海外の『serial experiments lain』コミュニティについて

今年(2018年)は『serial experiments lain』20周年ということで、ファンの有志によるイベント が開かれたり、脚本家の小中千昭氏がブログを開設したりと、各所で『serial experiments lain』を回顧する催しが行われているようです。

そこで、この記事では、そういった盛り上がりとは一見したところ無関係の場所で営まれている『lain』コミュニティを紹介することで、『lain』の受容層の広がりと深さの一端をお伝えしたいと思います。

 

続きを読む

のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析

キズナアイに代表される企業系Vtuberに対して、個人で技術開発と活動を行うVtuberを、さしあたりインディペンデント系Vtuberとここでは呼ぶ。インディペンデント系Vtuberには例えば、ねこます、みゅみゅ*1、のらきゃっと等が含まれるだろう。

彼らに共通する特徴として、①独学で得た技術的知識を活かす ②比較的低予算 ③活動拠点をYoutubeに限らない ④個人的な欲望が出発点*2、などが挙げられる。中でも、みゅみゅとのらきゃっとは、本来はニコ生を活動拠点にしていたという点で、その他の有名どころのVtuberとは出自を異にする。この出自の相違は重要である。というのも、ニコ生におけるライブ性は、みゅみゅ、そしてのらきゃっとのスタイルと密接に関わっているからである。本稿では、のらきゃっとにおけるスタイルの考察をとおして、インディペンデント系Vtuberのアクチュアリティを探っていく。

*1:みゅみゅ氏はVtuberを名乗っていないので厳密にはこのカテゴリーに含めることはできないのだが……

*2:例えば、ねこます氏や届木ウカ氏に見られるTS願望

続きを読む

『カードキャプターさくら 封印されたカード』感想

『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』を観て愛について考えない奴はどうかしている。

さくらは、二つの異なる「愛」の原理の間で引き裂かれている。
物語は終始、さくらに小狼からの告白に対する「返答」を強いるのだが、そのような重圧の下で「返答としての告白」は、しだいに「責務」、あるいは「負債」と化して、さくらに重くのしかかってくる。返答としての「告白」とは、言ってしまえば「ゲロる」という意味での「告白」であり、すなわちそこでの「愛の告白」とは窮極的には取調室や告解室における「告白」と何ら変わるところがない。つまり、それは真に能動的な愛の言明=告白とはならない。

とはいえ、さくらが小狼を想う気持ちは本物なのだから、したがって、さくらにとってのタスクは、「返答」を徹底的に逃れるような形での愛の「告白」という困難な実践となる。なぜ困難なのかと言えば、愛の告白は、コミュニケーションの一形態である限り、「返答」や「応答」と言った債務関係の回路と切り離せないように見えるからである。

要するに、物語が終始一貫してさくらに強いる「返答」としての愛の原理と、それらに回収されない未知の愛の原理という、二種類の愛の原理がある。さしあたり、前者を交換と債務原理に基づく愛、そして後者を交換不可能な愛、あるいは共約不可能な愛、としておく。

ところで先ほど、物語は終始、小狼に対する「返答」をさくらに強いると言った。確かに、さくらに周囲の親友はさくらに小狼への「返答」を執拗に促し、手助けしようともする。しかし同時に、さくらの小狼への「返答」をどこまでも妨害するのも、さくらの周囲の出来事(兄の不意の帰宅、廊下を走り去っていく同級生たち、割り込んでくる遊園地の着ぐるみ、飛び去るカード、…etc.)なのである。まるで、世界自体が二つに分裂して葛藤と闘争を繰り広げているかのように。この世界における分裂と葛藤は、さくら自身の無意識の分裂と葛藤でもあり、言い換えれば、世界はさくらの無意識を映す鏡のような存在としてある(その意味で、山崎の意図せぬ負傷とその後の顛末は、世界における狡猾な無意識のもっともあからさまな発露と言える)。

世界は、「返答しなければならない」という強迫と、「返答してはならない」(なぜなら「返答」は真の愛の表明とはならないから)という強迫との間でジレンマに陥り引き裂かれる。

そして、さくらの周囲の世界は消えていく。まるで、世界の消滅こそが、このジレンマに対する解決策であるかのように。さくらの周囲の人間と世界の消滅は、「返答」を強いる環境を消滅させ、さらに返答すべき相手すら消滅すれば、愛の告白はついに「返答」の回路から解放され、そのとき真の愛の言明が可能となる……?(しかし、相手=対象なき愛の言明とは一体どのような愛の言明なのか)。よって(?)、世界は世界自身の最終的な消滅を要請する。

そして実際に(!)、物語はそのように進行していく。「無」のカードによって世界が文字通り緩やかに「無」へと帰していくなか、さくらは「無」のカードと対峙し、そして遂にさくらカードへと変えることに成功するのだが、代わりに小狼が代償として「もっとも大切な気持ち」(=すなわち、さくらを想う気持ち)を失ってしまう。もちろん、このとき生成された「希望のカード」によって小狼は代償から逃れているのだが、それが判明するのはあくまで事後的でしかない。この瞬間、さくらはあくまで「大切な気持ちを失った」小狼として小狼と相対している。

周りの人々が消滅していく世界において、もはやさくらに「返答」を強いる存在はない。さらに言えば、「返答」すべき相手もいないとすらいえる。なぜなら、小狼は既に「もっとも大切な気持ち」を失っているとされるのだから。ところが、さくらが初めて真の、無条件の愛(=交換不可能な愛)の言明に成功するのは、この、奇妙にも消滅過程にある世界の只中で単独者として元小狼と相対したときなのである。

このとき、愛の言明は「返答」の回路から逃れることで、さくらは初めて能動的に、主体的に「好き」という感情を表明できる。たとえ、それが「大切な気持ちを失った」小狼に届かなくても。「小狼君が私のこと何とも思ってなくてもいい、私は小狼君のことが好き。」というクライマックスにおける告白の台詞は、実は前半部分の方が重要で、「小狼君が私のこと何とも思ってなくても構わない」という境位に自らを置くことで、さくらは「返答」の強迫観念から解放された能動的な主体へと己を生成させるのだ。

もちろん、このことは「賭け」としてしかあり得ないだろう。すべてが宙吊りとなる空白の瞬間、愛の言明は相手に遂に届くことなく中空へと消尽してしまうかもしれない、というバタイユ的な可能性に曝されながら、それでも無限の「跳躍」を試みること。すなわち、消尽の中に「希望=HOPE」を見出すこと。それこそが、さくらにとっての愛の言明となる。