日記2 (2015.10.1)

2015年10月1日

 雨がっぱ少女群の新刊『熱少女』を読み返すごとに、LO作家の中に雨がっぱ少女群ほど自身の中に葛藤と分裂を抱えながらもその分裂を半端な誤魔化しと共に統合せず分裂を分裂のまま生き抜いている作家が他にいるだろうかという思いが強くなる。雨がっぱ少女群が最初に世に送り出した大傑作『小指でかきまぜて』では葛藤も分裂も存在していなかった。しかし二冊目の単行本『あったかく、して』の時点で、自身の作家性とLO的萌えとの間での葛藤と分裂がすでに顕在化している。そこでは、町田ひらくフォロワー的な劇画タッチの作品といかにもLO的な記号的萌えエロリ漫画タッチの作品が奇妙にも混在している。これは単なる過渡期とかではなく、LO編集部からの抑圧が働いていて、そのことによって作家の中に分裂と葛藤を生み出したと考える方が自然である。それにしても、『真夜中の妹』や『家庭菜園』、『夕蝉のささやき』などの雨がっぱ少女群の面目躍如といえる大傑作を軒並み単行本の後ろに回して『パジャマパーティー』といった明らかに弛緩したLO迎合的な作品を巻頭に持ってくるLO編集部の作家性をまったく解さない(というより作家を食い潰す)愚鈍な感性には驚嘆するしかない。恐らくこのようなLO編集部による抑圧的で愚鈍な神経によって、雨がっぱ少女群は「何を描けばいいのか分からなくなった」と言って(『少女熱』p.79)、7年に渡る休筆期間に入るわけである。この、「描けない」という葛藤は、例えば町田ひらくのような少女に対する捻れた葛藤ではまったくなく、もっと即物的であると同時に抜き差しならない葛藤である。現に町田ひらくは初期から作風を変えることもなく、また(今のところ)変える必要にも迫られないので今もコンスタントにLO誌上に作品を掲載している。そういう意味では町田ひらくは幸福な作家である。雨がっぱ少女群の葛藤は「描く」ことを巡る、より根源的なものであり、それがゆえに彼の作品群を読む読者の視点は、その作品をまさしく筆先で「描いた」であろう作家本人の「葛藤」に常に差し戻されるのである。というかそのような視点を持ち得ない読者は端的に雨がっぱ少女群の作品群を評する資格を持たない。
 『あったかく、して』によって顕在化した葛藤と分裂は、原作者を伴った新刊『少女熱』で統合されるどころか、より深刻に、そして苛烈になっている。というもの、それまではあくまで作品間にとどまっていた葛藤と分裂は、『少女熱』ではもはや作品内部にまで侵食しているからである。そこでは一つの作品の中で、本来の雨がっぱ少女群の作風である劇画チックな作画とLO的な萌えエロリ漫画風の作画が混在しており、端的に言って非常に不安定かつ乖離した世界を形成している。例えば『博士の異常な欲情』では途中から明らかに画風が変容していくのだが、その変容が原作のストーリー(非常に稚拙でくだらない原作)上の必然とか要請によるものではまったくなく、はっきり言えば完全にストーリーから作画だけ遊離、というか乖離してしまっている。しかし雨がっぱ少女群がかつて持っていた苛烈な作家性が顔を覗かせるのもこのような瞬間なのである。すなわち、『少女熱』においては、分裂や乖離そのものが雨がっぱ少女群の作品の実存を形作っているとも言える。『少女熱』という題名はある意味で適切であった。『少女熱』においては雨がっぱ少女群が抑圧していた自分本来の作家性が一瞬亀裂から湧き上がるマグマのように顔を覗かせるのであり、そのとき読者はもはや自分がLO的萌えという微温的な空間に安住していないことを悟るのだ。

日記1 (2015.8.30)

個人的に書き貯めている日記から一部を抜粋(日記なので思いつきで書き飛ばしている部分あり)。

2015年8月30日

 ドゥルーズマゾッホとサド』読了。なんとなくだがこの本はフーコーに対する当て付けのように思われた。その理由として、まず、この書においてドゥルーズマゾッホの革新性を説き相対的にサドを貶めているが、フーコーは熱烈なサド読者であった点(高等師範学校時代のフーコーはサドの熱烈な愛読者であり、サドの愛好者ではない連中に対する軽蔑を声高に公言していたので同級生からキチガイ扱いされていたというエピソードはエリボンの『ミシェル・フーコー伝』にも記述されている)。そして、ドゥルーズがこの書の中で、マゾヒストとサディストが邂逅すると何が起こるのかという笑い話(マゾヒストを痛めつける=悦ばせることをサディスト側が拒否するであろうという笑い話)を引きながら、真のマゾヒスト(つまりドゥルーズのこと)であれば、マゾヒスト側もまたサディストを拒否するであろうと言っていること。つまり、マゾヒストとサディストは永久にすれ違うであろう、ということ。これは、一言でいえばドゥルーズからのフーコーに対する拒否=<ノン>の意思表示であろう。『マゾッホとサド』を読んだフーコーがどのように思ったか定かでないが、恐らく良い気分はしなかっただろう。そして、ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』の出版以降いよいよドゥルーズフーコーの関係は不穏なものになってくる。例えばフーコーは『アンチ・オイディプス』をセリーヌ的口調が気に食わない書物というようなことを知人に漏らしていたという(『ドゥルーズガタリ 交差的評伝』)。さらに、フーコーは「性の歴史一巻」『知への意志』を刊行しフロイト的<欲望>概念を厳しく批判したが、この批判の射程には『アンチ・オイディプス』はもちろんだが『マゾッホとサド』も当然含まれているに違いなかった。『マゾッホとサド』では<快楽>への到達を宙吊りにすることによって<欲望>を持続させるマゾッホ的な態度が称揚されていた。これらのフーコーによるDISに対してドゥルーズは直ちにアンサーの書簡を送る。『欲望と快楽』という題で後に公表されることになる書簡の中で、ドゥルーズは再びマゾッホを持ち出し「きみ(=フーコー)の言う<快楽>は<欲望>を中断させるための障壁でしかないと思う」というようなことを書く。フーコーはこの手紙に激怒しドゥルーズと二度と会わない決心をし、事実これをきっかけに二人は死ぬまで会うことがなかった。注目すべきは、ここでもサドとマゾッホの対立が問題になっている点である。サド=フーコーマゾッホドゥルーズは永遠に相容れない、すれ違いを運命づけられていたとしか思えない。後世の人間たちはとかくフーコードゥルーズの「友愛」みたいなことを口に出したがるが、そのような態度は単に偽善的だけでなく二人の間にある思想的差異を糊塗し隠蔽してしまいかねないという意味で有害ですらあるのではないか。と思った。

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』私的私感

 アニメーションとは魔法である。なんという単純なアナロジー。なんという分かりやすいメッセージ。しかし、内容と形式が完全に一致したとき、すなわち、アニメーションとは魔法である、というメッセージをまさしく魔法のような完璧なアニメーションによって提示されたとき、我々はそのあまりにも単純かつ強度を湛えた真理を前に言葉を失うしかない。今どき、アニメーションに対してこれほど誠実かつ子供心を忘れずに向き合って制作している人たちと、それを支える(主に海外の)アニメファン層が存在する、という事実にも救われる気持ちがする。
 だが、それと同時に、というかそれがゆえに、このアニメにはある種の「捻れ」とでもいう他ない要素が不可避的に貫入しているようにも思える。それは、これまであまり指摘されなかった「人種」という要素である。前作の無印版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『LWA』)では人種という要素はほとんど表に出てこなかった、というか私は今作によって何気に初めて主人公のアッコが日本人であるという設定を知った。物語中盤、パレードに向けて準備中のアッコに向かってダイアナが以下のような揶揄的な台詞を放つ。「東洋の島国から来たミーハー魔女のくせに」。この言葉に対してアッコがどのような言葉を返したのかはよく覚えていないが、それにしてもこの台詞はちょっと衝撃だった。思えば序盤に映し出される教室風景でもクラスメートに黒人の少女が混じっていたが、そのときは『LWA』がモチーフとしているカートゥーン的な意匠の一つに過ぎないのだろうとあまり気に留めることもなかった。しかし、恐らくそれだけではないのだ。監督の吉成曜含めた製作者たちは、たぶん意図的に「人種」というファクターを今作『魔法仕掛けのパレード』に忍び込ませた。つまり、日本人である我々が主にディズニーアニメからの技術輸入に拠った、すなわちアメリカを出自とするアニメーションを制作するというのはいかなる行為なのか、という所謂<ジャパニメーション>の起源と出自に差し向けられた問題意識がそこにはある。(ガイナックス時代からすでに顕在化していた)『LWA』におけるカートゥーンアニメ的な意匠も、恐らくこの問題意識と無関係ではない。「東洋の島国から来たミーハー魔女」とはまさしく吉成曜(と彼を含めた製作者たち)自身のことであり、そしてこのミーハー性を作り手自身が意識することは、図らずも<ジャパニメーション>といういささか奇形的な表現形態の隠された始原を明らかにすることでもあった。言い換えればそれは端的に言って、日本/アメリカという対立項をふたたび自分たちの中に内包させることをも意味している*1
 話を急ぎ過ぎた、いや、急ぎ過ぎていないか。話を少し変えよう。無印版『LWA』は、幼少時のアッコが親に連れられて観に行った魔女シャイニィシャリオのショーで魔法の魅力に目覚めるシークエンスから始まる。若手アニメーター育成事業『アニメミライ』に出品されたこの作品が、若手アニメーターが「魔法学校」であるところのアニメスタジオに入って修行する、という一種のアニメ業界的寓話=メタアニメとして作られたということはこれまで散々言われてきた。それでもなお、このオープニングのシークエンスに限っては、これは吉成曜の私的体験がベースになっているのでは、と思わずにいれない。吉成曜は恐らく幼少時に親に連れられて映画館でアニメ作品を、それもたぶんディズニー映画を観たに違いない。それが一種の原体験となり、吉成曜がアニメ制作を行う際に常に立ち戻ることになる定礎として機能しているのではないか(もちろん以上のことはすべて私的な妄想であり事実とは異なるかもしれない、あしからず*2)。少なくともそのように考えれば、『LWA』における日本/アメリカという分裂と葛藤がより腑に落ちるものとして理解されるのではないか。
 もう少しアニメ表現面にも目を向けてみよう。『LWA』のキャラデザは非常にカートゥーン的(『LWA』におけるカートゥーン性がもっとも際立っているキャラは言うまでもなく『魔法仕掛け』に出てくる市長であろう、というかどう見てもタウンズヴィルの市長にしか見えないのだが…)と言っていいが、例えば『魔法仕掛け』の中盤でアッコたちと悪ガキが乱闘になるシーンは、殴る蹴る等のアクションひとつ取ってもジャパニメーション的なリアリズム表現に貫かれており、アメリカのカートゥーン的なデフォルメ暴力表現とはかけ離れている。すなわちここにも日本/アメリカの分裂と混合がある。
 『Kickstarter』による海外アニメファンからの出資によって、海外のアニメファンに向けて自分たち日本人がアメリカ的カートゥーンスタイルでジャパニメーションを作る、という捻れ構造が『魔法仕掛け』でより一層明確になると同時に、吉成曜と製作者たちもそのような構造をより鮮明に意識するようになった、せざるを得なくなった。もちろん『LWA』には所謂「クールジャパン」的な驕りは一切存在しない。むしろ、唯一の日本人であるアッコは一貫して魔法学校内の落ちこぼれとして描かれていた。しかしそれでもアッコは日本/アメリカという葛藤と分裂を生きながら仲間と力を合わせてパレードを成功させる。ここにこの作品の感動がある。
 とはいえ以上に示した捻れ構造は、何も『LWA』に限った話ではなく、今のジャパニメーション全般に当てはまる普遍的な構造である。というのも、例えカートゥーン的見かけでなくとも(つまり萌えキャラ的見かけであっても)、日本がアニメーションの技術をアメリカのディズニー映画から輸入してきたという歴史的構造は不変だからである。
 急いで付け加えておけば、今のジャパニメーションはアメリカに回帰するべきだとか、海外のアニメファンにもっと媚びを売るべきだ、というようなことが言いたいのではもちろんまったくない。そうではなくて、日本/アメリカというジャパニメーションが原初において抱えていたはずの二項対立を、さも初めから無かったかのように慎重に除去=忘却した上でジャパニメーションが制作され、あまつさえそれが日本独自の文化であるかのように振る舞いしかもそれが「クールジャパン」などと海外から持て囃されているのだとすれば、それは端的に言って欺瞞以上の何物でもないのではないか、ということが言いたいのだ。そのような意味において、『LWA』はジャパニメーションの始原に立ち帰り、日本/アメリカという二項対立をふたたび自分たちの内部に取り込むと同時に、アニメーションとは魔法である、というアニメーション本来の身も蓋もないくらいの(だからこそ簡単に忘れ去られる)<本質性>を極上のエンターテイメントと共に提示し得た、非常に稀有な作品だと言えよう。

*1:この、日本/アメリカという分裂はいわゆる日本語ラップにも当てはまる。つまり、黒人発祥の音楽であるヒップホップを黄色人種である我々日本人がやるというのはどういうことなのか、という問いであり、BUDDHA BRANDやさんピンCAMP以後の日本語ラップはこの問いを中心に旋回しながら発展してきた。

*2:この文章を書く上で『アニメスタイル003』の吉成曜ロングインタビューを一応読み返してみたのだが、やはりと言うべきか幼少時のアニメーション体験については一切語られていなかった。もしかしたらある種の心理的抑圧が働いているのでは、と穿った見方もしてみたくなるが…。