」こそがのらきゃっとの条件であるとするなら、のらきゃっとの自己同一性は一体どこにあるのだろうか。実際例えば、2018年1月21日の配信において、VOICEROIDをそれまでの東北ずん子から商用利用が可能な紲星あかりに変更したのだが、それに伴い口調も変更してみるといった試行錯誤が行われた。このような、声質に応じて性格も変えてみるといった実験は、のらきゃっとと中の人(≒プロデューサー)の人格が明確に分離しているからこそ可能と言える。それは、プロデューサー自身も愛好していたというTRPGやPBW(プレイバイウェブ)におけるPL(プレイヤー)とPC(プレイヤーキャラクター)の区別に等しい。プロデューサー(PL)はあくまで、のらきゃっと(PC)を外側から操作=ロールプレイしているに過ぎない*9

さらに、のらきゃっとは外見もいずれは商用利用可能なオリジナルアバターに換装されるだろうとプロデューサーは公言している。プロデューサー自身、1月22日のツイートの中で「テセウスの船」という言葉を持ち出しているように、ここにあるのはサイバーパンクめいた自己同一性の問題である。声と性格、そして外見すら変化していくとしたら、のらきゃっとをのらきゃっとたらしめる個性=自己同一性はどこに存在するのか。というか、それは果たして「のらきゃっと」と呼びうるのか。

もちろん、これはもはや我々が好きだった「のらきゃっと」ではない、として離れていく視聴者も今後一定数出てくるだろう。しかし、私はそれでも「のらきゃっと」を「のらきゃっと」たらしめているものは存在する、と主張したい。それは、「スタイル」である。あるいは「作家性」と言い換えてもいいかもしれない。

www.nicovideo.jp

これは2017年4月16日、ということは約一年前に放送されたニコ生の録画である。見ればわかるように、外見=アバターも声の調声も現在ののらきゃっとと異なっているのだが、ここには明らかにその後ののらきゃっとに通じる「スタイル」とでも言うべきものが見いだせる。それは、のらきゃっと的としか言いようがないので、まったく異なるアバターにも関わらず、そこにのらきゃっとの未来の痕跡(?)を見てしまうかのようだ。例えば、動作、姿勢、ジェスチャー、目線、「ご認識」に対する反応の仕方、等々……。

これらの「スタイル」は、極言すればプロデューサー側に依拠しているので、たとえPC(プレイヤーキャラクター)側の構成要素がどれだけ変化しようが変わらない。例えば、視線や眼差しはそれ自体としては存在していないが、アバターが置かれるとそこに「幽霊」のように宿る、といった具合に……。

結局、事態は依然として複雑なのかもしれない。我々がのらきゃっとに見つめられるとき、その眼差しはのらきゃっとの眼差しなのか、それともプロデューサーの眼差しなのか。だが、これ以上考えるのはやめよう。「皆さんが、私に魅力を感じてくださるなら、私は魅力的な私であり続けます。」という言葉を今こそ字義通りに受け止めなければならない。我々がのらきゃっとに魅力を感じ続ける限り、のらきゃっとがそれを「裏切る」ことは決してないのだから。

*1:みゅみゅ氏はVtuberを名乗っていないので厳密にはこのカテゴリーに含めることはできないのだが……

*2:例えば、ねこます氏や届木ウカ氏に見られるTS願望

*3:同じように「貴重」と言おうとして「帰蝶(かえりちょう)」と発してしまう等々

*4:付言しておけば、「ご認識」はキャラクターが直接「言い間違い」を発話するという形態を取る点で、受け手の一方的な解釈に依存する所謂ニコ動的な「空耳」文化とも異なる位相にある

*5:例えば、「精神分析は彼が何を言わんとしたかということよりは、むしろ彼が実際に言ったことのほうに関心を向けるのである」(『ラカン精神分析入門』ブルース・フィンク)とあるが、これはまさしく我々とのらきゃっとの関係に近い

*6:おそらくは「まだ」や「ただ」あたりの誤認識

*7:例えば、のらきゃっとが「ご認識」を訂正しようと自分自身にツッコみを入れるが、それがまた新たな「ご認識」を生み……、という差異と反復のループ

*8:ちなみに、特定の「ご認識」が次回にも持ち越され定着した例としては「クラリキャットカッター」や「猫松さん」などがある

*9:だからこそ、1月24日の配信のように、のらきゃっとにプロデューサーの人格をインストールしてみるという逆降霊術のような試みが可能になる

『カードキャプターさくら 封印されたカード』感想

『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』を観て愛について考えない奴はどうかしている。

さくらは、二つの異なる「愛」の原理の間で引き裂かれている。
物語は終始、さくらに小狼からの告白に対する「返答」を強いるのだが、そのような重圧の下で「返答としての告白」は、しだいに「責務」、あるいは「負債」と化して、さくらに重くのしかかってくる。返答としての「告白」とは、言ってしまえば「ゲロる」という意味での「告白」であり、すなわちそこでの「愛の告白」とは窮極的には取調室や告解室における「告白」と何ら変わるところがない。つまり、それは真に能動的な愛の言明=告白とはならない。

とはいえ、さくらが小狼を想う気持ちは本物なのだから、したがって、さくらにとってのタスクは、「返答」を徹底的に逃れるような形での愛の「告白」という困難な実践となる。なぜ困難なのかと言えば、愛の告白は、コミュニケーションの一形態である限り、「返答」や「応答」と言った債務関係の回路と切り離せないように見えるからである。

要するに、物語が終始一貫してさくらに強いる「返答」としての愛の原理と、それらに回収されない未知の愛の原理という、二種類の愛の原理がある。さしあたり、前者を交換と債務原理に基づく愛、そして後者を交換不可能な愛、あるいは共約不可能な愛、としておく。

ところで先ほど、物語は終始、小狼に対する「返答」をさくらに強いると言った。確かに、さくらに周囲の親友はさくらに小狼への「返答」を執拗に促し、手助けしようともする。しかし同時に、さくらの小狼への「返答」をどこまでも妨害するのも、さくらの周囲の出来事(兄の不意の帰宅、廊下を走り去っていく同級生たち、割り込んでくる遊園地の着ぐるみ、飛び去るカード、…etc.)なのである。まるで、世界自体が二つに分裂して葛藤と闘争を繰り広げているかのように。この世界における分裂と葛藤は、さくら自身の無意識の分裂と葛藤でもあり、言い換えれば、世界はさくらの無意識を映す鏡のような存在としてある(その意味で、山崎の意図せぬ負傷とその後の顛末は、世界における狡猾な無意識のもっともあからさまな発露と言える)。

世界は、「返答しなければならない」という強迫と、「返答してはならない」(なぜなら「返答」は真の愛の表明とはならないから)という強迫との間でジレンマに陥り引き裂かれる。

そして、さくらの周囲の世界は消えていく。まるで、世界の消滅こそが、このジレンマに対する解決策であるかのように。さくらの周囲の人間と世界の消滅は、「返答」を強いる環境を消滅させ、さらに返答すべき相手すら消滅すれば、愛の告白はついに「返答」の回路から解放され、そのとき真の愛の言明が可能となる……?(しかし、相手=対象なき愛の言明とは一体どのような愛の言明なのか)。よって(?)、世界は世界自身の最終的な消滅を要請する。

そして実際に(!)、物語はそのように進行していく。「無」のカードによって世界が文字通り緩やかに「無」へと帰していくなか、さくらは「無」のカードと対峙し、そして遂にさくらカードへと変えることに成功するのだが、代わりに小狼が代償として「もっとも大切な気持ち」(=すなわち、さくらを想う気持ち)を失ってしまう。もちろん、このとき生成された「希望のカード」によって小狼は代償から逃れているのだが、それが判明するのはあくまで事後的でしかない。この瞬間、さくらはあくまで「大切な気持ちを失った」小狼として小狼と相対している。

周りの人々が消滅していく世界において、もはやさくらに「返答」を強いる存在はない。さらに言えば、「返答」すべき相手もいないとすらいえる。なぜなら、小狼は既に「もっとも大切な気持ち」を失っているとされるのだから。ところが、さくらが初めて真の、無条件の愛(=交換不可能な愛)の言明に成功するのは、この、奇妙にも消滅過程にある世界の只中で単独者として元小狼と相対したときなのである。

このとき、愛の言明は「返答」の回路から逃れることで、さくらは初めて能動的に、主体的に「好き」という感情を表明できる。たとえ、それが「大切な気持ちを失った」小狼に届かなくても。「小狼君が私のこと何とも思ってなくてもいい、私は小狼君のことが好き。」というクライマックスにおける告白の台詞は、実は前半部分の方が重要で、「小狼君が私のこと何とも思ってなくても構わない」という境位に自らを置くことで、さくらは「返答」の強迫観念から解放された能動的な主体へと己を生成させるのだ。

もちろん、このことは「賭け」としてしかあり得ないだろう。すべてが宙吊りとなる空白の瞬間、愛の言明は相手に遂に届くことなく中空へと消尽してしまうかもしれない、というバタイユ的な可能性に曝されながら、それでも無限の「跳躍」を試みること。すなわち、消尽の中に「希望=HOPE」を見出すこと。それこそが、さくらにとっての愛の言明となる。