のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析

キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。

彼らに共通する特徴として、①独学で得た技術的知識を活かす ②比較的低予算 ③活動拠点をYoutubeに限らない ④個人的な欲望が出発点*2、などが挙げられる。中でも、みゅみゅとのらきゃっとは、本来はニコ生を活動拠点にしていたという点で、その他の有名どころのVtuberとは出自を異にする。この出自の相違は重要である。というのも、ニコ生におけるライブ性は、みゅみゅ、そしてのらきゃっとのスタイルと密接に関わっているからである。本稿では、のらきゃっとにおけるスタイルの考察をとおして、インディペンデント系Vtuberのアクチュアリティを探っていく。

まず、ニコ生時代から一貫して、のらきゃっとはライブ配信を中心した活動を行っている。ここがまず企業系Vtuberとはもっとも異なる差異だろう。その意味で、のらきゃっとは所謂Youtuberというよりは生主の形態に近い。Yotubeとニコ生というメディア的差異は、そのままスタイルの差異に繋がる。のらきゃっとのスタイルは、すべてライブ配信のために生み出されたスタイルと言っても良い。事実、のらきゃっとの魅力は、ライブ配信における視聴者たちとの一回的なコミュニケーションにこそある。

のらきゃっとのライブ配信に欠かせないのがいわゆる「ご認識(=誤認識)」である。周知のように、のらきゃっとは、音声認識による自動の字幕生成と、さらにその字幕を読み上げるVOICEROIDという二つの演算プロセスを経て発話している。結果、プロデューサー(≒中の人)の発話が、のらきゃっとの発話として変換されるまでの間に、様々な誤配の罠が待ち受けることになる。例えば、「紅茶」を誤認識して「校舎」と発話してしまうケースが基本パターン。他にも、同音異義語が区別できず「1000人」と発したいのに字幕が「仙人」と生成されてしまうパターン。さらには、グーチョキパーの「チョキ」が同音異義の「猪木(ちょき)」として字幕生成され、それをVOICEROIDが「いのき」と発音してしまうという、いわば二重の誤認識とでも言うべき複雑なパターンも見られる*3。これらの「ご認識」のパターンが複雑に絡み合うことで、のらきゃっとの言語は、ときに一種の隠喩と暗号の体系のようにすら見えてくる。いわば視聴者は、のらきゃっとが発する「ご認識」をそのつど適切に「解釈」する必要性が出てくるのだ*4

言ってしまえば、これはいわゆる精神分析におけるセッションに近い。周知のように精神分析においては、カウチに横になった患者の自由連想的な発話から、分析家が患者の無意識の欲望を取り出してくるのだが、その際に重要な測鉛となるのが俗にフロイディアン・スリップと呼ばれる「言い間違い」なのである*5。例えば、フロイトは『精神分析入門』の中で、ある教授が発した「女性性器には無数のVersuchungen(誘惑)にもかかわらず……いや失礼……無数のVersuche(研究)にもかかわらず」という「言い間違い」の例を挙げているが、これなども、のらきゃっとの「ご認識」を彷彿とさせるに余りある。また同時に、視聴者たちは、そういったのらきゃっとの「ご認識」に対して(ときには正確な発語に対しても)、折に触れて「(意味深)」を文末に付けることで、そこに性的な「隠喩」を読み込もうとするのだが、これなども正しくフロイト的な作法と言えるだろう。

もちろん、のらきゃっとはアンドロイドなので無意識は存在しないはずである。それでも、「無意識は言語のように構造化されている」というジャック・ラカンのテーゼのように、のらきゃっとと我々視聴者との間に横たわる広大な言語の体系が無意識の代わりを担っているのかもしれない。のらきゃっとと視聴者は、間に介した言語の体系(=象徴界)にそれぞれアクセスすることで、各自の無意識の欲望を引き出してくる。もはやここにおいては、患者と分析家の区分は曖昧である。例えば、のらきゃっとが誤認識で「パパ」と発声してしまうとき*6、視聴者は即座に「私がパパだ」と応答することで、みずからをのらきゃっとの父的主体として生成させる。いわば、のらきゃっとは、「ご認識」を通して言語の体系にアクセスすることで、視聴者の無意識的欲望(のらきゃっとのパパになりたいという欲望)を指し示すのである。あるいは別の視点から見れば、視聴者は、のらきゃっとの無意識=欲望を、みずからの無意識=欲望として受け入れるのである。このような関係は、「分析」というよりは、のらきゃっとが正しく言うように「調教」なのであって、このような「調教」のプロセスを経ることで視聴者は訓練された「ねずみさん」へと生成変化していくのである。

確認してきたように、のらきゃっとと私たちは、「ご認識」(=言い間違い)と「(意味深)」(=隠喩)というツールをコミュニケーションに導入することで、言語を字義通りの意味から不断にズラし続けていくのだった*7。ただし注意しておくべきは、のらきゃっとと私たちとの間に発生する無意識の境域は、ライブ配信ごとにそのつど形成されるアドホックなものである、という点である。「ご認識」はそのつど、新たな「設定」や「欲望」を生み出すが、それが次回のライブ配信に持ち越されることは稀である*8。その意味で、プロデューサーがツイッターなどでも折に触れて発言するように、のらきゃっとは我々視聴者とプロデューサーが共同で作り上げていくのだ、と言ってよい。「私は、一番魅力的なわたしでありたい。」という名高い台詞は、プロデューサーと視聴者の双方にとって「魅力的」という意味であるから、そのためにのらきゃっとは常に変化し続けていくことを宿命づけられる。

それでは、「変化」こそがのらきゃっとの条件であるとするなら、のらきゃっとの自己同一性は一体どこにあるのだろうか。実際例えば、2018年1月21日の配信において、VOICEROIDをそれまでの東北ずん子から商用利用が可能な紲星あかりに変更したのだが、それに伴い口調も変更してみるといった試行錯誤が行われた。このような、声質に応じて性格も変えてみるといった実験は、のらきゃっとと中の人(≒プロデューサー)の人格が明確に分離しているからこそ可能と言える。それは、プロデューサー自身も愛好していたというTRPGやPBW(プレイバイウェブ)におけるPL(プレイヤー)とPC(プレイヤーキャラクター)の区別に等しい。プロデューサー(PL)はあくまで、のらきゃっと(PC)を外側から操作=ロールプレイしているに過ぎない*9

さらに、のらきゃっとは外見もいずれは商用利用可能なオリジナルアバターに換装されるだろうとプロデューサーは公言している。プロデューサー自身、1月22日のツイートの中で「テセウスの船」という言葉を持ち出しているように、ここにあるのはサイバーパンクめいた自己同一性の問題である。声と性格、そして外見すら変化していくとしたら、のらきゃっとをのらきゃっとたらしめる個性=自己同一性はどこに存在するのか。というか、それは果たして「のらきゃっと」と呼びうるのか。

もちろん、これはもはや我々が好きだった「のらきゃっと」ではない、として離れていく視聴者も今後一定数出てくるだろう。しかし、私はそれでも「のらきゃっと」を「のらきゃっと」たらしめているものは存在する、と主張したい。それは、「スタイル」である。あるいは「作家性」と言い換えてもいいかもしれない。

www.nicovideo.jp

これは2017年4月16日、ということは約一年前に放送されたニコ生の録画である。見ればわかるように、外見=アバターも声の調声も現在ののらきゃっとと異なっているのだが、ここには明らかにその後ののらきゃっとに通じる「スタイル」とでも言うべきものが見いだせる。それは、のらきゃっと的としか言いようがないので、まったく異なるアバターにも関わらず、そこにのらきゃっとの未来の痕跡(?)を見てしまうかのようだ。例えば、動作、姿勢、ジェスチャー、目線、「ご認識」に対する反応の仕方、等々……。

これらの「スタイル」は、極言すればプロデューサー側に依拠しているので、たとえPC(プレイヤーキャラクター)側の構成要素がどれだけ変化しようが変わらない。例えば、視線や眼差しはそれ自体としては存在していないが、アバターが置かれるとそこに「幽霊」のように宿る、といった具合に……。

結局、事態は依然として複雑なのかもしれない。我々がのらきゃっとに見つめられるとき、その眼差しはのらきゃっとの眼差しなのか、それともプロデューサーの眼差しなのか。だが、これ以上考えるのはやめよう。「皆さんが、私に魅力を感じてくださるなら、私は魅力的な私であり続けます。」という言葉を今こそ字義通りに受け止めなければならない。我々がのらきゃっとに魅力を感じ続ける限り、のらきゃっとがそれを「裏切る」ことは決してないのだから。

*1:みゅみゅ氏はVtuberを名乗っていないので厳密にはこのカテゴリーに含めることはできないのだが……

*2:例えば、ねこます氏や届木ウカ氏に見られるTS願望

*3:同じように「貴重」と言おうとして「帰蝶(かえりちょう)」と発してしまう等々

*4:付言しておけば、「ご認識」はキャラクターが直接「言い間違い」を発話するという形態を取る点で、受け手の一方的な解釈に依存する所謂ニコ動的な「空耳」文化とも異なる位相にある

*5:例えば、「精神分析は彼が何を言わんとしたかということよりは、むしろ彼が実際に言ったことのほうに関心を向けるのである」(『ラカン精神分析入門』ブルース・フィンク)とあるが、これはまさしく我々とのらきゃっとの関係に近い

*6:おそらくは「まだ」や「ただ」あたりの誤認識

*7:例えば、のらきゃっとが「ご認識」を訂正しようと自分自身にツッコみを入れるが、それがまた新たな「ご認識」を生み……、という差異と反復のループ

*8:ちなみに、特定の「ご認識」が次回にも持ち越され定着した例としては「クラリキャットカッター」や「猫松さん」などがある

*9:だからこそ、1月24日の配信のように、のらきゃっとにプロデューサーの人格をインストールしてみるという逆降霊術のような試みが可能になる

『カードキャプターさくら 封印されたカード』感想

『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』を観て愛について考えない奴はどうかしている。

さくらは、二つの異なる「愛」の原理の間で引き裂かれている。
物語は終始、さくらに小狼からの告白に対する「返答」を強いるのだが、そのような重圧の下で「返答としての告白」は、しだいに「責務」、あるいは「負債」と化して、さくらに重くのしかかってくる。返答としての「告白」とは、言ってしまえば「ゲロる」という意味での「告白」であり、すなわちそこでの「愛の告白」とは窮極的には取調室や告解室における「告白」と何ら変わるところがない。つまり、それは真に能動的な愛の言明=告白とはならない。

とはいえ、さくらが小狼を想う気持ちは本物なのだから、したがって、さくらにとってのタスクは、「返答」を徹底的に逃れるような形での愛の「告白」という困難な実践となる。なぜ困難なのかと言えば、愛の告白は、コミュニケーションの一形態である限り、「返答」や「応答」と言った債務関係の回路と切り離せないように見えるからである。

要するに、物語が終始一貫してさくらに強いる「返答」としての愛の原理と、それらに回収されない未知の愛の原理という、二種類の愛の原理がある。さしあたり、前者を交換と債務原理に基づく愛、そして後者を交換不可能な愛、あるいは共約不可能な愛、としておく。

ところで先ほど、物語は終始、小狼に対する「返答」をさくらに強いると言った。確かに、さくらに周囲の親友はさくらに小狼への「返答」を執拗に促し、手助けしようともする。しかし同時に、さくらの小狼への「返答」をどこまでも妨害するのも、さくらの周囲の出来事(兄の不意の帰宅、廊下を走り去っていく同級生たち、割り込んでくる遊園地の着ぐるみ、飛び去るカード、…etc.)なのである。まるで、世界自体が二つに分裂して葛藤と闘争を繰り広げているかのように。この世界における分裂と葛藤は、さくら自身の無意識の分裂と葛藤でもあり、言い換えれば、世界はさくらの無意識を映す鏡のような存在としてある(その意味で、山崎の意図せぬ負傷とその後の顛末は、世界における狡猾な無意識のもっともあからさまな発露と言える)。

世界は、「返答しなければならない」という強迫と、「返答してはならない」(なぜなら「返答」は真の愛の表明とはならないから)という強迫との間でジレンマに陥り引き裂かれる。

そして、さくらの周囲の世界は消えていく。まるで、世界の消滅こそが、このジレンマに対する解決策であるかのように。さくらの周囲の人間と世界の消滅は、「返答」を強いる環境を消滅させ、さらに返答すべき相手すら消滅すれば、愛の告白はついに「返答」の回路から解放され、そのとき真の愛の言明が可能となる……?(しかし、相手=対象なき愛の言明とは一体どのような愛の言明なのか)。よって(?)、世界は世界自身の最終的な消滅を要請する。

そして実際に(!)、物語はそのように進行していく。「無」のカードによって世界が文字通り緩やかに「無」へと帰していくなか、さくらは「無」のカードと対峙し、そして遂にさくらカードへと変えることに成功するのだが、代わりに小狼が代償として「もっとも大切な気持ち」(=すなわち、さくらを想う気持ち)を失ってしまう。もちろん、このとき生成された「希望のカード」によって小狼は代償から逃れているのだが、それが判明するのはあくまで事後的でしかない。この瞬間、さくらはあくまで「大切な気持ちを失った」小狼として小狼と相対している。

周りの人々が消滅していく世界において、もはやさくらに「返答」を強いる存在はない。さらに言えば、「返答」すべき相手もいないとすらいえる。なぜなら、小狼は既に「もっとも大切な気持ち」を失っているとされるのだから。ところが、さくらが初めて真の、無条件の愛(=交換不可能な愛)の言明に成功するのは、この、奇妙にも消滅過程にある世界の只中で単独者として元小狼と相対したときなのである。

このとき、愛の言明は「返答」の回路から逃れることで、さくらは初めて能動的に、主体的に「好き」という感情を表明できる。たとえ、それが「大切な気持ちを失った」小狼に届かなくても。「小狼君が私のこと何とも思ってなくてもいい、私は小狼君のことが好き。」というクライマックスにおける告白の台詞は、実は前半部分の方が重要で、「小狼君が私のこと何とも思ってなくても構わない」という境位に自らを置くことで、さくらは「返答」の強迫観念から解放された能動的な主体へと己を生成させるのだ。

もちろん、このことは「賭け」としてしかあり得ないだろう。すべてが宙吊りとなる空白の瞬間、愛の言明は相手に遂に届くことなく中空へと消尽してしまうかもしれない、というバタイユ的な可能性に曝されながら、それでも無限の「跳躍」を試みること。すなわち、消尽の中に「希望=HOPE」を見出すこと。それこそが、さくらにとっての愛の言明となる。

アニメにおける物体変化を巡る理論 ――作画崩壊、マテリアリスム、世界変革

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以下はたった今思いついた補足。
例えば、ノーマン・マクラレンは、「アニメーションの定義――ノーマン・マクラレンからの手紙」*1の中で、アニメーションを次のように定義した。

コマの上にあるものよりも、コマの間で起こることの方が、よっぽど重要だ。

それゆえ、アニメーションとは、コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術なのである。

一方、セルゲイ・エイゼンシュテインは、論文「ディズニー(抄訳)」*2の中で、ディズニーキャラクターの伸び縮みする身体から「原形質性」という概念を取り上げてみせる。

永久に割り当てられた形式の拒絶、硬直化からの自由、いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力である。
その能力を、私はここで「原形質性」と呼びたい。なぜならば、絵として描かれた存在は、明確な形式を持ち、特定の輪郭を帯びながらも、原初的な原形質に似たものとなるからだ。いまだ「安定した」形式を有さず、どんな形式を呈することもでき、進化の梯子の横木を飛び越して、どんなそしてあらゆる――すべての――動物の形式へと自らを固定させることのできるものである。

さしあたり、この「原形質性」を、アニメーションを根底において規定する全能的なメタモルフォーゼ性として捉えることができるだろう。問題は、マクラレンとエイゼンシュテイン両者のすれ違いだ。一方はアニメーションを規定する要素を、コマとコマとの間、言い換えれば運動に求め、一方は物体のメタモルフォーゼ性に求めている。
しかし見方を変えれば、両者は同じことを別様の二つの側面から言い換えているに過ぎないと言うこともできる。なぜなら、コマとコマとの間の操作とは運動のことだが、運動にはコマ、要するに原形質性を備えた物体がなければ成立しない。逆に、原形質性におけるメタモルフォーゼもやはり運動を前提としている。運動のないところに変容はないからだ。つまり、両者の議論は「ニワトリが先か卵が先か」であり相互依存的であると言える。よって、運動と原形質性を統一的に記述すべき共通の土台が必要となってくる。
ところで、私は以前 『Merca β03』に寄稿した「月の徴しの下に――アニメーションにおける器官なき身体」において、アニメーション制作におけるタイムシートという装置に着目し、これを「器官なき身体」として定式化しようと試みた。重複するので詳述は避けるが、秒間24のグリッドと複数の諸セリーによって分割されたタイムシートは、その平面上にそれぞれの原画、動画、背景、撮影指示等々を配分することで機械上ダイアグラムを構成する。また、諸セリーに配分された各原画と動画は、任意の比率、リズム、速度を有しており、各セリーとの間に共振関係を引き起こす。いわば、タイムシート=器官なき身体は、アニメーションにおける可能性の条件もしくは超越論的領野であり、その上ですべてが生起する内在平面である。
さて、器官なき身体の表面で生起するのは純粋な出来事であり、初期ストア派的に言えば非物体的なものの変形なのであるが(その意味で初期ストア派哲学はアニメ論と言える)、コマとコマとの間(における操作)と原形質性をともに出来事の次元に属するものとして再定式化することができると思われる。そのためにはまず、コマとコマとの間とは何なのか、言い換えればコマとコマとの関係性について考えなければならない。
ここで重要だと思われるのは、アニメーションにおけるコマとコマとの間に横たわる根本的な断絶性である。例えば映画においては、基本的にカメラは現実空間における自然物理学的な因果的連鎖を映す。その意味で、映画も秒間24コマに分割されているとはいえ、コマとコマとを繋ぐ関係性は原因と結果という素朴な因果関係をベースにしており、その安定した関係性が揺らぐことはない。
ところが一方、アニメーションにおいてはコマとコマとの関係はどこまでも帰納的なものに留まり、映画におけるような原因と結果に基づく厳密な因果関係は保証されていない。より具体的に言えば、アニメーションにおいては、あるコマの次に一見するとまったく繋がりのないコマが登場することも原理的にあり得る。そのような事態が商業アニメーションにおいてほとんど起こらないのは、作り手と視聴者が共に現実原則、言い換えれば映画的見方に依拠しているからだが、しかし見方を変えれば、このコマ間の帰納法的飛躍(アニメにおけるヒューム主義)は、作画崩壊などの形で常に可能性として開かれている(あるいは曝されている、と言うべきか)。作画崩壊とはアニメーション制作における一つの失敗であり欠陥であるのだが、ある瞬間に突如人物、物体、世界が、変容、錯乱、崩壊するのに直面したとき、我々はしかし逆説的にもアニメーション的経験の只中にいる。
繰り返せば、アニメーションにおいてはコマ間の関係は帰納法的であり、あるいはヒューム的に言い直せば、関係は「外在的」であると言える。二つのコマの間には因果関係ではなく、衝突が生み出す出来事とアフェクションがあるのだ 。
まとめれば、マクラレンが述べたコマとコマとの間とは、因果的連鎖から逃れた純粋な出来事のことであり、またエイゼンシュティンが述べた原形質性とは、この出来事を生起させる可能的条件、すなわち特異性を構成する内的な諸力の関係のことに他ならないのである。

*1:『表象07』所収

*2:同上

noteにダークウェブについて書きました

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ところで、これは記事の内容とは直接関係はないのだが、グーグルでダークウェブについて検索してみたら、どこかのニュースサイトの記事に行き当たり、そこではダークウェブについての、「危険!」だとか「絶対に近づいてはいけない!」といった仰々しい警鐘コピーが連なっていて、思わず苦笑してしまうのだった。
執筆者はどこかのサイバーセキュリティ会社の社長で、自身でダークウェブについての著書も書いてるようだった。私はその著書を読んでいないが、その記事では、ダークウェブがいかに危険な空間であるかを声高に煽り立てており、例えばダークウェブでは「ハッキングツール」や「銃器」が普通に売買されており、アクセスしただけでマルウェアに攻撃されることもあるので、決してアクセスしてはならないそうだ。私はその方面には不案内だが、しかしTorを使用していてマルウェアに攻撃されたことは一度もない。
しかし、その記事の筆者がサイバーセキュリティ会社の社長で、記事の終わりに、「こうした犯罪から身を守るには、企業であれば万全なサイバーセキュリティー対策への投資を惜しまない経営判断が求められます」といった文章がしれっと挿入されてたりするので、要はよくある「売らんかな」精神の発露の下この記事が書かれたと考えれば自然ではある。
つまり、彼らにとっては、ダークウェブはなるべくブラックボックスにしておくことが望ましい。そこが危険な空間であるという印象を吹き込んだ上で、近づいてはならないと警鐘を鳴らし、返す刀で自社のセキュリティソフトをちらつかせる。商法としてはスタンダードだ。
彼らが言いたいことはただ一つ。「我々はダークウェブから攻撃を受けている、よって防衛しなければならない」。
こう書くと、なんだか昨今の日本海界隈の情勢を思わせるようで若干笑えないのだが、このような言説による大衆操作は実際至る所で行われている。
彼らの戦略の要諦は、指し示しながら隠す、あるいは隠しながら指し示す、という二重の身振りにある。指し示した対象を「謎」や「禁忌」として覆い隠すことによって、ある「恐怖」という感情のもとに一定の集団を組織し、方向付け、動員する。
したがって、上にリンクした二つの記事はそうした体制に抵抗するために書かれた。抵抗とは「暴露」であり、覆いを取り除くことである。
もちろん、私がダークウェブについて知っている範囲はごく限られたものでしかないし、また叙述がジャーナリスティックなものに流れすぎた嫌いはあるが、とはいえそこに書かれていることは端的な事実でしかなく、つまりそこにはありふれた退屈さしかない。言い換えれば、内容はいかにジャーナリスティックであれ純粋に批評的なアプローチで書かれている。

noteに東山翔論をアップしました。

noteに『東山翔論――絶対的自由へ向けて』をアップしました。
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最終章以外は無料で読めますが、当方万年金欠ですのでsubscribe感覚で購読して頂けると助かります。
とはいえ、はやくも全文を書き直したい(特に4章以降)という誘惑に駆られていますが、それでもあえてこのテクストでの議論を乱暴に図式化してみるなら大体以下のようになるでしょう。
まず、マンガなどの二次元表現の領域には大雑把に、実在/非実在という二項対立があります。主に「表現の自由」を守ろうとする運動は、多かれ少なかれマンガ表現を「非実在」の側に置くことによって、あらゆる反道徳的、暴力的な表現を「想像力」に還元し免罪することでかろうじて「自由」を担保する試みだと言ってよいでしょう。また他方で「想像力」は、震災やアウシュヴィッツなどの、現実におけるなんらかのトラウマ的な事象に対しても、「想像せよ」という形で、現実に対する何らかの批評的な眼差しを向けることを可能にするとされてきました。
ところが、ロリ漫画、特に東山翔の作品は、ある意味で「現実=実在」が常に「想像力=非実在」に先行してしまうという意味で、根源的な転倒を孕んでいます。そこでは、実在/非実在を分かつ「/」という境界=前線が、「非実在」を飲み込み、外へ外へと溢れ出ていくかのようです。それは端的に言えば、前線が「内部」をすべて含み込んでしまったという意味で「外部」が何もない世界です。東山翔の作品では、すべてが虚構=非実在であると同時に、現実=実在でもあり得る。「実在」と「非実在」が等価であり並列している。
しかし、それでは、そのような「外部」のない世界において、それでも「外」があるとすれば、また「倫理」があるとすれば、それはどのようなものなのか。またそこにおける「自由」とはどのようなものでありえ、かつ作家が線を引く営為はどのような意味を持ちうるのか。
このテクストでは、それらについての答えをはっきりと提示することはできませんでした。白状すると「わからない」と言ってもいい。
このテクストにおける議論の混乱と迷いは、端的に言ってこの「わからなさ」に起因しています。
ただ、このテクストが何らかの端緒となり、有益な議論か何かに発展してくことでもあれば、とりあえずこのテクストの役目は果たされたと言うべきでしょう。

想像力は死なず、え、死んだって、そう、では死せる想像力よ、想像せよ。
(『死せる想像力よ想像せよ』サミュエル・ベケット

汚辱に塗れた獣たちの…… ――『ズートピア』試論

こうしたあいまいで、冗長かつ不完全な記述は、フランツ・クーン博士が『支那の慈悲深き知識の宝典』に見られると指摘している記述を思い起こさせる。はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で防腐処理したもの、(c) 訓練されたもの、(d) 乳離れしていない仔豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) はぐれ犬、(h) 上記の分類に含まれているもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 数えきれないもの、(k) ラクダの毛で作ったきわめて細い筆で描かれたもの、(l) など(エトセトラ)、(m) つぼを壊したばかりのもの、(n) 遠くからだとハエのように見えるもの。

――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ジョン・ウィルキンズの分析言語』

 

それでは、さようなら。わが友である読者諸君、家に帰って、檻に入り、しっかり扉を閉めて、おやすみなさい。よい夢を見て、ではまた明日!

――J・J・グランヴィル『動物たちの私生活・公生活情景』

 

It's called a hustle, sweetheart.

――zootopia

 

 セクシュアリティ、というファクターが、それが例えば先天的な肌の色や人種といった諸ファクターと異なり外的な姿形との乖離をしばしば伴い、また往々にして後天的かつあるいはミシェル・フーコーが『性の歴史 一巻』で指摘したような意味において想像的ですらある、といったような不可視性や揺らぎを内包しているというかくも単純な事実を、アナ雪LGBT論争は端的に示している。

 『アナと雪の女王』の劇中歌「レット・イット・ゴー」が、海外のアナ雪ファンの間でしばしばレズビアニズムやアセクシャリズムを肯定する歌として解釈されるという現象自体が、そもそもが解釈に揺らぎを伴うセクシュアリティという概念の不安定性に依るものでもあろうが、本稿ではアナ雪LGBT論争にはこれ以上立ち入らない。代わりにここで採り上げたいのは『ズートピア』である。

 とはいえ、その前に前提知識をあらかじめ共有しておくべきだろう。まず、これまでディズニーアニメ(ピクサーをそこに含めてもよい)はセクシュアリティに対する意識や配慮に極めて消極的であったという事実の確認。これは例えば、ディズニーにおける人種に対するポリティカル・コレクトネスへの配慮を考えてみると、近年の『プリンセスと魔法のキス』や『ベイマックス』を参照すれば明らかなように、明確にセクシュアリティよりも進歩的に描かれている。翻ってセクシュアリティの扱いに視線を移してみると、例えば『プリンセスと魔法のキス』や『塔の上のラプンツェル』が、性役割に対してやや脱構築的な試みも見られるも結局は王子様とお姫様が最後に結ばれるといった保守的なヘテロセクシャリズムに体よく収まっていることは否めない。この構図は『アナと雪の女王』にも実は当てはまっているのだが、エルサという特異なキャラクターの存在が、セクシャル・マイノリティという概念を図らずも作品内に異物のように混入してしまう。しかし、このことは前述したように解釈多様性や揺らぎといったセクシュアリティの本質性に由来するものでもある。

 前置きが長くなったが、要はディズニーアニメはかつて(特に近年)多様な人種を描いてきたが、それに反して性は二種類(すなわち男/女)しか描いておらず、そしてそれは『ズートピア』でも反復されているように見える、ということである。

 『ズートピア』は人間社会の差別構造を描いた寓話であるとされる。ところが、本作では(共同監督の一人であるバイロン・ハワードがゲイである、という事実にも関わらずというべきか)性差別的な寓意は表立っては現れてこない。それどころか、性関係そのものがほとんど描かれていない。ジュディとホップは、解釈の余地は残されているものの、ラストまで「友情」の関係を維持したまま終わる。もちろん本作がディズニー王道のプリンセスものに反するジョン・ラセター以降のピクサー系統に位置付けられる作品であることを考えれば違和感はさほどないどころかむしろ自然ですらある。しかし、ラストの二人が交わす会話は解釈を誘発させるだけに、かえって両義的な曖昧さを際立たせている。この性関係の慎重な排除とそれに反する解釈誘発性については改めて後述する。

 本作が扱っている差別の寓意が概して人種問題に限定されている、ということは一見して明白なようにも思える。キツネのニックは明らかに黒人の象形である。ニックが発し、やがて作品全体の通奏低音のようにニックとジュディとの間で反復される”It's called a hustle, sweetheart.”という台詞における”hustle”という語は、元々は「精力的活動」程度の意味だが、転じてストリートで生き抜くための金儲け(日本語字幕では「詐欺」となっていた)を指すスラングとして主に黒人の間で使用され、HIPHOPのリリック等にも頻出する。

 ニックは過去にジュニアレンジャースカウトにおける誓いの儀式の際に他の動物から口輪をはめられるというトラウマを持ち、以来「キツネ=嘘つきでずる賢い」という種族的偏見に自らアイデンティファイすることでストリートでhustling=生き抜いている。ここでさしあたり問題になっているのは、言うまでもなく種族間の差別である。ところが、物語後半、具体的にはジュディの記者会見以降になると、「キツネは肉食動物なので草食動物を襲う」というまったく別のタイプの偏見にニックはアイデンティファイしはじめる。ここには「種族」というカテゴリーではなく、「肉食/草食」という新たなカテゴリー分類が出現している。この、カテゴリー=ロジカルタイプの移動を端的に象徴するあるキーアイテムが存在する。それはもちろん「口輪」である。ジュディとロープウェイに乗るシークエンスで、ニックは幼少期を回想し、前述のように草食動物たちの仲間(ジュニアレンジャースカウト)に入るさい宣誓を誓う段になって口輪を嵌められたというトラウマが明らかになるのだが、「肉食/草食」という対立が明らかになっていないこの段階では、口輪はもっぱら「嘘つきのキツネ」の口を塞ぐという文脈で用いられている(例えばニックに口輪を嵌める動物のうちの一人の台詞は”You thought we could ever trust a fox without a muzzle? You're even dumber than you look!”で、ここでの主題はもっぱらキツネを巡る「trust=信用」に関わっている)。つまりこの段階ではニックはあくまでキツネという種にアイデンティファイしており、口輪もその文脈で出てくる。ところが、肉食動物凶暴化事件後のジュディの記者会見の場面において、ニックはもう一度フラッシュバックによって「口輪」の光景を再度思い出す。しかし、ここでの口輪はもはや「嘘つきのキツネを口を塞ぐ」という文脈における口輪ではなく、むしろそのままの意味、すなわち「肉食動物が他者に襲いかからないように口を塞ぐ」という文脈における口輪に変化している。

 

Nick Wilde: The kind that needs to be muzzled? (……)So l-let me ask you a question; Are you afraid of me? You think I might-I might go savage? You think that I might try to...EAT YOU?

 

 上に引用した台詞は記者会見後のジュディとニックのやり取りの一部だが、やはりmuzzle=口輪が「信用」ではなく「食べる」という主題の周りを巡って用いられていることがわかる。つまり、口輪というアイテムによって意味されているものが二つのシーンの間で巧妙に変化している。そして、恐らく大半の視聴者はこのミスリードに気づかない。もちろん、これは構造的なトリックとしか言いようのないもので、恐らくここに本作品最大の詐術=hustleが存在している。

 この構造的なギャップ、ロジカルタイプの作為的な移動は何を意味しているのか。ニックはあたかも「キツネ」という自らの出自であるところの種を放棄し、代わりに突如出現したまったく新しいカテゴリーである「肉食動物」という上位カテゴリーにアイデンティファイし始める。すなわち、もはや種族間差別、つまり人種差別の寓意ではなく、まったく別の事柄、問題、寓意が語られようとしているのではないか。

 事実、「肉食/草食」という新たな二項対立が打ち立てられて以降、あたかも作品全体がこの「肉食/草食」という巨大な二項に回収されていくかのようである。そこではもはや、ズートピアに住む多種多様な種族、また『シュガーラッシュ』直系ともいえるズートピアの世界観を特徴づける多元的なエリア等の設定それ自体が超越的な二項のもとで失調もしくは機能不全を起こしているような印象すら受ける。端的にいえば、なぜ多様な種族という魅力的な設定を機能不全に追いやってまで「肉食/草食」という超越的な二項対立が導入されなければならなかったのか。それがここでの新たな問いとなる。

 まず最初に検討すべきは、この「肉食/草食」というカテゴリーも、また何らかの隠喩ではないか、という点である。咄嗟に思いつくのが、この「肉食/草食」というカテゴリーはジェンダー、すなわち「男/女」にそれぞれ対応する隠喩なのではないか、という仮説。確かに肉食動物が草食動物を襲うという構図は、男性が女性をレイプするというステロタイプジェンダー構図を想起させるものであるし、特に我々日本人にとっては肉食系/草食系というカテゴライズは既に一般通念として浸透している。

 とはいえ、このような視座に立ったときに発生する新たな問題は、仮に『ズートピア』が裏テーマとしてジェンダーを巡る対立と偏見を寓意的に描いてるとしても、そこにはやはり「男/女」という、(たった)二つのジェンダーしか現れてこないという意味で、セクシュアル・マイノリティが描かれていない旧態依然の保守的なディズニーアニメを抜け出ていないという評価にしか行き着かないという点にある(例えこの暴力的な二分法が、作中における保守的な副市長が捏造したフィクションであるとしても、である)。

 加えて、「肉食/草食」という上位カテゴリーをジェンダーのそれの隠喩と解釈した場合、包摂関係にある種という下位カテゴリーと不可避的にコンフリクトを起こす。どういうことか。

 すべての種はいずれも肉食か草食に分類できる、という意味で「肉食/草食」は種の上位カテゴリーとさしあたり定義できる。しかし、「肉食/草食」をジェンダーと解釈した場合そのような階型は崩れてしまう。例えば、「ウサギは草食に包摂される」という命題は成立可能である。ところが、「黒人は女に包摂される」というテーゼは成立不可能である。なぜなら黒人には男も含まれているからである(すべての黒人が女であるとは限らない)。すなわち、「キツネは肉食である」という主語(特殊)―述語(一般)関係、言い換えればキツネ(特殊)が肉食(一般)に包摂されるという論理構造は、黒人と女の間にあっては成り立たない。というのも、ジェンダーは種の上位カテゴリーではなく、それぞれ別のロジカルタイプであるからだ。

 それでは、種の上位カテゴリーである「肉食/草食」という二分法が「男/女」の隠喩であるという見立てはやはり誤りだったのであろうか。その可能性ももちろんある。しかし、序盤、ズートピア警察署の受付担当クロウハウザーがジュディに投げかけた”cute”という単語を巡ってやり取りされた会話を思い出してほしい。”cute”と言われたジュディはクロウハウザーに向かって、「それはウサギという種全体を侮辱する言葉だ」というような含みを持った返しをする。

 

Clawhauser: O. M. Goodness, they really did hire a bunny. Ho-whop! I gotta tell you, you're even cuter than I thought you'd be.

Judy Hopps: Ooh, ah, you probably didn't know, but a bunny can call another bunny 'cute', but when other animals do it, that's a little...

 

 確かにこの作品にはウサギに向かって”cute”やらバニーガールを想起させる”little bunny”等の侮蔑語(?)が多数発せられるが、これらが人間社会において侮蔑語として機能する文脈は、大抵、男が女に向かって投げかけた場合に限る。つまり、ここには純粋にフェミニズム的な文脈が横たわっていると解釈することができるだろう。ところで、それらの言葉に対してジュディはウサギという「種」を代表して「ウサギという種に対する侮辱だ」と返す。ということは、つまり、この世界においてはウサギという種それ自体がある意味で「女=メス」というジェンダーを表象しているということにはならないか。この場合、先ほど検討した論理構造はまったく様相を変えてくる。すなわち、「ある種(特殊)は女(一般)である」という、一見錯乱したようなテーゼが可能となる……?

 ここでは一体何が起きているのだろうか。寓意はもはや現実に対応する論理構造を持たず空回りを始めている。言うなれば、『ズートピア』がもはや寓話ではない、寓話の域を逸脱したひとつの自律したフィクション世界として立ち上がってくるかのようでもある。

 もしかしたら、ここにこそ本作品におけるもっとも暴力的な詐術=hustleが働いているのかもしれない。なぜなら、もちろんズートピアにおけるウサギにはオス=男も端的な現実として存在しているからである。そこで生活する男=オスは「女=メス」という表象の下に抑圧されており、もちろん同様に「男=オス」という表象の下に抑圧されている女=メスも同時に存在しており……。斯くして、ズートピア世界の中に、それも「男/女」という二分法の只中に突如してセクシュアル・マイノリティの如きものたちが立ち現れる。それは、さながら抑圧の下に生きられた汚辱に塗れた獣たちの生=性のようでもあり……。

 フーコーセクシャリティを権力的言説の布置によって決定される事後的なものであると指摘したが、『ズートピア』はまさしくそのような事態を的確に描き出している、といえる。「肉食/草食」という二項はDNAというある種もっとも超越論的なファクターによって決定づけられているがゆえ、一見セクシュアリティとは反するようだが、逆説的にもDNAはもっとも内奥ないし不可視的=微視的であるがゆえに、副市長による策謀とジュディの記者会見という言説的布置が「肉食/草食」という二分法を可視化させるために要請されたのであった。前述の”cute”を巡るジュディの発言からもわかるとおり、「草食=女/肉食=男」といった二分法は既に無意識のうちにズートピアの住人に根付いていたのであるが、それが意識上に可視化されるためには記者会見という公の場において再度発言される必要があったのも、権力的言説の布置がいかにセクシュアリティの領域において作動しているかの例証となる。

 「女」という表象のもとに抑圧された男、それは例えばトガリネズミのミスター・ビッグであり、ナマケモノのフラッシュであり、またボゴ署長であり……。彼らは皆ファルスを去勢されているという点で共通している。ボゴ署長とミスター・ビッグにおける権力と力への意志は一種の去勢への反抗であろうし、フラッシュにおける車(ファルス!)とスピードへの意志も同様である。

 もっとも、このような解釈も、「肉食/草食」をジェンダーと解した恣意的な見立てを前提としているという意味で、解釈の悪循環に陥っているという批判もあるであろう。だが、我々が議論の出発点において確認したように、セクシュアリティとはそれ自体解釈を招来するものであって、いわば「隠喩としての病」なのである。その意味で、『ズートピア』は『アナと雪の女王』に見られたセクシュアリティの解釈多様性をさながら作品構造それ自体に転化させているかのようでもある。「種」と「肉食/草食」という二つのロジカルタイプのギャップに開けた深淵、その闇こそがセクシュアリティの隠喩に他ならない。

 物語ラスト、「肉食/草食」という言説体制が崩壊した後、ということは同時にセクシュアリティという隠喩が崩壊した後、まさしく「性関係は存在しない」空白の中間地帯が開ける。そこにあって、彼らはまた新たにセクシュアリティを、さらに言い換えれば愛を打ち立てる必要があった。それは常にやはり、他者の言葉=言説によって招来される必要性があった。つまり……

 

Nick Wilde: You know you love me.

Judy Hopps: Do I know that? Yes, yes I do!



※なお、本稿中における台詞の引用は主にhttp://www.imdb.com/title/tt2948356/quotesを参照

『Merca β03』に寄稿しました

Merca(アニメルカ)公式ブログ 『Merca β03』(アニメルカ×マンガルカ×ジャズメルカ――) 目次

『Merca β03』に木澤佐登志名義で論考「月の徴しの下に――アニメーションにおける器官なき身体」を寄稿しました。
石岡良治さんと泉信行さんと高瀬司さんによるレビューも掲載されるそうです(僕はまだ読んでませんが)。
よろしくお願いします。