圧縮の快楽

 沓名健一が公開沓名塾で「3コマ以上落として再生してるような動きを脳内で補完する快楽がある」みたいなことを云ってた*1けどその通りだと思う。たまこまーけっと2話アバンのフル2コマタイムライン系作画なんて正直どうでもいいのだ。あんな一部の作画オタクが何十回もコマ送りしてやっとわかるような動きなんてエポックでもなんでもない。それに比べ松本憲生の動きの面白さと気持ちよさは誰が見たってわかる。

clip NS #85 - Norio Matsumoto
 フル3コマの快楽。圧縮の快楽。情報を圧縮することは情報量が多くなることではなくむしろ反対で要らない情報を捨てることである。我々の意識も同じである。実際には何百万ビットという情報が、毎秒ごとに感覚器官を通して我々の中に入り込んでくるが、我々の意識が処理するのは、そのうちのごく僅かである。ドイツの生理学者ディートリヒ・トリンカーは「我々の目が見、耳が聞き、その他の感覚器官が伝える情報の100万分の1だけが意識に現れる」と云っている*2。ヘルムート・フランクは意識の帯域幅=主観的時間量を16ビット毎秒とした。これは我々が経験できる最小の時間枠のことで、人間の知覚における分解能を示す。例えば一秒に16~18コマ以上の画像が画面に映し出されると、我々は画像を途切れず、動くイメージとして知覚する、というかしてしまう。しかし毎秒16コマ未満の画像が映し出されると、それはチカチカと途切れた画像に見える*3。映画は毎秒24コマ(作画用語で云えば1コマ打ち)、3コマ打ちのアニメは毎秒約8枚、つまり上の表現で云えば8コマ(混乱を招くような表現を使って申し訳ない)である。よって、我々は3コマアニメを持続したイメージではなくリズムとして経験していることになる*4。フレームレートを落とすことによる情報の大量処理とそれに付随して発生する熱エネルギーが快楽に変換される可能性。
 圧縮の快楽は何も3コマ作画だけに限らない。アニメというメディア自体が圧縮しはじめている。昨今流行りの5分間以下のショートアニメがそうだろう。「てーきゅう」は約2分間という時間枠に一話分のアニメを詰め込んでいるが別に密度が高いというわけではない。作画も2コマ打ちや1コマ打ちでなく、むしろ4コマや6コマ以上を率先して使っている。こんなスカスカなアニメはない。会話はテープを早回しにしたような高速スピードで畳み掛けるようなスタイルを採っているが、当たり前だが余計な会話がひとつもないという点ではむしろスマートさすら感じられる。
 海外でもショートアニメの手法を(図らずも?)採り入れているクリエイターがいて、その人物の名はジャン=リュック・ゴダールという。彼は自らの映画を4分間のトレイラームービーに圧縮してしまった。これを通常の等速スピードで再生したらいい具合にジャパニメーションの3コマ打ちみたいになるんじゃないか?*5試してないけど。

FILM SOCIALISME JL. GODARD TRAILER 2
 蛇足だが日本の文学はずっと以前から圧縮の快楽を体現してるスタイルを持っている。云うまでなく俳句がそれである。特に明治以降の自由律俳句は情報の圧縮を一種の究極形にまで持って行っている。もちろん俳句の歴史を記すのがこの記事の目的ではないのでこの辺りでとっとと筆を擱くことにする。

陽へ病む  大橋裸木

*1:http://animeng.blog5.fc2.com/blog-entry-862.html

*2:「ユーザー・イリュージョン」トール・ノーレット・ランダーシュ

*3:同上

*4:正確に云えば持続した運動イメージとして知覚しながら同時にリズムとしても知覚しているのが、この興味深い二重性については前回までの記事でも散々仄めかしたりしてなかったりするので割愛

*5:なるわけがない。試さなくてもわかる