オタクの帰郷~吾妻ひでおと色川武大~

 吾妻ひでおの漫画を読んでいるとわたしはどうしてもそこに色川武大の文章をクロスオーバーさせたくなる。例えば「帰り道」や「地を這う魚」(と続編の「夜の魚」)のようなシュールレアリスム文学的な傾向が強いとされる作品に、

麒麟が部屋の隅に入ってきた。一頭だけではなかった。麒麟たちは高い樹の葉をむしりとったり、地上の草をなめるように食べたりして平和に遊んでいた。そうして、徐々に私の万年床の方に移動してきた。私はそれを眺めていながら何の対策も講じず、また講じられもしなかった。麒麟たちは余念なさそうに、しかしそれが定められたコースのように、一歩一歩移動して来て、ついに最初の一頭の蹄が私の身体を踏んだ。覚悟していたほど重くも痛くもなかった。ただ長い首が、はるか高みで大きく揺れているのが見えた。首は木の葉を探すように旋回し、それから垂直に私の顔の上に降りてきて大きな舌であちこちをなめ、その大きな舌をまるめて私の眼や鼻を吸い込もうとした。麒麟たちは、一頭ずつ私の身体を踏みつけ、ときおりあちこちをなめながら、ゆっくりと移動していった。
(「生家へ」色川武大

 周知のように色川武大ナルコレプシー性の幻視幻覚に日常的に苦しめられていた。吾妻ひでおもアルコール中毒による幻覚に一時期苛まれていた。しかしそれ以上に幻覚に対する姿勢が二人の共通性を際立たせている。それはある種の諦念にも似た、幻覚に対する受動的な姿勢である。

それは幻というやつであって、今、自分が、どこに寝ていてどういう状態か、むろんよく承知をしている。けれども、頭がはっきりしているから、幻の方が色あせて消えていくということにはならない。多分、三分か五分ほどの間であろう。その間、古い映画のフィルムのようにチカチカとそれはまばたきし、しかし頼りげではなく、むしろ圧迫さえするように視界をおおっている。
(同上)

 色川武大の幻覚が通常の精神病における幻覚と最も異なっているのは本人がそれを幻覚だと意識していることである。しかしそれは現実をヒエラルキーの上位に持ってくるということを意味しない。色川武大において、また、吾妻ひでおにおいても、現実と幻覚はヒエラルキー的に並列していた。それはまさしくスクリーンに映し出される映画のように、こちらは観客として、ひたすらじっと見ることしかできない。それだから彼は幻覚に対して(または現実に対しても)積極的に介入したりアプローチするようなことはしない、ただひたすらに見る。しかし、それが見る者に一種の不能感や宿命にも似た諦念を呼び覚ますのもまた同時である。色川武大吾妻ひでおも、幻覚を、また現実を、ひたすらに「見る」人であった。
 吾妻ひでおはオタク的な文化を生み出した貢献者の一人とされる(ここでいう「オタク」とはひとまず二次元に深く没入するアニメオタク的なものを想定してもらいたい)。しかし私は彼の作品にオタク的な要素を見出すとしたら、それは現実を徹底的にひとつのスクリーンとして切り出す、という色川武大とも通底する独特の現実に対する操作方法にあると思う(この点で江戸川乱歩の「押絵と旅する男」も重要な作品として挙げたい。私は現代オタクの元祖は吾妻ひでお色川武大江戸川乱歩の三人ではないかと思う)。
 例えば映画館におけるスクリーンがオタク的なるものと深い共振性を持っていることは論を待たないであろう。この点に関して福田和也は映画館のスクリーンの起源をワーグナーのパトロイト劇場に求めている。

それまでの劇場のシステムは、いまでもスカラ座がそうであるように、ホールのほうが、中の舞台より広い。大きいファサードがあって、基本的には社交場に劇場がついてるという構造なんです。(……)ところが、ワーグナーのパトロイト劇場では、とにかく全部の客席が舞台に向いていて、一度中に入ると逃げられない。劇場だけが厳然とあり、社交空間がないわけです。(……)それで、観客も舞台の中に対面させられる。(……)或る意味で云えば、パトロイト劇場というのは、そういう一種の虚構空間を生産する工場なんですよね、機械的システムで。このシステムはそのまま映画館に受け継がれている。
(「「作家の値打ち」の使い方」福田和也

 この虚構空間の生産というのを徹底化させたのがディズニーであることは言うまでもない(ちなみに社交空間の欠如とそれが招来した映画館的空間の誕生、という以上の論旨を、黒人文化と絡ませるなどもう少し気の利いたアレンジを付け加えながら論じたのが菊地成孔大谷能生による「アフロ・ディズニー」であるが煩瑣になるのでここでの紹介は控える)。しかし、現実のスクリーン化とそれによる眼差しの優位性、現実に対する受動性の顕在化、そしてそれらが虚構空間の生産をもたらすということを確認しただけでは充分ではない。これらはその裏面としての「放浪」というもう一つのテーマを不可避的に生み出さざるを得ないからだ。
 吾妻ひでお色川武大に共通するもう一つのテーマは「放浪」である。私がここで「放浪」という言葉で指しているのは色川武大における十代の頃の放浪・徘徊癖と、吾妻ひでおにおける39歳~43歳の間の失踪・ホームレス体験であるが、例えば「銀河放浪」に見られるように作品レベルでも「放浪」というテーマは色濃く打ち出されているのは明らかである(そもそも吾妻ひでおにおいては「SF」という彼が終生こだわってきたテーマそのものが「放浪」的なるものと深く共振している)。

 私は、他の皆が共有している世界の重さに対抗するだけの、自分だけの世界を持つことを欲していた。学校に代表され、さらにそこから枝葉がついて繁っていく、規律に溢れた社会生活に拮抗するような個人の持ち物などあるように思えなかったが、それでもなんとかそれらしきものを手にしたかった。
 多分、浅草も、私にとってそのひとつだったと思う。私は、さぼって東京の街なかをふらついているうちに浅草を発見し、ここに、私の級友たちが所持していない何かを、本能的に感じとったのだ思う。
(「百」色川武大

 ここに現れているのはベンヤミンにおけるフラヌール(遊歩者)的なテーマであろうか、それともドゥルーズにおけるノマディズム的なテーマであろうか。おそらくはいずれでもあり、またいずれでもない。例えば現代におけるオタクは「放浪」というテーマをインターネットという形で生き直している、ということも言えるかもしれない。しかし私はそのような、少し気の利いた中学生でも言えるような月並みなことを言いたいのではなく、ここで代わりに提示したいのは「放浪」というテーマに隠された、一種の裏返しとしての「帰郷」である。

 ふと眼をあけると、生家の中に自分が居る。眼の中に生家の幻が焼きついていて他のすべてを遮断し古い映画のフィルムのようにチカチカとまたたきながら、それは私の視界を覆っている。眼を開けていてもつぶってみても同じことで、自然に消えていくまで、静かな発作に身を任せるようにして、つくねんとそれを眺めているより仕方がない。
 もっとも、だからどうということはまったくないので、今も肉親たちが住んでいるあの場所に帰り住むつもりもないし、生家の幻のために私が律せられた覚えもない。
(「生家」色川武大

 もちろんここで言われている生家とは、いまも肉親が住んでいる現実の「あの場所」とは若干異なる、云ってみればもっと根源的な「何か」であったことは言うまでもない。生家は常にすでに喪失されたものとして、だからこそ眼の前に幻覚として常に回帰してくる。

けれども、生家の幻には、人の姿を見たことがない。肉親に密着するときの情念のようなものがまったく無いとさえいえる。
(同上)

 人は帰る場所をもたないからこそ、放浪を不断の「帰郷」のプロセスとして生きなおさざるをえない。色川武大にとっての放浪とは、まさしくその意味で「帰郷」であった。もちろんこれらは色川武大吾妻ひでおに限ったことではない。
 しかし、今の私たちはたとえばアニメを見ながら、故郷の喪失とそれでもなお「帰郷」しなければならないという絶望に苦しむことはない。しかしそれでもアニメを見ながら、ときたまふっと感じるある種の居心地の悪さ、形容しがたい不気味さにわたしは姿勢を少し正す。

しかし、いかに故郷がありえないのものでも、それは単純な絶望の彷徨ではなく、まさしく帰郷であった。その行程はたどりつく先をもたなかったが、いつかたどりつくという希望のかわりに、故郷がないということを耐え忍んでいるのであるから。
(「奇妙な廃墟」福田和也

康生についての覚書

康生は1898年に山東省に生まれた。当時の中国は日清戦争の敗北による挫折感と無力感が支配していた。政治権力を握った西太后は光緒帝による改革運動である戊戌の変法を潰しクーデターを実行。光緒帝を紫禁城に幽閉し、譚嗣同ら6人の官僚を処刑した。さらに翌年の1900年には義和団の乱が起こる。「扶清滅洋」をスローガンに掲げるこの反キリスト教系秘密結社は、外国人や中国人キリスト教信者を殺し回り、ついには北京の公使館を包囲するまでに至る。西洋の列強はこれを見て軍事介入、やがて清朝は1911年に完全に崩壊する。康生が生まれたのはこのような混沌と崩壊の予感に満ちた時代であった。

康生の出生地である大台荘は、慣習や伝統に支配された保守的な農村世界であったが、康生の家は恵まれた地主階級だった。康生の家は儒学系の系統であり、曾祖父は儒学者であった。父親も「科挙」に合格しているエリートである。康生の生家は古い陶磁器や絵画などの文物を多く所蔵していた。このような豊かな学問や芸術に囲まれた幼年期の生活は後になってからも康生に深く影響を与えることになる。

十代の康生は「放蕩」の限りを尽くしていた、と言ってもよい。阿片や女遊びを早くから覚え、地方の無法者や女衒や売春宿びたりのならず者など、裏社会の人脈との交流を深めていった。康生はギャングの友人の指導によって、剣やナイフ、鉄パイプや拳を使った喧嘩の技術を身につけた。儒教精神を重んじる康生の父親は息子の放埒かつアウトローな生活に業を煮やし、康生を青島のドイツ宣教師学校に入学させる。この学校の校長は精神分析家のカール・グスタフ・ユングの親友でもあったリヒャルト・ウィルヘルムであった。彼の代表的な翻訳である「易経」にはユングも序文を寄せているが、康生もまた幼少の頃から「易経」を愛読していた。ウィルヘルムは学校でも「易経」の講義を行なっていたはずなので、ユンギアン的な易経解釈は康生にも影響を与えていたに違いない(余談だがユングが一時期ナチズムと関わっていたことは西洋では周知の事実である)。

学校を卒業した康生は大台荘に戻り、その後諸城で小学校の教鞭をとるなどしていた。そこで康生は李雲鶴、後に江青という名で知られる少女との運命的な出会いを果たす。このとき康生は26歳、李雲鶴はまだ10代前半だったと言われる。この教師と生徒の馴れ初めという(現代の目から見れば)いささか背徳的な関係は、私に大正時代のアナーキストである辻潤伊藤野枝の交際エピソードを思い起こさせる。大逆事件の余韻がまだ冷めやらぬ1912年、下谷区の上野女学校の英語教師であった辻潤は四年生組に編入されてきた伊藤野枝と恋愛関係になる。このとき辻潤は28歳、伊藤野枝は16歳であった。結局この恋愛沙汰が原因となって辻潤は同校を追われるが、伊藤野枝との関係はその後大杉栄に寝取られるまで続くこととなる。

閑話休題。1924年、康生は四半世紀過ごした山東省を捨て、一人上海へ旅立つ。康生はこの地で共産主義に深くコミットしていくことになるが、ここで当時の上海とはどのような場所だったのか、そしてこの地のアンダーグラウンドな瘴気が康生にどのような影響を与えたのか検討することは無駄ではないだろう。

1927年、上海では蒋介石上海クーデターを起こし共産勢力の一掃を図る。この上海クーデターで国民党と共産党は決裂し、1937年に対日統一戦線ができるまで死闘を繰り広げる。この死闘の波紋は外人の居留地にまで及ぶ。当時のフランス租界などは治外法権であるから、蒋介石の正規軍は入れないのであるが、私服の秘密結社員が襲撃に使われ、また、彼らの行動を黙認する了解をフランスから得ていたと言われる。このときに悪名高き青幇、紅幇が出てくる。蒋介石は青幇に密接な関係を持っており、若い時に上海の証券取引のブローカーであったときに、青幇に入っていたといわれる。上海のギャングスターであり青幇のボスである黄金栄、杜月笙と親しく、上海クーデターは彼らを使ったものであった。彼らはフランス租界に巣くっており、杜はフランス領事にコネを持っていた。中華共進会という名の暗殺団が数百人集められ、上海総工会を攻撃した。この一団は青幇員を中心に、私服を着た軍人も混じっていた。ほとんど無防備だった労働者たちはあっという間に壊滅した。この事件をきっかけに、青幇、紅幇の存在がクローズアップされ、巨大な勢力となってゆく。このように当時の上海は秘密結社やギャング、さらには麻薬商人や銃器商人やスパイまでもが跋扈する巨大なアンダーワールド都市であった。一方で中国でもっとも先進的かつ大胆な文化活動や知識活動が行われていたのもここ上海であった。中国共産党の発祥の地がこのような混沌とした場所であったことは注目にあたいする。1921年に毛沢東を含む13人で、共産党の原形はできあがった。

この地の上海大学に入学した康生はやがて共産主義に感化され、革命に没入していくことになる。1925年に共産党に入党すると順調にキャリアを伸ばしていった。上海クーデターでも最前線にいたが運良く生き延びることができた。国民党による弾圧以後、上海から逃げていった共産党も多いが、康生はこの場所にとどまることを選んだ。この混沌とした暗黒の魔都は康生という人物をゆっくりと醸成していった。

康生は上海においても享楽的な生活を送っていた。国民党のスパイに見つかりそうになると娼館に一時間でも一晩でも逃げ込んだ。他にも無数にあるビリヤードや浴場などを、避難所や会合の場所として利用していた。また、独身者は怪しまれるので既婚者を装うため新しい妻を見つけた。面白いのは、中国共産党では、(後年には純血性を重んじるようになるが)1920年代や30年代は、同棲や事実婚を認め、セックスは水を飲むのと同じとする「一杯の水」原理という自由恋愛論を支持していたことだ。

康生は1930年に中央組織部秘書長に昇進すると、翌年には王明派に寝返り中央組織部長に就任するなど、自らの地位を着々と上げていった。さらにこの年、共産党の下で諜報活動に従事していたスパイの大物、顧順章が共産党を裏切り国民党の手に落ちる。これを機に康生は顧の後任の公安部長となる。この特別工作委員会は、配下に「紅隊」と呼ばれる殺し屋集団を雇っている。ひとまず康生はこの紅隊を使って顧順章の一族を皆殺しにした。この時期から康生は絶大な権力を手に入れはじめる。

1933年、コミンテルン代表王朝の副官としてモスクワに入る。この地で康生はスターリン式の拷問・処刑・粛清の手法を学んだといわれる。長征中に共産党の権力を毛沢東が握っていたが、帰国するやいなや首尾よく毛派に寝返ると、水を得た魚のようにモスクワで学んだ手法でもってトロツキストの弾圧をはじめることとなる。1938年には情報部長に就任し、公安関係の責任者になっている。以後の康生の活動はすべて、いわゆる粛清と魔女狩りの推進の一点に集約されるといってよいだろう。詳細は煩瑣になるのですべて割愛するが、康生によって殺された人達は膨大な人数に及ぶだろう(詳細を知りたい人は「龍のかぎ爪 康生」を読みましょう)。しかしこのような人を殺傷することになんの躊躇も抱かないような冷酷な人間が、方や演劇や芸術に対する類まれな審美眼を持っていたことは不思議に思える。

1949年以後、康生は病気と称して青島にて療養していたが、実際は邸宅の奥に引っ込んで、部屋でひとり書画を書いたり収集した美術品を飽くこと無く眺めたりして愉しんでいたという。康生は絵もプロ級であったが、書はさらに壮麗であった。流暢で、活気に溢れ、古代甲骨文字の厳密な模写から、現代のエレガントで流れるような文字まで、彼の筆さばきは多彩な才能を示していた。文革が勃発すると康生は持ち前の権力を濫用して驚くほど大量の古物と芸術品を各地から略奪してきた(数にして稀覯本一万二千八十冊、千百二個の古物を取ったといわれる)。共産主義政権ではペットを飼うことは禁止されていたにも関わらず、気晴らしにペキニーズ・テリアを飼い、鉢植えの植物を育てた。そして、ごくわずかの選ばれた客とともに、書画の巻物を開いたり、精巧な陶磁器や、金属細工や、布張りの書物の入った金襴の箱をあけた。

このような二面性は果たして矛盾であろうか。一見してそのようにも見えるが康生にとっては矛盾でもなんでもないのだ。康生でなくともこのような矛盾を体現している人物は世界史上にも多く見られる。例えばフランスの作家セリーヌは、「虫けらどもをひねりつぶせ」や「死体派」などに見られるように、罵倒と嘲弄と弾劾に塗れた反ユダヤ主義的政治パンフレットを大量に書き散らす一方、バレエへの情熱的な讃歌を詩的に唄い上げることをやめなかった。「踊り子の脚一本に、この世界が、その波動、あらゆるリズム、狂気と願望が刻み込まれているんだ!書き込まれているなんて生やさしいものじゃない!……このうえなく陰影ゆたかな詩!……心ゆさぶる詩だ!そうなんだ!このとてつもない詩は、絶えず動いてはバランスをとる踊り子の脚のように、熱くて壊れやすい。わかるか。この詩はじっと聞き耳を立てている。この世でもっとも偉大な神秘にね。この神秘こそが神なのさ!神そのものなんだ!要するに、そういうこと!いま頭にはこのことしかない!」

さらには同じくフランスのコラボラトゥール作家、リュシアン・ルバテを挙げてもいい。1942年に発表された「残骸」は、ブラジヤックが「われわれのなかで最も残虐」と呼んだルバテの、第二次世界大戦におけるフランスの敗北に対する告発の書であり、反ユダヤ主義を謳歌し、ナチズムを賛美するパンフレットであり、その攻撃の苛烈さはヴィシー政権内部をも震撼させ、当時の噂によるならば、ナチス親衛隊長官ヒムラーが激賞したといわれる書物である。しかしその一方で1952年には、青年の恋愛と信仰の確執をテーマにした古典的な長編恋愛小説「ふたつの旗」を発表している。その繊細な心理描写と悠揚せまらぬ恋愛の記述は、同時代には稀有な古典的完成度をもつ近代小説の正統を受け継いだ傑作として、今日では現代文学の隠れた傑作とみなされている。

 もちろん康生とセリーヌやルバテを安易に比較する試みは単に無意味であるばかりか危険ですらあるだろう。ファシズム共産主義というイデオロギー上の差異はともかく、セリーヌやルバテは康生のような貪欲な権力欲とは生来無縁であった。しかしあえて比較してみることで類似性と同じくらい両者の差異を、ひいては康生の特異性を際立たせることができるのではないか。

 憶断を恐れずに言えば、康生においては権力欲(とそれがもたらす道徳に対する裏切り)と美的なものに対する豊かな審美感はなんら矛盾するものではなかった。それはもちろん権力欲と審美主義が癒着していたという意味ではない(しかしもちろんそのような解釈も有効であるだろう。事実そのようなケースはいたるところでうんざりするくらい見られるし、康生がそのような人物で無かったとする証拠はどこにもない)。そうではなく、康生にとっては道徳と美的倫理は同じものではない、ということだ。彼は大量の人間を殺しながらも、なお美的なるものの観念を信じていた。アドルノは「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である」と言ったが、もし康生ならこう言ったであろう。「アウシュビッツはまさしく詩そのものにもなりうるのだ」、と。

 もちろんこのような思想を「イデオロギー」や「現実的世界喪失の観念的自己回復」等の言葉でくくって切って捨てるのは容易い。例えば笠井潔夢野久作を論じた文章において芥川龍之介の「地獄変」を引きながら、完璧なる美を追い求めついには娘を焼死させるに至る主人公の「ロマン主義的」な思想にイデオロギー批判を加えている。しかし、下部構造に対する単なる上部構造としてイデオロギーを捉えることは、イデオロギーの本質を見誤ることに繋がりかねない。問題は、あるイデオロギーが一人の人間の頭から離れなくなって、その人間の現実を支配する、何かその現実よりも更に現実的なものになることなのであり、私はそのイデオロギーを、仮に「思想」と名付けてみることに、些かの躊躇もしないだろう。(といっても康生は美を追い求めて人間を殺したわけではないので「地獄変」の主人公とは明らかに思想的ギャップがあることも確かである。康生にとって「殺人」と「美」は分離可能で各々自律している。しかしこの分離と分断こそが康生を特異ならしめている)

 参考文献 

「龍のかぎ爪 康生」ジョン・バイロン ロバート・パック

「ドラゴンの系譜 中国の秘密結社」海野弘

「奇妙な廃墟」福田和也

「虫けらどもをひねりつぶせ」セリーヌ

「物語のウロボロス」笠井潔