アニメにおける物体変化を巡る理論 ――作画崩壊、マテリアリスム、世界変革

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以下はたった今思いついた補足。
例えば、ノーマン・マクラレンは、「アニメーションの定義――ノーマン・マクラレンからの手紙」*1の中で、アニメーションを次のように定義した。

コマの上にあるものよりも、コマの間で起こることの方が、よっぽど重要だ。

それゆえ、アニメーションとは、コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術なのである。

一方、セルゲイ・エイゼンシュテインは、論文「ディズニー(抄訳)」*2の中で、ディズニーキャラクターの伸び縮みする身体から「原形質性」という概念を取り上げてみせる。

永久に割り当てられた形式の拒絶、硬直化からの自由、いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力である。
その能力を、私はここで「原形質性」と呼びたい。なぜならば、絵として描かれた存在は、明確な形式を持ち、特定の輪郭を帯びながらも、原初的な原形質に似たものとなるからだ。いまだ「安定した」形式を有さず、どんな形式を呈することもでき、進化の梯子の横木を飛び越して、どんなそしてあらゆる――すべての――動物の形式へと自らを固定させることのできるものである。

さしあたり、この「原形質性」を、アニメーションを根底において規定する全能的なメタモルフォーゼ性として捉えることができるだろう。問題は、マクラレンとエイゼンシュテイン両者のすれ違いだ。一方はアニメーションを規定する要素を、コマとコマとの間、言い換えれば運動に求め、一方は物体のメタモルフォーゼ性に求めている。
しかし見方を変えれば、両者は同じことを別様の二つの側面から言い換えているに過ぎないと言うこともできる。なぜなら、コマとコマとの間の操作とは運動のことだが、運動にはコマ、要するに原形質性を備えた物体がなければ成立しない。逆に、原形質性におけるメタモルフォーゼもやはり運動を前提としている。運動のないところに変容はないからだ。つまり、両者の議論は「ニワトリが先か卵が先か」であり相互依存的であると言える。よって、運動と原形質性を統一的に記述すべき共通の土台が必要となってくる。
ところで、私は以前 『Merca β03』に寄稿した「月の徴しの下に――アニメーションにおける器官なき身体」において、アニメーション制作におけるタイムシートという装置に着目し、これを「器官なき身体」として定式化しようと試みた。重複するので詳述は避けるが、秒間24のグリッドと複数の諸セリーによって分割されたタイムシートは、その平面上にそれぞれの原画、動画、背景、撮影指示等々を配分することで機械上ダイアグラムを構成する。また、諸セリーに配分された各原画と動画は、任意の比率、リズム、速度を有しており、各セリーとの間に共振関係を引き起こす。いわば、タイムシート=器官なき身体は、アニメーションにおける可能性の条件もしくは超越論的領野であり、その上ですべてが生起する内在平面である。
さて、器官なき身体の表面で生起するのは純粋な出来事であり、初期ストア派的に言えば非物体的なものの変形なのであるが(その意味で初期ストア派哲学はアニメ論と言える)、コマとコマとの間(における操作)と原形質性をともに出来事の次元に属するものとして再定式化することができると思われる。そのためにはまず、コマとコマとの間とは何なのか、言い換えればコマとコマとの関係性について考えなければならない。
ここで重要だと思われるのは、アニメーションにおけるコマとコマとの間に横たわる根本的な断絶性である。例えば映画においては、基本的にカメラは現実空間における自然物理学的な因果的連鎖を映す。その意味で、映画も秒間24コマに分割されているとはいえ、コマとコマとを繋ぐ関係性は原因と結果という素朴な因果関係をベースにしており、その安定した関係性が揺らぐことはない。
ところが一方、アニメーションにおいてはコマとコマとの関係はどこまでも帰納的なものに留まり、映画におけるような原因と結果に基づく厳密な因果関係は保証されていない。より具体的に言えば、アニメーションにおいては、あるコマの次に一見するとまったく繋がりのないコマが登場することも原理的にあり得る。そのような事態が商業アニメーションにおいてほとんど起こらないのは、作り手と視聴者が共に現実原則、言い換えれば映画的見方に依拠しているからだが、しかし見方を変えれば、このコマ間の帰納法的飛躍(アニメにおけるヒューム主義)は、作画崩壊などの形で常に可能性として開かれている(あるいは曝されている、と言うべきか)。作画崩壊とはアニメーション制作における一つの失敗であり欠陥であるのだが、ある瞬間に突如人物、物体、世界が、変容、錯乱、崩壊するのに直面したとき、我々はしかし逆説的にもアニメーション的経験の只中にいる。
繰り返せば、アニメーションにおいてはコマ間の関係は帰納法的であり、あるいはヒューム的に言い直せば、関係は「外在的」であると言える。二つのコマの間には因果関係ではなく、衝突が生み出す出来事とアフェクションがあるのだ 。
まとめれば、マクラレンが述べたコマとコマとの間とは、因果的連鎖から逃れた純粋な出来事のことであり、またエイゼンシュティンが述べた原形質性とは、この出来事を生起させる可能的条件、すなわち特異性を構成する内的な諸力の関係のことに他ならないのである。

*1:『表象07』所収

*2:同上

noteにダークウェブについて書きました

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ところで、これは記事の内容とは直接関係はないのだが、グーグルでダークウェブについて検索してみたら、どこかのニュースサイトの記事に行き当たり、そこではダークウェブについての、「危険!」だとか「絶対に近づいてはいけない!」といった仰々しい警鐘コピーが連なっていて、思わず苦笑してしまうのだった。
執筆者はどこかのサイバーセキュリティ会社の社長で、自身でダークウェブについての著書も書いてるようだった。私はその著書を読んでいないが、その記事では、ダークウェブがいかに危険な空間であるかを声高に煽り立てており、例えばダークウェブでは「ハッキングツール」や「銃器」が普通に売買されており、アクセスしただけでマルウェアに攻撃されることもあるので、決してアクセスしてはならないそうだ。私はその方面には不案内だが、しかしTorを使用していてマルウェアに攻撃されたことは一度もない。
しかし、その記事の筆者がサイバーセキュリティ会社の社長で、記事の終わりに、「こうした犯罪から身を守るには、企業であれば万全なサイバーセキュリティー対策への投資を惜しまない経営判断が求められます」といった文章がしれっと挿入されてたりするので、要はよくある「売らんかな」精神の発露の下この記事が書かれたと考えれば自然ではある。
つまり、彼らにとっては、ダークウェブはなるべくブラックボックスにしておくことが望ましい。そこが危険な空間であるという印象を吹き込んだ上で、近づいてはならないと警鐘を鳴らし、返す刀で自社のセキュリティソフトをちらつかせる。商法としてはスタンダードだ。
彼らが言いたいことはただ一つ。「我々はダークウェブから攻撃を受けている、よって防衛しなければならない」。
こう書くと、なんだか昨今の日本海界隈の情勢を思わせるようで若干笑えないのだが、このような言説による大衆操作は実際至る所で行われている。
彼らの戦略の要諦は、指し示しながら隠す、あるいは隠しながら指し示す、という二重の身振りにある。指し示した対象を「謎」や「禁忌」として覆い隠すことによって、ある「恐怖」という感情のもとに一定の集団を組織し、方向付け、動員する。
したがって、上にリンクした二つの記事はそうした体制に抵抗するために書かれた。抵抗とは「暴露」であり、覆いを取り除くことである。
もちろん、私がダークウェブについて知っている範囲はごく限られたものでしかないし、また叙述がジャーナリスティックなものに流れすぎた嫌いはあるが、とはいえそこに書かれていることは端的な事実でしかなく、つまりそこにはありふれた退屈さしかない。言い換えれば、内容はいかにジャーナリスティックであれ純粋に批評的なアプローチで書かれている。

noteに東山翔論をアップしました。

noteに『東山翔論――絶対的自由へ向けて』をアップしました。
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最終章以外は無料で読めますが、当方万年金欠ですのでsubscribe感覚で購読して頂けると助かります。
とはいえ、はやくも全文を書き直したい(特に4章以降)という誘惑に駆られていますが、それでもあえてこのテクストでの議論を乱暴に図式化してみるなら大体以下のようになるでしょう。
まず、マンガなどの二次元表現の領域には大雑把に、実在/非実在という二項対立があります。主に「表現の自由」を守ろうとする運動は、多かれ少なかれマンガ表現を「非実在」の側に置くことによって、あらゆる反道徳的、暴力的な表現を「想像力」に還元し免罪することでかろうじて「自由」を担保する試みだと言ってよいでしょう。また他方で「想像力」は、震災やアウシュヴィッツなどの、現実におけるなんらかのトラウマ的な事象に対しても、「想像せよ」という形で、現実に対する何らかの批評的な眼差しを向けることを可能にするとされてきました。
ところが、ロリ漫画、特に東山翔の作品は、ある意味で「現実=実在」が常に「想像力=非実在」に先行してしまうという意味で、根源的な転倒を孕んでいます。そこでは、実在/非実在を分かつ「/」という境界=前線が、「非実在」を飲み込み、外へ外へと溢れ出ていくかのようです。それは端的に言えば、前線が「内部」をすべて含み込んでしまったという意味で「外部」が何もない世界です。東山翔の作品では、すべてが虚構=非実在であると同時に、現実=実在でもあり得る。「実在」と「非実在」が等価であり並列している。
しかし、それでは、そのような「外部」のない世界において、それでも「外」があるとすれば、また「倫理」があるとすれば、それはどのようなものなのか。またそこにおける「自由」とはどのようなものでありえ、かつ作家が線を引く営為はどのような意味を持ちうるのか。
このテクストでは、それらについての答えをはっきりと提示することはできませんでした。白状すると「わからない」と言ってもいい。
このテクストにおける議論の混乱と迷いは、端的に言ってこの「わからなさ」に起因しています。
ただ、このテクストが何らかの端緒となり、有益な議論か何かに発展してくことでもあれば、とりあえずこのテクストの役目は果たされたと言うべきでしょう。

想像力は死なず、え、死んだって、そう、では死せる想像力よ、想像せよ。
(『死せる想像力よ想像せよ』サミュエル・ベケット