他者、目玉、あるいは幽霊

哲学の書物は、一方では、一種独特な推理小説でなければならず、他方では、サイエンス・フィクション[知の虚構]のたぐいでなければならない
(「差異と反復」ドゥルーズ

 コルタサルに「占拠された屋敷」と題された奇妙な短編がある。或る兄妹が見えない何かによって住処である屋敷を追い出される、という筋だけ見ると得体のしれないとしか言いようがない印象を受ける。しかしだからといってこの短編を、南米特有のシュルレアリスム幻想文学の枠にはめてそれで良しとするだけで事足りるのであろうか。私はむしろ、この短いテクストの中に、ある隠蔽された殺人を、テクストを読むという行為自体に内在した密室殺人の寓意を、その紙背から読み取らざるを得ないのだ。いずれにせよ、話を急ぐこともあるまい。
 推理小説は常に己の存在根拠や、まったくカント的な意味でのテクストの超越論的可能性を探究してきたし、また推理小説ほどそのような存在根拠がある極点において不可能に至るということに自覚的であった小説形式はない。彼らは推理小説の創始者ポーが「ライジーア」で描いた不気味な目玉を、意識することはなかったが、それでも心の奥底でそれとなく直視していた。

なるほど、ライジーアの顔には古典的な美の基準にあてはまらないところがあること、その美しさがいかに「精妙」でもそこにはかなりの「奇異」なところが染み渡っていることはよくわかっているつもりだが、それでもその規格破りの本質とは何か、自分自身がそうした「奇異」をどう認識しているのかを突き詰めようとすると、たちまちつまずいてしまう。
(……)そしていよいよわたしは、ライジーアの大きな瞳をのぞきこむ。
(……)だが、わたしが彼女の目に見出した「奇異」というのは、目の形状とか色合いとか輝きといったたぐいのものではなく、つまるところ、目の「表情」にまつわるものなのである。おお意味なき言葉!しかしその単語の響きが秘める巨大な領野の裏側に埋められてきたものこそ、わたしたちの精神的なものに対する無理解であろう。ライジーアの眼の表情!
(「ライジーア」ポー)

 この「奇異」は言葉を超え出ている。私は目玉の中に或る得難い不気味なるものを直視する。しかし、私がそのような言語を超越した或る異様なものを感じ取っているときは常に、目玉の方もまたこちらを覗きこんでいる。
 恐らくは推理小説史においてテクストの自己根拠を徹底的に突き詰めた作品はクリスティーの「アクロイド殺し」をおいて他にないであろうが、そこにおいても未だこちら側を直視する目玉という存在は隠されたままであった。その意味において目玉の存在に自覚的だったのは皮肉なことに創始者のポーのみであったというべきであろうか。恐らくそうではない。私は幸いにも折原一の短編「我が生涯最大の事件」に目玉の要素を見出すことができると信じた。以下論じてみる(「アクロイド殺し」は基礎教養だと思われるので粗筋等の基本的な解説は省き、トリックも周知の上と見做す)。
 「私」という一人称による手記形式によって書かれたこの作品は明らかに「アクロイド殺し」を意識している。小説の設定とあらすじを簡単に述べると、「私」=進藤金之助は過去に起きた未解決の連続殺人事件を調査する元警官であり、小説の前半は過去の事件に関係のある記事や投書をパッチワークのように並べたもの、後半は私が当時の関係者へしたインタビューをテープ起こししたものがまとめられている。ここまでは普通の事件の調査記録といった体だが小説は終盤間近になって急展開を見せる。手記の執筆者である「私」が突然自分が犯人であったと告白しだすのである。

二十年前に起こった女子高生連続殺人事件の犯人は誰あろう、私、進藤金之助である。
(「101号室の女」所収347ページ)

 犯人は語り手である「私」だった。このトリック、というかオチ(信用出来ない語り手)は「アクロイド殺し」と同型反復であり特に推理小説的な目新しさはない。しかし話はここでは終わらない。

高橋は私を今度は仕事部屋に運びこみ、私の前でワープロに文章を打ち込みました。つまり、340ページの破線部分までは私が書いたものであり、その後は「偽物の私」が書いたものなのです。偽物は私が昔の殺人の犯人だと告白し、野辺山及び都留殺しを私がやったように創作します。
(前掲書352ページ)

 ここで驚愕の真実が明かされる。なんと、私の「告白」は高橋という真犯人が勝手に書いたもの、捏造であった。ここにおいてこの小説は「アクロイド殺し」から完全に逸脱するに至る。もはや問題は信用出来ない語り手ではない。信用出来ない語り手による最終的な「告白」という審級すらここでは失効する。なぜならその「告白」すら他者による書き換え=捏造に過ぎないからだ。
 犯人=他者によるテクストへの直接的な介入=書き換えという可能性を受け入れた瞬間からテクストの信頼性、自明性は根底から瓦解する。犯人が340ページの破線部分から348ページの破線部分を書き換えた、という「私」の記述を保証することすらできなくなるからだ(この記述すら別の真犯人によって書き換えられたという可能性を棄却することは不可能である)。ここにこそ、この小説の特異性がある。折原一は、近代文学を成り立たせている「告白」という制度の欺瞞性を図らずも看破していた。彼は、「私」という一人称による告白を、無限かつ不気味な他者による不断の侵入に置き換える。テクストは他者=犯人に向かって無限に送り返される。
 「アクロイド殺し」は一人称による告白形式であり、従って徹底的にモノローグ的である。そこに他者が介入する余地はない。一方「我が生涯最大の事件」のテクストは他者による侵食の可能性を常に孕んでおり、他者に向かって、云ってみれば他者という無限に向かって開かれている。私はこのような事象、つまり他者のテクストへの介入可能性をデリダの用語に倣って「幽霊」と呼ぶこともできる。
 この問題をオブジェクトレベルとメタレベルという二分法の問題に還元することはできない。この地点においてはそのような二分法の設定自体がもはや無意味であるからだ。幽霊は、階層的な上下方向ではなく、云ってみれば横方向に突き抜ける線を描く。
 しかし通常の読者はテクストの自明性が瓦解に至る極北の地点まで思考を進めない。大抵は高橋が真犯人だったという地点で納得し思考を止めるからである。そこでは結果的にはテクストの自明性がなお保たれたままであり、幽霊が介入してくる余地はない。ここに読み手の欺瞞性がある。他者による介入可能性を受け入れること、それはテクストの自明性を徹底的に疑うことであり、それを柄谷行人のひそみに倣って仮にデカルト的懐疑と名付けることもできるかもしれない。そしてそれを彼岸に至るまで突き詰めたところに無限という他者、言い換えれば作者の固有名が現れる。

 いいかえれば「疑う」ことには、最初から、他なるもの、他者の他者性がひそんでいる。この他者は、心理的・人格的なレベルでの他者ではない。しかし、フッサールが超越論的コギトから構成するような他者でもない。「疑う」ことには、レヴィナスの言葉でいえば、「他者の痕跡」がひめられている。一方、「思惟する」ことにおいては、それは消されてしまう。
(……)「われ在り」とは、いわば「無限の中で疑いつつわれ在り」ということである。
(「探究Ⅱ」柄谷行人

 ここにはバルト的なテクスト讃歌は存在しない。生命論的なテクストの「快楽」も、無責任かつ楽観的な作者の「死」も存在しない。逆に、テクストは無限に触れた瞬間に凍死する。福田和也の言葉を借りれば「その無限は、祝福と神と詩の偏在に彩られたロマン的な無限とは対極にある、無意味で希望も快楽もない不吉な連なり」であり、その場所は、「身体も凍り、魂も凍てついた場所である。」(南部の慰安)
 テクストへ直接介入できる犯人とは一体何者か、それはもはや作者と同じ権限を持った犯人ではないか。テクストの自由裁量を持っている時点でその犯人を作者と区別して考えることは無意味ではないか。ここに犯人=作者という図式が見えてくる。他者のテクストへの介入可能性を認めた時点で総ての推理小説は突き詰めて考えると作者こそが真犯人であるという一点に到達する。
 しかしその作者とは誰なのか。犯人が作者だとわかったところでその作者をどのように特定できるのか。ここにも「我が生涯最大の事件」と同じ問題が見られる。小説内から小説の外部へ問題が移っただけだ。つまり表紙に例えば折原一という作者名が印刷されていても、本当に折原一がその小説を書いたという保証は一切ないのだ(まさしく文字通りのゴーストライターの問題がここにはある)。
 このような小説の可能的根拠すら危ぶまれる地点において、それでは読者はその小説を読むことを放棄する他ないのであろうか。恐らくはそうではあるまい。作者もテクストも消滅した場所、小説の自明性すら根絶したような場所においてすら、それでもなお、小説を小説として成り立たしめている存在根拠、それでもなお読者を小説に向かわせるものが在るとしたら、それは、作者の「署名」、作者の「固有名」にこそ求める以外の道はない(作者の「署名」がないテクスト、例えば匿名掲示板に投稿された小説等の場合はどうなるのか(しかし匿名掲示板の場合は例えば「名無しさん」という名前が署名代わりにならなくもないとも言える)。この問題の検討はいずれにせよ避けて通れないだろうがひとまずここではおく)。読者は文字通り作者の固有名に触発される。テクストはもはや作者の固有名を映し出す透明なフィルターのごときものになり、そこにおいて読者は作者の抜き差しならない固有名とじかに対面することになる。
 テクストとは自己生成的な快楽に満ちた場所ではない。そこは空虚な場所であり牢獄であり、密室である。そこには死体がひとつある。その死体とは作者である。殺したのは読者に他ならない。読むという行為は、テクストの無限の可能性を、一つに絞り込むということであり、言い換えれば「無限」を一度殺すということである。「なお一歩を踏み超えるためには、書き、読むためには、テクストの、言葉の、「無限」を殺さなければならないのである。」(「生きている文章、死んでいる文章」福田和也
 しかし無限を一度殺したところに、言い換えれば殺された無限は、「幽霊」として、「固有名」として、密室の現場に回帰する。
 最初の推理小説、すなわちエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」は、まさに「幽霊」というテーマを批評的に扱ってみせた小説であるという点で、正確な意味で推理小説の元祖として位置附けることができる。この密室殺人の犯人は、人間であってはならなかった。なぜなら、この犯人が話すパロールは、どこの国の言語にも回収され得ない(ある証人はそれをスペイン語だと云い、また別の証人はそれをフランス語であると云う)純粋な差異として、言い換えれば無限性の象徴として提示されなければならなかったからである。
 密室殺人とは端的に云って不可能である。なぜならばそこが密室だからである(よって既存の推理小説に出てくる密室殺人はすべて不完全な密室殺人である。なぜなら密室は犯人によって、そして探偵によって常に破られるからだ)。しかし幽霊は、幽霊だけが、不可能性の可能性として、まさしくアポリアの経験として、その場所に不断に回帰するのだ。
 作者の死を、さらには「幽霊」を不可能性の可能性として受け入れること、それは読者を認識論的主体と同時に或る倫理的主体として構成することを意味している。

 というのも逆に、もし死がまさに、不可能なものの可能性であり、従って、死が、それ自体として現れることの不可能性がそれ自体として現れることの可能性であるとするなら、人間、あるいは現存在としての人間の方もまた、死それ自体への関係など決してもっておらず、単に滅びること、死亡することへの関係を、そして他者ならぬ他者の死への関係をもつに過ぎない。他者の死はこうして再び、喪の経験すなわち、私の私自身への関係を創設し、この経験を構造化する――内的でも外的でもない――差延のなかで、egoのego性と同様にあらゆるjemeinigkeitを構成する喪の経験として、「第一の」ものに、常に第一のものになる。
(「アポリアジャック・デリダ

 この引用文だけではなんのことやらわからないので補助線として廣瀬浩司による解説を引いておこう。

「喪の経験」とは、失われた他者を自己の中に取り込み直そうとする運動である。それは、私の内部の他者の死として、私の私自身への関係を創設する。到来する死者が、自己の中にすでに歓待を受けていなかったら、自己性も固有性もない。他者は、あたかも家に住みつく亡霊のように、つねに回帰するものとして現れる。しかしそれは、まったく予測不可能なときに、そのつど新たに現れるのである。言い換えれば、それは不意に現れる客であると同時に、現在の家の主人よりも古い主人として振る舞う、そのような「客」なのである。このトポロジー的な二重性ゆえに、失われた他者を自己に取り込み直そうとする喪の作業は、不可能で終わりのない作業となる。
(「知の教科書 デリダ」林好雄 廣瀬浩司

 「無限」という他者に責任を取ること、それは終わりのないプロセスとして無限に反復されざるを得ない。「読む」とは、つまりはそのような行為に他ならないのである。
 上述のコルタサルの「占拠された屋敷」は、まさしく家に亡霊が回帰するプロセスそのものを描いた寓話として読まれなければならない。また、上の議論を念頭に置いた上で読めば、そこには描かれてない一つの殺人事件が隠蔽されていることも看取されるはずである。隠蔽された殺人、それは他者の殺害であり、犯人は読者である。描かれない殺人はテクストの外部で、読者と作者という関係の次元の中で人知れず遂行される。幽霊はテクストの中に、密室空間の中に回帰する。
 最後に一つの作品を紹介したい。色川武大の「生家へ」である。

ふと眼をあけると、生家の中に自分が居る。眼の中に生家の幻が焼きついていて他のすべてを遮断し古い映画のフィルムのようにチカチカとまたたきながら、それは私の視界を覆っている。眼を開けていてもつぶってみても同じことで、自然に消えていくまで、静かな発作に身を任せるようにして、つくねんとそれを眺めているより仕方がない。
(……)けれども、生家の幻には、人の姿を見たことがない。肉親に密着するときの情念のようなものがまったく無いとさえいえる。だから私には対応のしようがない。幻が消え去ってから、そうだ、あそこは懐かしいところなんだから、というような決着をわずかにひとりでつけるのである。
 幻の八畳間には、仏壇があり、遠い棚があり、小さな庭に面したガラス障子に秋草を模した切り紙が貼ってある。天井がかなりくろずんでおり、天井版のすきまに貼った紙に雨漏りの痕がついている。そうしてかすかに黴の臭いさえ意識される。
(……)けれども、ただひとつちがうのは、誰も人の姿がない。
(「生家へ」色川武大

 なるほど確かにその生家の中には誰の人影も認められない。しかしそれは空虚を意味しない。むしろその家の内部は数多の幽霊によって、死者たちの記憶によって満ちている。
 人は何かを読むとき、常にテクストを殺しているし、殺し続けることによってしかテクストを読むという行為は成し得ない。しかし人はテクストを殺すということに、たとえ一瞬でも自覚的になることができる。テクストを殺すことを認めること、他者の死に対して責任を取ること、死者たちの声なき声に応答すること。そのような場所に立つときだけ、幽霊は常に不可能なものとして回帰する。

カリフォルニア・イデオロギー、インターネット、天皇

 今日び抽象的な「国家」という概念をポジティブに定義付けようなんて思想的試みが流行らないのもグローバリズムが世界を覆い尽くしている現状を鑑みれば当然だ。しかし国家という概念がいくら希薄化しても排外主義が無くなるわけではないしむしろ逆説的なことに排外主義は過激化していく一方であることも今更云うまでもない。ポジティブな「国家」概念が失効したところでは排外主義によってしか、言い換えれば「…でない」というネガティブな定義付けによってしか(「日本人」は外国人ではない…、「日本」は外国人がいる場所ではない…etc.)「国家」という概念を保ち得ないのだ。
 このような排外主義によるネガティブな国家の定義付けは日本においてはもちろんグローバリゼーションに依るところも大きいだろうが、しかしその根底にはおそらく敗戦後の象徴天皇制に遠因があるように思える。
 象徴としての「天皇」は、ポジティブな定義を欠いている、云ってみれば欠如体としてしか指し示し得ない。しかしだからこそ台風の目の如く、言い換えればファルスのシニフィアンとして働く。しかし、このファルスを(国民が)獲得することによってある剰余、ある残余が不可避的に生じるのもまた同時だ。これがいわゆる欲望の原因としての対象aである。そしてこの空無としての剰余を覆い隠すスクリーンとしての機能を果たすのが「空想」(ラカンのマテームでは◇と表す)である。しかしなぜファルスの獲得とそれによって生産される剰余(と空想)が排外主義を生み出すのであろうか。この点について例えばジジェクは次のように書いている。

 反ユダヤ主義はまた、ラカンが「汝何を欲するか」という問いを示す曲線の端に空想の公式(/S◇対象a)を置いた理由を、完璧に例証している。空想は、この「汝何を欲するか」という問いにたいする一つの答えなのであり、問いの裂け目を答えで満たそうとする試みなのである。反ユダヤ主義の場合、「ユダヤ人は何を欲するのか」という問いにたいする答えは「ユダヤの陰謀」、すなわち舞台裏で糸を引き、出来事を操る、ユダヤ人の神秘的な力である。ここで理論的に明らかにしておかねばならない重要な点は、空想は一つの構成物として、すなわち、<他者>の欲望の開口部である空無をみたす想像的なシナリオとして、機能するということである。
(「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク

 「ユダヤ人」という単語を「韓国人」や「中国人」に置き換えればそのまま日本の事例に適用できるだろうが、ここで注目すべきなのは上で見たような、天皇の象徴化=ファルス化とそれを排外主義という空想によって支える、という戦後民主主義体制によって構築された否定神学的なシステムが逆説的なことに現代のネット右翼の生産基盤になっている、という点である。そもそもインターネットと右翼という組み合わせ自体が矛盾以外の何物でもない。周知のようにインターネットの思想的起源は60年代におけるアメリカ西海岸のカウンターカルチャーにまで遡ることができる。そういう意味ではインターネットとは非常に左翼的だと云うことができる。しかし驚くべきことに、ここにもやはり「空想」によって支えられた否定神学システムが見出されるのだ。

 リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンの分析によれば、ネットをめぐりいま流通している言説の中心には、ひとつのイデオロギー、アメリカ西海岸に由来する「カリフォルニア・イデオロギー」が存在する。そのイデオロギーは、新右翼新左翼、ヤッピー的起業精神とヒッピー的な反体制意識、市場資本主義と共同体主義という本来ならば対立するはずの政治的契機を、「新しい情報テクノロジーが社会的解放をもたらす可能性への深い信仰」により止揚するものである。
 (……)この過程は裏返せば、1970年代以降の世界において、「情報テクノロジー」のイメージが、なによりもまず現実の敵対関係を想像的に止揚し、かつそれを覆い隠す装置、ラカン派精神分析で「幻想」(=「空想」:引用者註)と呼ばれるものとして機能したことを示している。そこでは、バークリーの死者に象徴されるもの、つまり1960年代的な政治文化運動の失速と行き詰まりという外傷(現実的なもの)が、幻想を要請したと考えられる。
(「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」東浩紀

 上の引用文では書かれていないが、カリフォルニア・イデオロギーという「空想」によっても(反ユダヤ主義の場合のように)何かが排外=疎外されているのではないだろうか。この空想によって疎外されたもの、それはインターネットというウェブ空間そのものに他ならないと私は考える。ウェブ空間、それは何処にもない空間である、であるからこそ此処にはない場所として、此処から常に既に疎外された場所として、いわば彼岸の場所として、眼の前に現前し続ける*1
 戦後民主主義もカリフォルニア・イデオロギーも空想によって支えられた否定神学システムを共通項として持っている。そして両者が一致したところにネット右翼が台頭するのだ(余談だが在特会は日本における右翼版ニューエイジ運動のように(内気な青年が会に入ってから一転活動的になる等の事例を聞くにつけ)私には思われる。積極的な定義付けが不可能になった時代において、それでも消極的に「私」を定義付けようという涙ぐましい自己啓発的な戦略がそこでは採られている)。
 このような排外的否定神学システムを超克するにはどうすればいいのか。結論から云えば、天皇を欠如としてではなく肯定性として、つまり国家元首として定義し直すこと、これである。日本国憲法の、「象徴」という、極めて抽象的かつ消極的な規定は、満ち足りた積極的な規定に取って代わられなければならない。そしてそこにこそ、全く新しい「日本」という国家の概念が立ち現れるのだ。否定神学ではなく肯定の哲学をこそ今の日本には求められている。

*1:いうまでもなくこの疎外を可能にする役割を果たすのがスクリーンという装置である。ウェブ空間はスクリーンの向こう側=彼岸に排除=疎外される。ウェブ空間は疎外されることによってはじめて「空間」足り得る、そのような逆説的空間といえる(追記:2013年1月9日)

「ゆるゆり」というセカイ系アニメと「Aチャンネル」という日常系アニメの違いについて

 「ゆるゆり」の聖地をネットで調べてて思ったけどこのアニメは聖地が日本各地に分散し過ぎではないだろうか。一応「ゆるゆり」の舞台は富山県の高岡らしいけど、回ごとに背景が千葉県になったり吉祥寺(!)になったりするようだし。この意味で「ゆるゆり」というアニメはまったく土着的でないといえる。ゆるゆりにおける土地という要素は徹底的に匿名的であり固有名の抹殺の上に成り立っている。交換可能な土地、という要素だけ見るとこのアニメは日常系というよりはどちらかと云うとセカイ系に近いように思える。といってもこういう議論は「日常系」や「セカイ系」という言葉の定義に依るところ大なのでやっぱり自分なりの(かなり自分勝手な)日常系とセカイ系の定義を予め提示しておいたほうが良さそうではある。
 自分なりにセカイ系を勝手に再定義するなら、「土地の匿名性」、「土地の交換可能性」、「(土地)の固有名の欠如」等の要素に分解してみたくなる(といってもこれもかなり一面的なのは確かだけど、とりあえず今はキャラや物語の要素は脇に置いておく)。日常系はこれの逆を行く。つまり、「土地の固有性」、「土地の交換不可能性(土着性)」、「(土地の)固有名の復権」等々。
 固有名の抹殺、つまり現今のセカイ系の構造のプロトタイプを生み出した作品は国木田独歩の「忘れえぬ人々」である。例えば柄谷行人はこの作品について次のように云っている。

ここで、主人公の大津は、亀屋という旅宿で知り合った秋山という男に「忘れえぬ人々」について語る。「忘れえぬ人々」とは、忘れてはならないような重要な人々のことではなくて、無意味などうでもいいようなものでありながら忘れられない人々のことである。それは人々というよりも、「風景」である。
 (……)風景には「固有名」がない。確かに国木田独歩は「武蔵野」という名の風景を描いた。しかし、彼がそうしたのは、名のある風景(名所)に対して、名もない風景をはじめて描こうとしたからであって、それが武蔵野と呼ばれる土地だったからではない。
(「村上春樹の「風景」」柄谷行人

 土地の固有名に関しても同じである。土地の固有名を排除したところにはじめて「風景」が見出される。「ゆるゆり」がひたすら描き続ける牧歌的な(何処にでもある)田舎の「風景」は、土地の固有名の排除の上にはじめて成り立ち得るのである。(いちおう補足しておくと土地の固有名の排除は作品内に固有名が現れないということを意味しない。むしろ逆に、「ゆるゆり」では高岡という固有名が(例えば1期の7話で)はっきりと出ている。しかしこれはセカイ系のもうひとりの生みの親である村上春樹の作品に固有名が頻出するのと同じである)
 然るに例えば「Aチャンネル」というアニメは全く以て日常系である。このアニメには土地の固有名は(ゆるゆりと違って)一回も出てこないが、しかしそこに打ち出されているのは過剰なローカル性と土着性なのだ。「Aチャンネル」の舞台は周知のように国立近辺であり、そこ以外はない。つまり「ゆるゆり」のように聖地が分散しておらず、言い換えれば遊星的、グローバル的ではなく、極めて土着的、農民的であるといえる。現実の地図にキャラクター達の行動可能範囲を当てはめて聖地を配分している、という意味で農民的なのだ。ここにはハイデガー的な意味での「生活」や「大地」のテーマが見られる(大体、多摩都市モノレールではなく京王線というチョイスがまた渋いではないか、完全に主観的ではあるけれど)。もちろん「ゆるゆり」のような牧歌的な「風景」はこのアニメには見られない。しかし、立川の高島屋に二次元美少女たちがお買い物に出かけるアニメが観られるようになるとはゼロ年代の頃には(個人的には)思ってもいなかった。逆に、セカイ系によって抹殺された固有名が土地の土着性というテーマによって復権しつつあることを最近になって強く感じるようになっている。抽象的な「他所」ではない、特異な「ここ」性だけが、その土地に名前を戻してやることができるのだ。
 おそらくはこの土着性や農民性というテーマを最初に打ち出したのは意外にも「クラナド」ではないかと思われる。この作品は周知のように、ひとつの町そのものを総体として描き出すことに物語の力点を置いている、という点でkeyの前作までの(セカイ系の)作品との間に決定的な断絶線がある。「クラナド」に見られるのは徹底的な土着性とローカル性である(そういえば東浩紀もどこかでクラナドにおける保守性、ヤンキー性を強調していた)。この意味で、「クラナド」は日常系の元祖なのだ。
 
 追記:後で色々調べたら「Aチャンネル」にも一部中野や武蔵小山のカットが入ってるようですね…(江ノ島は話の流れ的に問題なしとする)。