アニメーションにおける記号の問題

田中:ある作品で、キャラの鼻の下に必ず2段影がついてるのが気になって、作監の人に聞いたんですけど、「じゃあ、アオリの時は? 影無いと鼻に見えないよ」って言われたりして。俺は「光源が変わったら、(鼻の下に)影がなくたっていいじゃん」って普通に思ったんですけど……。その頃はみんな、画面の中の光源とか関係なく、ここは絶対に影がつく、というかなり強引な、判子のような記号で画面を作ってましたよね。誰かの作った記号を真似して、さらにまた真似て、装飾して、もう誰も、この鼻の横の線が何を意味してるのか解らない、という(笑)。動きに関しても、歩きは中5枚、走りは中2枚で腕を振り上げてこういうポーズでっていう、がちがちのセオリーがあった。ビックリする動きは必ず一度縮んでから、とかね。悪い意味での紋切り型ってやつですね。
 とにかく、もっと画面の中に本当に生きた世界があるようにしたい、っていう欲求が強烈にありましたね。情感、空気感みたいな事がやりたいテーマだったんで、そこがクリアできないと話にならないんで。それは、必ずしも実写のトレスという事ではなくて、頭の中を1回通り過ぎてきたもの、やっぱりどこか「マンガ」ではあってくれないと気持ち良くないんですよね。みんなそうだと思うんですけど。俺は、リアリティってのはジャンプする為の道具だと思うんで。だから、「マンガ=記号」って事で言えば、現実を見て、もう一度その記号を作り直したいって事ですね。「再記号化」って俺は言ってたんですけど。
「WEBアニメスタイル 田中達之インタビュー 」

 上で語られているような、要するにキャラクターの記号化、と同時にその記号の体系化とアーカイブ化を最初にジャパニメーションに導入したのは言うまでもなく手塚治虫である*1。そしてこれもまた言うまでもなく手塚治虫は漫画家である。本来静的な漫画に適応されていた記号化という表現技法が動的なアニメーションに流入される、という事態に不可避的に伴うジレンマを、60年代以降の日本アニメは生き抜いた。その生き抜いていく過程において、記号がアニメーションという運動イメージの中で記号から逸脱していく、記号が溶解していく過程が生まれた。云ってみれば、手塚以降の日本のアニメの歴史とは、漫画的な記号の脱構築化の歴史でもあった、といえるのではないか。上の田中達之の「再記号化」というタームも、マンガ的記号を脱構築する試みの一形態に他ならない。田中は、記号を徹底的に運動イメージの中に置いて考えたのだ。それは画面を「本当に生きた世界」として考えることでもあった。といってもそれは記号の完全なる排除を意味しない。そうではなく、記号を生成的に捉えること、運動と生成の中で、記号が自壊しながら変容していく臨界点を直接的に掴み取り、それを画面に素直に写生することを意味していた。
 本来静的な記号が動的なイメージの中で自己を保てなくなり溶解していく、という事態の例を、私たちは例えば大平晋也のアニメーションに最も顕著に見出すことができるだろう。しかし大平や田中のようなアート方向に偏ったスタイルに限らず、普段大量生産されている商業アニメにおいても、記号の「揺らぎ」は常に見出すことができる。例として挙げる以下の画像はNARUTOにおける山下清悟の作画の1コマを抜き出したものである。もちろんこれを単なる作画崩壊と受け取るか記号の「脱構築」や「揺らぎ」と受け取るかは見る者次第ではあるのだが。*2
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*1:ここではいちいちアニメの通史を振り返る作業をしないが、おおよその概略だけ触れれば、60年代に設立された手塚治虫による虫プロダクションが、それまでのディズニー的なフルコマ、フルアニメーションアニメを否定し、3コマ打ちやリミテッドアニメーションの導入という徹底的な作画上の経済合理化を図り、このときキャラクターの徹底的な記号化も先の作画上の合理化の一貫として導入され、それが現在までジャパニメーションにおける主調低音として(良くも悪くも、また程度の差こそあれ)作用している、というのが私なりの大雑把な国内アニメ史観である(参考文献:「作画汗まみれ」大塚康生

*2:個人的には動いている画面として見たときはさほどの違和感を感じなかった。この辺りにアニメーションにおける本質がありそうではある

焼夷弾の燃えかす

 植草甚一の1945年5月23日の日記の引用から始めてみたい。

二十五、六日頃に空襲があるという専らの風評も馬耳東風、ところが一時半から三時半にかけて、大分やって来て、だいぶ焼夷弾を落としたが、僕は往来で約十キ撃墜キを見た、一所懸命で見た、新宿附近が危ない、自宅の近所も危ない、山王ホテルが燃えた、三時四十分頃歩いて出かける。赤坂などの火勢をながめ、紀伊国坂で焼夷弾のもえかすを拾う。
植草甚一日記」

 異様、である。何が異様、ではない。すべてが異様である。焼夷弾が投下されている中いつもの日課である散歩に出かけ、火勢をながめながら、ふと道端に落ちていた焼夷弾のもえかすを拾ってみる。ここには、普段と変わらない日常の持続しかない。なので正確を期していえば、植草本人からしてみれば、異様なことは何一つとしてない、だからこそ異様なのである。このテクストから受け取る、取り付く島もない、読み手を突き放すような印象は、植草の時局やイデオロギーに対する徹底的な無関心に起因するだけではないように思われる。もちろん日記という形態に依るところもあるだろうが、ここでは無関心どころか、感情の一切が慎重に捨象されている。そして最後に残ったのは、焼夷弾の燃えかすの「手触り」だけであった。

 樫村晴香は「ドゥルーズのどこが間違っているか?」という卓越した論文において、ニーチェの交換不可能―共有不可能な特異的―1回的な体験としての「強度」(病)を、安易に一般的な概念‐隠喩的な回路に還元したとして、ドゥルーズを批判している。氏の議論の当否を問うことは差し当たって問題ではない。しかし、ニーチェのテクストの内に、既に一般化―概念化への欲望を駆動する誘引のようなものがあって、それが常に読者に働きかけているとしたら、概念化の非をドゥルーズだけに押し付けるのはやや酷とは云えないか。そうでなければ、ニーチェの真意――後に云うようにこれが曲者なのだが――を理解していないのにも関わらず彼を礼賛する転移者(例えばナチスや最近では「超訳 ニーチェの言葉」ブーム)が、あれほど大量に現れるはずがないではないか。もちろん、ニーチェ自身はこのことに自覚的だったのである。そうでなければ、下のような文章を書くはずがない。

 じっさい、忠告しておくが、さっさと俺から離れろ!俺に抵抗しろ!いや、もっといいのは、ツァラトゥストラのことを恥ずかしいと思え!もしかしたらお前たちは欺かれたのかもしれないのだ。
 ツァラトゥストラを信じているのです、と言うのか?だがツァラトゥストラに何の価値がある?お前たちは俺の信者だ。だが信者に何の価値がある?
(「ツァラトゥストラニーチェ 丘沢静也訳)

 このような叫びを発せずにはおれなかったニーチェの心中を慮ると絶句するほかなくなる。更にはこのテクストの文意――抵抗しろ――をこのテクスト自体に適用するとなると、なおさらに。ニーチェは端的に、「俺を理解するな」と言っている。しかし例えば、「この文章を理解するな」という文章を前にしたとき、読み手は一体どうすればいいのであろうか。ここには、もはや言語の限界にまで突き当り、ほとんど失語するしかないような領域にまで追い込まれたニーチェ(と読者)の姿がある。しかし大抵の読者=転移者は、ニーチェのテクストとそのように向き合うことはなかった。だから、やはり彼も敗北したのである。

 ニーチェは自分のテクストの転移作用に自覚的であったが、小林秀雄となるとそれすらも怪しくなる。彼の、果てには読者を戦争にまで動員するほどの強力な転移作用は、ニーチェと同じく彼の思想からすれば全く以て逆説的というか皮肉的としか云いようがなかった。

 俺は自分の感受性の独特な動きだけに誠実でありさえすればと希っていた。希っていたというより寧ろそう強いられていたのだ。文字通り強いられていたのだ。強いられているだけで俺には充分だった。……ただ明瞭なものは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。
(「Xへの手紙」小林秀雄

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものになれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を換言すれば、人は種々な事実を発見する事は出来るが、発見した事実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り、人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。
(「様々なる意匠)小林秀雄

 小林秀雄は他者と共有不可能―交換不可能な「強いられるもの」に行き当たった。それはニーチェ的に云えば「強度」であり、小林秀雄の言葉で云えば「宿命」であった。しかし奇妙ではないか。他者に共有不可能―交換不可能な経験をテクストに書くこととは、端的に云えば他者に「伝わらない」ことが前提になっていなければならない。しかし実際には伝わった。伝わってしまったのである。おそらくは、共有不可能な経験を、共有することが目的である言語によって表出することに内在する必然的な矛盾であり帰結なのであろう。しかし、小林秀雄ニーチェのように読者を突き放すことはしなかった。云ってみれば、懐柔して、抱き抱えた。徹底的に甘やかした。なので、「強いられるもの」は、「宿命」は、容易に一般化され、概念化された。それは最終的には読者の責任である。しかし、小林秀雄の戦略にも、やはりどこかしらの限界がなかったか。
 小林秀雄は、やはり他者を軽んじていた、いや、もっと云えば見えていなかった。小林秀雄の転移者――大多数の読者――は、一言で云えば小林秀雄の鏡像的な、想像的な他者であり、小林本人も、そのような転移者との想像的な関係の中で安住していた節がなかったか。

 植草甚一の言い知れぬ身も蓋も無さは言語に対する態度にも起因しているように思われる。以下は「植草甚一年譜」の1936年の項からの引用――大谷能生植草甚一の勉強」からの孫引きであるが――である。

ニ・二六事件の朝が忘れられませんね。東宝に溜池の家から歩いて行ったとき、ずーっと積雪のなかに、いくつも砂嚢を置いて兵隊が伏した構えで鉄砲を持っている。それが、とてもいい景色になっているのでした。

「「二・ニ六事件」という大騒動に対して<とてもいい景色になっているのでした>とだけ語る植草甚一のシカトぶりにはあらためて驚かされる」と大谷能生も述べているように、ここには読者が植草に転移――同一化――する余地がまったくない。「とってもいい景色」というチープすぎる言語選択の前で、読者は徹底的に書き手から突き放される。植草には、読者が同一化するための内面が、まったく無いかのようだ。はっきり云おう、植草甚一は、言語をまったく信用していない。言語に同一化することを拒否している。ニーチェのように、言語表現のジレンマの中で失語的な叫びに陥ることも、小林秀雄のように、想像的な他者との間で言語を共有することも等しく拒否した。植草は、言葉を、抽象的な共有観念としてではなく、手触りがあり鼻を近づければ臭いがし、強く叩けば壊れるような、そのような交換不可能な一回性の単なる「物」として扱った。しかし、そこには本質的な抜き差しならなさが伴っている。道端で拾った焼夷弾の燃えかす、その燃えかすの「手触り」だけが、彼にとっては総てであった。

無題

 因徹は揺らめく炎を見ていた。ときたま木片が火花とともに爆ぜる音が微かに聞こえる。その音は、まるで何かに生き急いでいるようにも彼には思われた。
 
 天保六年七月某日、赤星因徹は数日後に迫った松平家碁会に臨み某真言宗寺院堂内にて不動護摩供を修していた。事実、それほどの大一番でもあった。本因坊丈和の名人碁所引き下ろしを画策する師因碩が松平家城代家老岡田頼母に働きかけ、老中松平康任の名にて行われることとなった碁会が今回の「松平家碁会」である。師因碩は名人丈和に愛弟子因徹を当てた。それはもちろん作戦でもあった。そのとき因徹は七段であったから、もし丈和が負ければ、そのときは七段に敗れる名人は名人の資格なしとして、丈和を追い落とす計画であった。とはいえ、それもまた一面でしかなかったのである。なぜなら、師因碩は因徹が丈和を凌ぐ実力があるという確かな思いを抱いていたからであり、因徹自身もまた、同じ思いを抱いていたからである。
 この大一番の勝敗によって総ての如何が決するといってもよかった。丈和を名人から引き下ろすチャンスはおそらくこれが最後になるであろう。囲碁史における運命の岐れ道となることは、始まる前からわかっているようなものだった。
 赤星因徹、このときいまだ二十六歳の若さであったという。
 赤星因徹は文化七年、肥後国菊池郡に生まれた。幼名は千太郎、その後十二歳で江戸へ上り井上家の門を叩き、十八歳三段で因徹を名乗った。十八歳三段は碁聖と呼ばれた先人の道策や後世の秀策に比べれば遥かに遅かったといえる。しかし、因徹はスタートの遅さを、身を削る研鑽によってカバーした。二十五歳で七段に到達する頃には、井上門の中でもっとも名人に近い実力の持ち主であることは誰の目にも明らかになっていた。因徹は丈和との決戦の直前、師因碩と手慣らしに対局し先四局を全勝した。
 もはや何も恐れるものはなかった。

 ふと堂内に真っ白い煙が這入ってきていることに気づいた。何処かで香炉を炊いているのであろうか。それとも、精神の極限状態が見せる一時の幻影か。しかし、因徹は、そのとき、朦朦たる香気が鼻孔を擽るのを、たしかに感じたのだった。
 因徹は静かに目を閉じた。

                   ∴

 俗に云われる「吐血の局」を並べるとき、私はいつも曰く云い難い情念が胸を痛めるのを感じる。丈和の幽玄なる「三妙手」に感嘆するのとも、丈和の力でねじ伏せるような豪腕にカタルシスを覚えるのとも若干違う、ある種のどうしようもない悲哀のようなものをどうしても感じずにはいられないのだ。白百二十の手を初めて盤上に並べたとき、私は一瞬不意を突かれたような奇異の念に打たれたのを覚えている。直前の白百十八からのハザマトビ。通常、このようなハザマ打ちは形があまりよくないと云われる、それだけに運用が難しい打ち方である。もちろん、後から振り返れば、この局、この場面にあってはこの一手以外考えられない、会心の勝着であることは疑い得ない。とはいえ、初めてこの一手を見たとき、私の目には、この手があまりにも、あまりにも飄々とした、少年のように無垢な印象を与えた。一人の人間を打ち殺すには、あまりにも不器用かつ純なように見えて、それが奇異に映ったのである。この白の一手によって、黒石は事実上崩壊し、黒番の因徹は二百十六手をもって投了、そのまま血を吐いて盤側に倒れたという。
 抜き差しならない修羅の場において、なぜこのような、蒼穹を思わせるような軽やかな、とはいえまた一方では不器用にも見える手が打てるのか、しかもそれが勝着であるならばなおのことに。しかし、人間を殺すとは、他者を殺すとは、このようなことではなかったかと、ふとそのように思った。その一手は確かにあまりにも不器用ではある。しかし、そこにはやはりある種の「形」があるのだった。
 
 本因坊丈和の幼年時代は謎が多い。それは本人が己の過去を語らなかったからだ。しかし近年の大沢永弘による研究によって、だいぶ詳らかになってきている。
 丈和は天明七年、伊豆の木負村、五十集商葛野七右衛門の後妻の子で次男として生まれたという。五十集商とは一言でいえば魚商人である。生家の隣に日蓮宗長福寺の庫裏があり、そこの住職に碁を教わった。家業を七歳年上の長男が嗣ぐことになっていたので、次男であった彼は江戸に連れて行かれ棋士の道を歩むこととなる。
 丈和は生涯自分の出自を語ることをしなかった。その沈黙は徹底していて、丈和の三男である中川亀一郎でさえ、「亡父の生国は不明である」と漏らしていたという。なぜ丈和は己の過去について口を閉ざしたのであろうか。恐らくは、伊豆の小さな漁村で行商人の息子として生まれたことに対してコンプレックスを抱いていたのかもしれない。しかし、丈和は本当に自分の過去を完全に捨て去ったのであろうか。私にはそうは思えない。丈和の棋譜には、迫力のある豪腕やスケールのある大局観に支えられた華やかな振り替わりだけではない、何かに耐え忍んでいるような、ある種の苦しみのようなものを伴っているように思われる。盤上には今、この時しかない。しかし盤上の石は、丈和の石は、まるでもはや何処にもない故郷を探し求めるかの如く、彷徨しているようにも思えるのだった。それはやはり一種の「帰郷」ではなかったか。
 白百二十、その囚われることのない、と同時に血が流れるような一手は、丈和の故郷である伊豆の漁港、その波濤の上空を自由気ままに翔ぶ一羽のかもめのようにも見えた。それは同時に寝場所を失ったかもめでもある。だから悲しい。その波路の果てに、生家がある保証は何処にもないから。

                   ∴

 
 焼けたアスファルトの上を巨大な戦車のキャタピラが這っていく。何処からともなく怒声と銃声が聞こえてくる。道路はガラスの破片で足の踏み場すらなくなっている。鉄筋がむき出しになった建物の残骸の間から、真っ白い煙が立ち昇るのが微かに見える。
 
 1967年7月25日、この日、デトロイトの街は戦火に包まれていた。切っ掛けは数日前に遡る。23日、市内のとあるバーでは2人のベトナム帰還兵を祝うための82人もの客(そのうちのほとんどが黒人)が集まっていた。無免許営業であった。警官が突入し、店内にいたすべての黒人をパトカーで移送し終える頃には既にバーの外に群衆が集まり始めていた。群衆がやがて暴動に発展し、スーパーや日用品屋の略奪行為に走り始めるのに大した時間はかからなかった。
 もっとも、そこには単純な人種暴動に括れるようなものではない、純粋な暴力があった。

Looting and arson were widespread. Black-owned businesses were not spared. One of the first stores looted in Detroit was Hardy's drug store, owned by blacks and known for filling prescriptions on credit. Detroit's leading black-owned clothing store was burned, as was one of the city's best-loved black restaurants. In the wake of the riots, a black merchant said, "you were going to get looted no matter what color you were."
(「1967 Detroit riot」From Wikipedia

 ここには、自らの暴力性を対象化できていない、行き場を失った純粋な暴力の発現が見られる。それは、言語化し得ない無意味な「叫び」にも似た何かではなかったか。
 25日、時の大統領リンドン・ジョンソンは連邦軍の出動を認めるに至った。黒人は警官と政府軍に対して、ゲリラのようにビルに立て篭もり、ライフルを以って応戦した。以下に野田努の「ブラック・マシン・ミュージック」からの文章を引用する。

 当時のことをジェフ・ミルズは次のように回想している。「暴動が勃発したすぐ近所に住んでいたんだ。家の前には学校があったんだけど、そこにヘリコプターが到着すると、大勢の軍隊と戦車が通りを走りだした。家の窓はすべて閉めて、カーテンも閉めた。戒厳令が敷かれ、ぼくたち家族は暴動のあいだデトロイトを出るしかなかった」
(「ブラック・マシン・ミュージック」野田努

 ホワン・アトキンスとリック・デイヴィス、やがてサイボトロンを結成し、後にデロイトテクノと呼ばれる音楽を最初に地上に鳴らすことになる二人も、やはり同じ光景を見ていたのであろうか。
 正確を期すれば、少なくともリック・デイヴィスはその光景を見ていなかった可能性もある。なぜなら、当時彼は海兵隊員としてベトナムの戦地へ送られていたからだ。しかし、その意味でやはり彼も修羅の場にいた。それはまさしく修羅であった。彼が1982年にホアン・アトキンスと制作した曲「Clear」には、ベトナムの密林を焼き尽くす火炎放射器の炎と、敵=ベトコンの一掃=Clear、という明確かつ慎重に抑圧されたビジュアルが背後にあった。

「クリアー」はクラブから最も遠いところにある。同曲はあくまで、現実に対処しようと、混乱する頭をどうにかクリアーにしようとしている男の歌だ。ワシントンからサイゴンへ、ヴォコーダーを介して何が伝えられたにしろ、リック・デイヴィスはそれを遠い密林の中、自らの手で行った。キッシンジャーの言う「徹底的な」無数の爆撃によってできた空き地の中、文字どおり死にもの狂いで。「"クリアー"は軍事用語だ」とデイヴィスは言う。軍事行動に必要とされる場の確保は、村人全員の虐殺も意味する。「我々の視界をクリアーに」し、やつらの動きを一掃しろ。クリアーは機密命令。存在の改訂。人が消えた虚空。認めようとしない矛盾。空から操る白い支配者。
(「エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史」デイヴ・トンプキンズ)

 ここには、いわゆるアフロ・フューチャリズムに見られるような、ユートピア的な思考も宇宙的な思考もない。あるのは過酷なまでに荒々しい、叩きつけるような生の現実である。しかし、後のデトロイト・テクノは、それをプラネットなトラックに甘美なシンセサイザーを乗せて表現した、表現せざるを得なかったところに、私はこの音楽の異様さと凄まじさを覚える。どのような境地に赴けば、人は絶望の只中でも甘美な音楽を奏でることができるのか。

当時、リック・デイヴィスはいまだ心的外傷ストレスによる内なる悪魔と折り合いがつけられず、それになんとか対処しようとKORGヴォコーダーに頼ったのだろう。歌詞を訳してくれないかとたずねると(私には「エルサルバトル」しか聞き取れなかった)、デイヴィスは静かにフックの一節を繰り返した――「おまえを殺したくはない。でも仕方がない」
(前掲書)


                 ∴


 小林秀雄にとっての映画とは、あたりまえの「出来事」を記述することに意義があるのであって、決してそれ以上のものでもそれ以下のものでもなかった。しかし、あたりまえの「出来事」とは、往々にして演出された「劇」よりも理解し難いものがある。

 多くの観衆は、あの場面に失望した、と私は信ずる。なぜ失望したか。彼らが期待していた夢をこの場面は識ってはくれなかったからである。あんまりこれが現実の姿に、平常な現実の姿に似ていたからである。言葉を変えて云えば、日頃低劣なモンタアジュに見慣れていた彼らの眼には、この場面のモンタアジュは少々凝り過ぎていた。
 観衆は湖上の悲劇を待っていた、だが見せられたものはただ水の上の出来事であった。
(「小説の問題Ⅰ」小林秀雄

 この映画観は、そのまま後年のベルクソン論にまで通じている、ように私には思える。たとえ「出来事」という言葉が「運動」や「持続」という言葉に置き代わっても、あたりまえの現実=経験を構成する超越論的かつケイオティックな出来事性、という言語化し難い「あたりまえさ」を如何にそのまま記述するか、という基本テーマは終始一貫していた(ここには当然ドゥルーズ的なテーマとも深い共振性がある)。
 
 アニメを批評する論者は、往々にして「彼らが期待していた夢」を批評対象に投影して語りたがる傾向にあるように思える。彼らはあたりまえの「出来事」を看過する。そして批評に失望する。あたりまえである。ありまえのことが見えていないのだから。彼らには、先人が云った「記号」や「キャラクター」や「マンガ的リアリズム」といった概念しか見えていない。なるほど確かにそれらの概念は漫画に対しては有効かもしれない。しかし、漫画とアニメーションは根本的に異なった表現形態であり、その本質的差異を閑却したところに真の批評は成り立たない。そこには当然「運動」という当たり前の出来事が無視されている。

私の感じは、私がその物のうちにいるのだから、物に対して私の取る視点には依存せず、私は、その物を掴み、その翻訳は全く断念しているのだから、翻訳の為に使う符号にも、私の感じは関係ない。私の得ているものは、物の絶対的な動きである。私が、現に感じているあるがままの物の動きが、あるがままに完全であり、絶対的であるのは、ある詩の魅力が、直視されるがままに完全であり、絶対的であるのと同じ事だ。
(……)機械観は、位置に眼をつけるだけだし、目的観は秩序の方に眼をつけるだけで、両方とも、現実そのものである運動を看過する。運動は、位置やそのその秩序とは異なる。位置やその秩序以上のものとも考えられようし、以下のものとも考えられようが、決して同じものではあり得ない。
(「感想」小林秀雄

アニメを位置や秩序の次元で、つまり静的に捉えるのではなく、アニメの本来的に持つダイナミックな「動き」をそのまま掴み出してくること、これが私にとっての急務の課題となる。
 運動を直知するとは、すなわち意識が対象に働きかけることである。小林秀雄は、量子論を参照しながら、「眼と対象との間に行われるエネルギー交換の作用」と云った。確かに、人間の意識が、主体の精神が存在しない場所においては「運動」もまた存在しないであろう。であるならば、私の意識や精神に「運動」が直に働きかけ、それと同時に「運動」に私の意識や精神が直に働きかける、そのような現場を捉え記述する作業は、意識が対象に働きかけるが故にまさしく「批評」とは云えないか。すくなくとも小林秀雄はそう考えていた。
 このような運動の観点を取り入れなければ、例えば「作画崩壊」のような現象を正確に捉えることができなくなる。ここで云う作画崩壊とは、単なる作画上の技術的な欠陥のことではない。そうではなく、映像として、ラッシュとして見たときは違和感がないにも関わらず、一枚一枚の静止画として見たときに、得も云われぬ違和感を覚える、そのような種類の現象を指す。そこには、「運動」という+αが存在しない。運動という要素を抜き取った瞬間アニメーションは死ぬ。だから静止画の状態のアニメは、運動を抜き取られたアニメは、多かれ少なかれすべて作画崩壊であり、破綻している。しかし、アニメーションを破綻から救い出す「運動」もまた破綻の中からしか出てこない。動きの過剰とダイナミズムが、破綻を破綻の中で、ギリギリの地点に於いて均衡させている。その破綻の中のバランス感覚が、見る者を瞠目させるのだが、やはりそれは当たり前の、自然の出来事であり、そこにはまた当然のように「形」があるのだった。