noteにダークウェブについて書きました

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ところで、これは記事の内容とは直接関係はないのだが、グーグルでダークウェブについて検索してみたら、どこかのニュースサイトの記事に行き当たり、そこではダークウェブについての、「危険!」だとか「絶対に近づいてはいけない!」といった仰々しい警鐘コピーが連なっていて、思わず苦笑してしまうのだった。
執筆者はどこかのサイバーセキュリティ会社の社長で、自身でダークウェブについての著書も書いてるようだった。私はその著書を読んでいないが、その記事では、ダークウェブがいかに危険な空間であるかを声高に煽り立てており、例えばダークウェブでは「ハッキングツール」や「銃器」が普通に売買されており、アクセスしただけでマルウェアに攻撃されることもあるので、決してアクセスしてはならないそうだ。私はその方面には不案内だが、しかしTorを使用していてマルウェアに攻撃されたことは一度もない。
しかし、その記事の筆者がサイバーセキュリティ会社の社長で、記事の終わりに、「こうした犯罪から身を守るには、企業であれば万全なサイバーセキュリティー対策への投資を惜しまない経営判断が求められます」といった文章がしれっと挿入されてたりするので、要はよくある「売らんかな」精神の発露の下この記事が書かれたと考えれば自然ではある。
つまり、彼らにとっては、ダークウェブはなるべくブラックボックスにしておくことが望ましい。そこが危険な空間であるという印象を吹き込んだ上で、近づいてはならないと警鐘を鳴らし、返す刀で自社のセキュリティソフトをちらつかせる。商法としてはスタンダードだ。
彼らが言いたいことはただ一つ。「我々はダークウェブから攻撃を受けている、よって防衛しなければならない」。
こう書くと、なんだか昨今の日本海界隈の情勢を思わせるようで若干笑えないのだが、このような言説による大衆操作は実際至る所で行われている。
彼らの戦略の要諦は、指し示しながら隠す、あるいは隠しながら指し示す、という二重の身振りにある。指し示した対象を「謎」や「禁忌」として覆い隠すことによって、ある「恐怖」という感情のもとに一定の集団を組織し、方向付け、動員する。
したがって、上にリンクした二つの記事はそうした体制に抵抗するために書かれた。抵抗とは「暴露」であり、覆いを取り除くことである。
もちろん、私がダークウェブについて知っている範囲はごく限られたものでしかないし、また叙述がジャーナリスティックなものに流れすぎた嫌いはあるが、とはいえそこに書かれていることは端的な事実でしかなく、つまりそこにはありふれた退屈さしかない。言い換えれば、内容はいかにジャーナリスティックであれ純粋に批評的なアプローチで書かれている。

noteに東山翔論をアップしました。

noteに『東山翔論――絶対的自由へ向けて』をアップしました。
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最終章以外は無料で読めますが、当方万年金欠ですのでsubscribe感覚で購読して頂けると助かります。
とはいえ、はやくも全文を書き直したい(特に4章以降)という誘惑に駆られていますが、それでもあえてこのテクストでの議論を乱暴に図式化してみるなら大体以下のようになるでしょう。
まず、マンガなどの二次元表現の領域には大雑把に、実在/非実在という二項対立があります。主に「表現の自由」を守ろうとする運動は、多かれ少なかれマンガ表現を「非実在」の側に置くことによって、あらゆる反道徳的、暴力的な表現を「想像力」に還元し免罪することでかろうじて「自由」を担保する試みだと言ってよいでしょう。また他方で「想像力」は、震災やアウシュヴィッツなどの、現実におけるなんらかのトラウマ的な事象に対しても、「想像せよ」という形で、現実に対する何らかの批評的な眼差しを向けることを可能にするとされてきました。
ところが、ロリ漫画、特に東山翔の作品は、ある意味で「現実=実在」が常に「想像力=非実在」に先行してしまうという意味で、根源的な転倒を孕んでいます。そこでは、実在/非実在を分かつ「/」という境界=前線が、「非実在」を飲み込み、外へ外へと溢れ出ていくかのようです。それは端的に言えば、前線が「内部」をすべて含み込んでしまったという意味で「外部」が何もない世界です。東山翔の作品では、すべてが虚構=非実在であると同時に、現実=実在でもあり得る。「実在」と「非実在」が等価であり並列している。
しかし、それでは、そのような「外部」のない世界において、それでも「外」があるとすれば、また「倫理」があるとすれば、それはどのようなものなのか。またそこにおける「自由」とはどのようなものでありえ、かつ作家が線を引く営為はどのような意味を持ちうるのか。
このテクストでは、それらについての答えをはっきりと提示することはできませんでした。白状すると「わからない」と言ってもいい。
このテクストにおける議論の混乱と迷いは、端的に言ってこの「わからなさ」に起因しています。
ただ、このテクストが何らかの端緒となり、有益な議論か何かに発展してくことでもあれば、とりあえずこのテクストの役目は果たされたと言うべきでしょう。

想像力は死なず、え、死んだって、そう、では死せる想像力よ、想像せよ。
(『死せる想像力よ想像せよ』サミュエル・ベケット

汚辱に塗れた獣たちの…… ――『ズートピア』試論

こうしたあいまいで、冗長かつ不完全な記述は、フランツ・クーン博士が『支那の慈悲深き知識の宝典』に見られると指摘している記述を思い起こさせる。はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で防腐処理したもの、(c) 訓練されたもの、(d) 乳離れしていない仔豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) はぐれ犬、(h) 上記の分類に含まれているもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 数えきれないもの、(k) ラクダの毛で作ったきわめて細い筆で描かれたもの、(l) など(エトセトラ)、(m) つぼを壊したばかりのもの、(n) 遠くからだとハエのように見えるもの。

――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ジョン・ウィルキンズの分析言語』

 

それでは、さようなら。わが友である読者諸君、家に帰って、檻に入り、しっかり扉を閉めて、おやすみなさい。よい夢を見て、ではまた明日!

――J・J・グランヴィル『動物たちの私生活・公生活情景』

 

It's called a hustle, sweetheart.

――zootopia

 

 セクシュアリティ、というファクターが、それが例えば先天的な肌の色や人種といった諸ファクターと異なり外的な姿形との乖離をしばしば伴い、また往々にして後天的かつあるいはミシェル・フーコーが『性の歴史 一巻』で指摘したような意味において想像的ですらある、といったような不可視性や揺らぎを内包しているというかくも単純な事実を、アナ雪LGBT論争は端的に示している。

 『アナと雪の女王』の劇中歌「レット・イット・ゴー」が、海外のアナ雪ファンの間でしばしばレズビアニズムやアセクシャリズムを肯定する歌として解釈されるという現象自体が、そもそもが解釈に揺らぎを伴うセクシュアリティという概念の不安定性に依るものでもあろうが、本稿ではアナ雪LGBT論争にはこれ以上立ち入らない。代わりにここで採り上げたいのは『ズートピア』である。

 とはいえ、その前に前提知識をあらかじめ共有しておくべきだろう。まず、これまでディズニーアニメ(ピクサーをそこに含めてもよい)はセクシュアリティに対する意識や配慮に極めて消極的であったという事実の確認。これは例えば、ディズニーにおける人種に対するポリティカル・コレクトネスへの配慮を考えてみると、近年の『プリンセスと魔法のキス』や『ベイマックス』を参照すれば明らかなように、明確にセクシュアリティよりも進歩的に描かれている。翻ってセクシュアリティの扱いに視線を移してみると、例えば『プリンセスと魔法のキス』や『塔の上のラプンツェル』が、性役割に対してやや脱構築的な試みも見られるも結局は王子様とお姫様が最後に結ばれるといった保守的なヘテロセクシャリズムに体よく収まっていることは否めない。この構図は『アナと雪の女王』にも実は当てはまっているのだが、エルサという特異なキャラクターの存在が、セクシャル・マイノリティという概念を図らずも作品内に異物のように混入してしまう。しかし、このことは前述したように解釈多様性や揺らぎといったセクシュアリティの本質性に由来するものでもある。

 前置きが長くなったが、要はディズニーアニメはかつて(特に近年)多様な人種を描いてきたが、それに反して性は二種類(すなわち男/女)しか描いておらず、そしてそれは『ズートピア』でも反復されているように見える、ということである。

 『ズートピア』は人間社会の差別構造を描いた寓話であるとされる。ところが、本作では(共同監督の一人であるバイロン・ハワードがゲイである、という事実にも関わらずというべきか)性差別的な寓意は表立っては現れてこない。それどころか、性関係そのものがほとんど描かれていない。ジュディとホップは、解釈の余地は残されているものの、ラストまで「友情」の関係を維持したまま終わる。もちろん本作がディズニー王道のプリンセスものに反するジョン・ラセター以降のピクサー系統に位置付けられる作品であることを考えれば違和感はさほどないどころかむしろ自然ですらある。しかし、ラストの二人が交わす会話は解釈を誘発させるだけに、かえって両義的な曖昧さを際立たせている。この性関係の慎重な排除とそれに反する解釈誘発性については改めて後述する。

 本作が扱っている差別の寓意が概して人種問題に限定されている、ということは一見して明白なようにも思える。キツネのニックは明らかに黒人の象形である。ニックが発し、やがて作品全体の通奏低音のようにニックとジュディとの間で反復される”It's called a hustle, sweetheart.”という台詞における”hustle”という語は、元々は「精力的活動」程度の意味だが、転じてストリートで生き抜くための金儲け(日本語字幕では「詐欺」となっていた)を指すスラングとして主に黒人の間で使用され、HIPHOPのリリック等にも頻出する。

 ニックは過去にジュニアレンジャースカウトにおける誓いの儀式の際に他の動物から口輪をはめられるというトラウマを持ち、以来「キツネ=嘘つきでずる賢い」という種族的偏見に自らアイデンティファイすることでストリートでhustling=生き抜いている。ここでさしあたり問題になっているのは、言うまでもなく種族間の差別である。ところが、物語後半、具体的にはジュディの記者会見以降になると、「キツネは肉食動物なので草食動物を襲う」というまったく別のタイプの偏見にニックはアイデンティファイしはじめる。ここには「種族」というカテゴリーではなく、「肉食/草食」という新たなカテゴリー分類が出現している。この、カテゴリー=ロジカルタイプの移動を端的に象徴するあるキーアイテムが存在する。それはもちろん「口輪」である。ジュディとロープウェイに乗るシークエンスで、ニックは幼少期を回想し、前述のように草食動物たちの仲間(ジュニアレンジャースカウト)に入るさい宣誓を誓う段になって口輪を嵌められたというトラウマが明らかになるのだが、「肉食/草食」という対立が明らかになっていないこの段階では、口輪はもっぱら「嘘つきのキツネ」の口を塞ぐという文脈で用いられている(例えばニックに口輪を嵌める動物のうちの一人の台詞は”You thought we could ever trust a fox without a muzzle? You're even dumber than you look!”で、ここでの主題はもっぱらキツネを巡る「trust=信用」に関わっている)。つまりこの段階ではニックはあくまでキツネという種にアイデンティファイしており、口輪もその文脈で出てくる。ところが、肉食動物凶暴化事件後のジュディの記者会見の場面において、ニックはもう一度フラッシュバックによって「口輪」の光景を再度思い出す。しかし、ここでの口輪はもはや「嘘つきのキツネを口を塞ぐ」という文脈における口輪ではなく、むしろそのままの意味、すなわち「肉食動物が他者に襲いかからないように口を塞ぐ」という文脈における口輪に変化している。

 

Nick Wilde: The kind that needs to be muzzled? (……)So l-let me ask you a question; Are you afraid of me? You think I might-I might go savage? You think that I might try to...EAT YOU?

 

 上に引用した台詞は記者会見後のジュディとニックのやり取りの一部だが、やはりmuzzle=口輪が「信用」ではなく「食べる」という主題の周りを巡って用いられていることがわかる。つまり、口輪というアイテムによって意味されているものが二つのシーンの間で巧妙に変化している。そして、恐らく大半の視聴者はこのミスリードに気づかない。もちろん、これは構造的なトリックとしか言いようのないもので、恐らくここに本作品最大の詐術=hustleが存在している。

 この構造的なギャップ、ロジカルタイプの作為的な移動は何を意味しているのか。ニックはあたかも「キツネ」という自らの出自であるところの種を放棄し、代わりに突如出現したまったく新しいカテゴリーである「肉食動物」という上位カテゴリーにアイデンティファイし始める。すなわち、もはや種族間差別、つまり人種差別の寓意ではなく、まったく別の事柄、問題、寓意が語られようとしているのではないか。

 事実、「肉食/草食」という新たな二項対立が打ち立てられて以降、あたかも作品全体がこの「肉食/草食」という巨大な二項に回収されていくかのようである。そこではもはや、ズートピアに住む多種多様な種族、また『シュガーラッシュ』直系ともいえるズートピアの世界観を特徴づける多元的なエリア等の設定それ自体が超越的な二項のもとで失調もしくは機能不全を起こしているような印象すら受ける。端的にいえば、なぜ多様な種族という魅力的な設定を機能不全に追いやってまで「肉食/草食」という超越的な二項対立が導入されなければならなかったのか。それがここでの新たな問いとなる。

 まず最初に検討すべきは、この「肉食/草食」というカテゴリーも、また何らかの隠喩ではないか、という点である。咄嗟に思いつくのが、この「肉食/草食」というカテゴリーはジェンダー、すなわち「男/女」にそれぞれ対応する隠喩なのではないか、という仮説。確かに肉食動物が草食動物を襲うという構図は、男性が女性をレイプするというステロタイプジェンダー構図を想起させるものであるし、特に我々日本人にとっては肉食系/草食系というカテゴライズは既に一般通念として浸透している。

 とはいえ、このような視座に立ったときに発生する新たな問題は、仮に『ズートピア』が裏テーマとしてジェンダーを巡る対立と偏見を寓意的に描いてるとしても、そこにはやはり「男/女」という、(たった)二つのジェンダーしか現れてこないという意味で、セクシュアル・マイノリティが描かれていない旧態依然の保守的なディズニーアニメを抜け出ていないという評価にしか行き着かないという点にある(例えこの暴力的な二分法が、作中における保守的な副市長が捏造したフィクションであるとしても、である)。

 加えて、「肉食/草食」という上位カテゴリーをジェンダーのそれの隠喩と解釈した場合、包摂関係にある種という下位カテゴリーと不可避的にコンフリクトを起こす。どういうことか。

 すべての種はいずれも肉食か草食に分類できる、という意味で「肉食/草食」は種の上位カテゴリーとさしあたり定義できる。しかし、「肉食/草食」をジェンダーと解釈した場合そのような階型は崩れてしまう。例えば、「ウサギは草食に包摂される」という命題は成立可能である。ところが、「黒人は女に包摂される」というテーゼは成立不可能である。なぜなら黒人には男も含まれているからである(すべての黒人が女であるとは限らない)。すなわち、「キツネは肉食である」という主語(特殊)―述語(一般)関係、言い換えればキツネ(特殊)が肉食(一般)に包摂されるという論理構造は、黒人と女の間にあっては成り立たない。というのも、ジェンダーは種の上位カテゴリーではなく、それぞれ別のロジカルタイプであるからだ。

 それでは、種の上位カテゴリーである「肉食/草食」という二分法が「男/女」の隠喩であるという見立てはやはり誤りだったのであろうか。その可能性ももちろんある。しかし、序盤、ズートピア警察署の受付担当クロウハウザーがジュディに投げかけた”cute”という単語を巡ってやり取りされた会話を思い出してほしい。”cute”と言われたジュディはクロウハウザーに向かって、「それはウサギという種全体を侮辱する言葉だ」というような含みを持った返しをする。

 

Clawhauser: O. M. Goodness, they really did hire a bunny. Ho-whop! I gotta tell you, you're even cuter than I thought you'd be.

Judy Hopps: Ooh, ah, you probably didn't know, but a bunny can call another bunny 'cute', but when other animals do it, that's a little...

 

 確かにこの作品にはウサギに向かって”cute”やらバニーガールを想起させる”little bunny”等の侮蔑語(?)が多数発せられるが、これらが人間社会において侮蔑語として機能する文脈は、大抵、男が女に向かって投げかけた場合に限る。つまり、ここには純粋にフェミニズム的な文脈が横たわっていると解釈することができるだろう。ところで、それらの言葉に対してジュディはウサギという「種」を代表して「ウサギという種に対する侮辱だ」と返す。ということは、つまり、この世界においてはウサギという種それ自体がある意味で「女=メス」というジェンダーを表象しているということにはならないか。この場合、先ほど検討した論理構造はまったく様相を変えてくる。すなわち、「ある種(特殊)は女(一般)である」という、一見錯乱したようなテーゼが可能となる……?

 ここでは一体何が起きているのだろうか。寓意はもはや現実に対応する論理構造を持たず空回りを始めている。言うなれば、『ズートピア』がもはや寓話ではない、寓話の域を逸脱したひとつの自律したフィクション世界として立ち上がってくるかのようでもある。

 もしかしたら、ここにこそ本作品におけるもっとも暴力的な詐術=hustleが働いているのかもしれない。なぜなら、もちろんズートピアにおけるウサギにはオス=男も端的な現実として存在しているからである。そこで生活する男=オスは「女=メス」という表象の下に抑圧されており、もちろん同様に「男=オス」という表象の下に抑圧されている女=メスも同時に存在しており……。斯くして、ズートピア世界の中に、それも「男/女」という二分法の只中に突如してセクシュアル・マイノリティの如きものたちが立ち現れる。それは、さながら抑圧の下に生きられた汚辱に塗れた獣たちの生=性のようでもあり……。

 フーコーセクシャリティを権力的言説の布置によって決定される事後的なものであると指摘したが、『ズートピア』はまさしくそのような事態を的確に描き出している、といえる。「肉食/草食」という二項はDNAというある種もっとも超越論的なファクターによって決定づけられているがゆえ、一見セクシュアリティとは反するようだが、逆説的にもDNAはもっとも内奥ないし不可視的=微視的であるがゆえに、副市長による策謀とジュディの記者会見という言説的布置が「肉食/草食」という二分法を可視化させるために要請されたのであった。前述の”cute”を巡るジュディの発言からもわかるとおり、「草食=女/肉食=男」といった二分法は既に無意識のうちにズートピアの住人に根付いていたのであるが、それが意識上に可視化されるためには記者会見という公の場において再度発言される必要があったのも、権力的言説の布置がいかにセクシュアリティの領域において作動しているかの例証となる。

 「女」という表象のもとに抑圧された男、それは例えばトガリネズミのミスター・ビッグであり、ナマケモノのフラッシュであり、またボゴ署長であり……。彼らは皆ファルスを去勢されているという点で共通している。ボゴ署長とミスター・ビッグにおける権力と力への意志は一種の去勢への反抗であろうし、フラッシュにおける車(ファルス!)とスピードへの意志も同様である。

 もっとも、このような解釈も、「肉食/草食」をジェンダーと解した恣意的な見立てを前提としているという意味で、解釈の悪循環に陥っているという批判もあるであろう。だが、我々が議論の出発点において確認したように、セクシュアリティとはそれ自体解釈を招来するものであって、いわば「隠喩としての病」なのである。その意味で、『ズートピア』は『アナと雪の女王』に見られたセクシュアリティの解釈多様性をさながら作品構造それ自体に転化させているかのようでもある。「種」と「肉食/草食」という二つのロジカルタイプのギャップに開けた深淵、その闇こそがセクシュアリティの隠喩に他ならない。

 物語ラスト、「肉食/草食」という言説体制が崩壊した後、ということは同時にセクシュアリティという隠喩が崩壊した後、まさしく「性関係は存在しない」空白の中間地帯が開ける。そこにあって、彼らはまた新たにセクシュアリティを、さらに言い換えれば愛を打ち立てる必要があった。それは常にやはり、他者の言葉=言説によって招来される必要性があった。つまり……

 

Nick Wilde: You know you love me.

Judy Hopps: Do I know that? Yes, yes I do!



※なお、本稿中における台詞の引用は主にhttp://www.imdb.com/title/tt2948356/quotesを参照

『Merca β03』に寄稿しました

Merca(アニメルカ)公式ブログ 『Merca β03』(アニメルカ×マンガルカ×ジャズメルカ――) 目次

『Merca β03』に木澤佐登志名義で論考「月の徴しの下に――アニメーションにおける器官なき身体」を寄稿しました。
石岡良治さんと泉信行さんと高瀬司さんによるレビューも掲載されるそうです(僕はまだ読んでませんが)。
よろしくお願いします。

日記7 (2015.11.28)

2015年11月28日

 コミックLO2016年1月号所収の町田ひらく『紙の襞』のストーリーをここでわざわざ要約するつもりはないし、『紙の襞』というタイトルの元ネタは果たして『紙の月』だろうかそれともサルバドール・プラセンシアの『紙の民』だろうか、といった野暮な推測もここでは措く。
 作家が自身の娘をモデルにしたエロリ漫画を描いていたところ、娘が父親を誘惑し出して父親の欲望が現実化してしまう、という、この作品の最初と最後だけ取り出してみれば、これは他のLO作品にもよく見られるありふれた図式になるだろうが、『紙の襞』にあっては父親と娘を媒介する「読者」という第三項が導入されていることで、それまで見られなかったかつてない広がりのあるパースペクティブを保持しているように思われる。
 編集者が付けた「不条理は父から娘に。そして娘から父へ。」というコピーに正しく表されているように、この作品の主要テーマは<業>と<欲望>、そして<不条理>の流れとやり取りだが、作品中の父であるエロリ漫画家が明らかに町田ひらく本人を思わせる名前と作風であったり、先ほど述べた「読者」という媒介項が介在することによって話はさほど単純ではないことになっている。試しに本作における<業>=<欲望>の流れを図式化してみると大体以下のようになるだろう。

父親=町田ひらく ⇒ 作品(フィクション内の娘) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく

 しかし上の形式自体が『紙の襞』という町田ひらくによる作品=フィクションそのものだとすると、上の図式すべてを「作品」という巨大な括弧でくくる必要性があるかもしれない。つまり、上の図式内の「作品」の項に上の図式すべてを再帰的に代入しなければならない。

父親=町田ひらく ⇒ 『紙の襞』(父親=町田ひらく ⇒ 『紙の襞』(……) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく

 かくして、『紙の襞』は終わりなき自己言及的な再帰運動に繰り込まれていく。まあ、もちろん作中で町田ひらくを思わせる作家が描いてる漫画が『紙の襞』であるとは特に明示されていないし上図のようなボルヘス的なフィードバック・ループは自分が勝手に妄想したことに過ぎない……。しかしそのような誤読を無視しても、この作品が、読者に向けて、つまりは外の世界に向けて開かれた極めて批評的な(ということは町田ひらく的な問題意識に貫かれた)メタフィクション・エロリ漫画であることに違いはない。本当に、同じ号に載っているクジラックスの作品がただの露悪的で少しスキャンダラスなだけの(というかエロリ漫画でニコ生を題材にすること自体散々やり尽くされている)くだらない児戯に見えてしまう程の傑作なのだ。ということをとにかく言いたいし、それ以外にこの日記で取り立てて書くことなど特にない。こんなくだらない文章を読むくらいなら今すぐ書店に走ってコミックLOを手に取り『紙の襞』を読むべきだ*1

*1:もちろん2016年11月時点での話なのでもはや店頭には並んでいない

日記6 (2015.11.26)

2015年11月26日

 またブックオフで本やCDを適当に売って作った金で立川シネマシティの『ガールズ&パンツァー 劇場版』極上爆音上映に行く。
 ガルパン劇場版極爆上映、とにかく素晴らしいの一言に尽きる。思えばアニメ作品での立川シネマシティ極爆上映は初めて観たが、劇場の音響面ではマッドマックス極爆上映以上に台詞の音量と効果音の音量調整の振り幅が大きい。恐らくこれはアニメ声優の声の音域が通常より高いため実写映画よりも台詞の音量を抑えているのだろうと思われる。作画面では吉田亘良が日常シーンのかなりのパートを担当しているようで、1カットに十数人のキャラクターが同時に出てきてもまったく線が溶けないのはさすがとしか言いようが無い。恐らく、最初に大きい原画シートに作画してその後デジタル処理で縮小しているのだろうが、アイドルマスターなんちゃらとかいう、1カットに4人以上のキャラクターが出てきた時点で線が溶けてしまうようなアニメとは比較すらできない(もちろん、アイマス総作画監督松尾祐輔氏を責めていのではない。『ヤマノススメ』という天才的な仕事を成し遂げた松尾氏がアイマスで充分な仕事ができなかったのはA1ピクチャーというスタジオの体質に責があると見なすべきだろう)。
 だがガルパン劇場版の真の本質性は、ミリオタに媚を売らないやりたい放題に滅茶苦茶やってる戦車コンバットでも良質な作画でも音響でも実はない。ガルパンとはまず何よりも優れた閉所/密室フェティシズム・アニメであり、このことを措いてガルパンを語ることは何も語っていないことに等しい。戦車の狭い操縦室に少女が3人も4人も"みっしり"詰め込まれて各々が一生懸命に何かやっている=作業している、というあまりにも官能的かつフェティッシュすぎるシチュエーション(この意味において戦車は「兵器」ではなく「工場」として立ち現れる)を発明した、このことだけでもガルパンはアニメ史における一大革命であり事件なのだ。見てみるがいい、ガルパンにおける戦車の室内シーンのレイアウトの見事さを。狭い空間というのはそれだけでもアニメーターのレイアウト力が如実に試されるものだが、ガルパンは戦車の内部という閉所空間を様々なカメラの角度から自在に構築し、さらにそこに3人以上ものキャラクターを無駄なく効果的に配置するという完璧すぎるレイアウトをいとも簡単にこなしているのである。これだけでもガルパンの閉所フェティシズムに対する”こだわり”が伺えるというものだが、しかしガルパンの閉所フェティシズム描写は何も戦車の内部だけで完結しているわけではない。映画中盤、主人公たちが疎開(?)した山林の学校での日常シーン、風紀委員の少女3人が放送室の畳一畳分くらいしか無さそうな狭い空間内に布団を敷いて”みっしり”とお互いが抱き合うように寝ているカットを見たとき、「うわ、ヤッバ~……」と思わず声に出して言ってしまった(どうでもいいけどこのカットを見たときポン・ジュノ監督の『ほえる犬は噛まない』のワンシーンを思い出した)。それまであくまで戦車内部という建前が存在していた閉所フェティシズム性が、ここではあまりにもあからさまに、かつ分かりやすい形で暴力的に爆発している。正直、このカットのレイアウトはここ数年見たアニメの中でも群を抜いてるのではないかと思われるくらい素晴らしくかつ強烈でありまた官能的であった。
 ガルパンにおける「閉所」への志向、それは例えばキャラクターの人数が異常に多いのも1つの画面になるべく多くのキャラクターを詰め込もうという倒錯した意志によるものだろうし、戦車の内部が閉鎖的な箱庭なら画面という四角く縁取られたフレームも同様に閉所フェティシスト達にとっては彼らの欲望を叶える格好の箱庭なのだ。

日記5 (2015.11.11)

2015年11月11日

 三宅唱監督の『THE COCKPIT』はそもそも「クリエイションとは何か」というテーマのドキュメンタリーでもあるので必然的にメタフィクショナルな構造を持っているのだが、とはいえ単純なメタフィクションともいえない「複雑さ」があると思う。例えば『THE COCKPIT』中に現れる箱というイメージが持つミクロコスモス的な性格一つを取ってもこの作品が生半可なドキュメンタリーではないということがわかる。以下では『THE COCKPIT』におけるメタフィクショナル構造を分析するために、主に作品中に出てくるナイキの箱とアパートの一室という箱、さらに『THE COCKPIT』自体という作品=箱、という三つの箱を俎上に載せて構造分析する。
 まずこのドキュメンタリーはOMSBらがアパートの一室に入ってくるシーンから始まり、フィックスされたカメラの前でOMSBが即興的にひたすらトラックを制作する。二日目にOMSBとbimが部屋に転がってたナイキの空箱を使ってルールから何まで即興的にその場で作り上げてゲームをする。その後そのゲームを元にしたリリックを書いて、レコーディング作業して楽曲が完成して終わる。ただこれだけの内容であるが、詳しく見ると意外なほどに厳密な照応関係がこのドキュメンタリーの基底部を律していることがわかる。
 まず、ナイキの箱の上で作られ繰り広げられるブリコラージュ的な遊戯の過程を説明したものが彼らのリリックの内容であり、というよりナイキの箱での遊戯それ自体が彼らにおけるアパートの一室の中での楽曲制作の過程や性質をトレースしているという意味でこれら二つの間には明らかな照応関係がある。さらに、彼らの楽曲制作の過程が、この『THE COCKPIT』というドキュメンタリー自体の制作過程やスタンスをトレースしている側面を持っているということは、パンフレットに書かれた松井宏による「製作ノート」を読めば明らかだ。

 編集作業はトータルで8~9ヶ月ほど。もちろんそのあいだ三宅はさまざま別の仕事もしているから、実質的な作業時間はもっと短い。時間が空けば彼の家にしょっちゅう自転車で行き、一緒にモニターを見続けた。ときに三宅が作業するかたわらで、ぼくは別の仕事をしたり、漫画を読んだり、ちょっかいを出してみたり、あるいはそこに鈴木や別の人間がいたり…。『THE COCKPIT』と同じだ。

 すなわち、ここにもある照応関係がある。ナイキの箱のゲームは彼らの楽曲制作を照らし、彼らの楽曲制作はこの映画、すなわち『THE COCKPIT』の制作過程を照らす、という三重の照応関係である。逆から見れば、『THE COCKPIT』という箱の中に彼らのアパートの一室=「コクピット」という箱があり、さらにそのアパートの一室という箱の中にナイキの箱がある、という風なマトリョーシカ的な入れ子構造をイメージすることもできる。
 それではこの『THE COCKPIT』という箱も何かに包摂されるのか、だとすれば何に包摂されるのか。恐らく何にも包摂されない。その代わり、スクリーンという鏡面を軸にして観客である我々が存在する「劇場」というもう一つの箱を鏡像的に照らし出す。アパートの一室=箱を見渡せて、目の前にOMSBが向かい合わせになるような位置にフィックスされたカメラは、鏡合わせのようにして向こう側の箱を見せると同時に、こちら側の箱にいる我々の存在をも意識させる。つまり、『THE COCKPIT』はその中にアパートの一室やナイキの箱などをマトリョーシカのように包含するが、この『THE COCKPIT』というミクロコスモス的な箱自体はスクリーンを軸にして「劇場」という箱と並列的に存在している。