noteにダークウェブについて書きました

note.mu
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ところで、これは記事の内容とは直接関係はないのだが、グーグルでダークウェブについて検索してみたら、どこかのニュースサイトの記事に行き当たり、そこではダークウェブについての、「危険!」だとか「絶対に近づいてはいけない!」といった仰々しい警鐘コピーが連なっていて、思わず苦笑してしまうのだった。
執筆者はどこかのサイバーセキュリティ会社の社長で、自身でダークウェブについての著書も書いてるようだった。私はその著書を読んでいないが、その記事では、ダークウェブがいかに危険な空間であるかを声高に煽り立てており、例えばダークウェブでは「ハッキングツール」や「銃器」が普通に売買されており、アクセスしただけでマルウェアに攻撃されることもあるので、決してアクセスしてはならないそうだ。私はその方面には不案内だが、しかしTorを使用していてマルウェアに攻撃されたことは一度もない。
しかし、その記事の筆者がサイバーセキュリティ会社の社長で、記事の終わりに、「こうした犯罪から身を守るには、企業であれば万全なサイバーセキュリティー対策への投資を惜しまない経営判断が求められます」といった文章がしれっと挿入されてたりするので、要はよくある「売らんかな」精神の発露の下この記事が書かれたと考えれば自然ではある。
つまり、彼らにとっては、ダークウェブはなるべくブラックボックスにしておくことが望ましい。そこが危険な空間であるという印象を吹き込んだ上で、近づいてはならないと警鐘を鳴らし、返す刀で自社のセキュリティソフトをちらつかせる。商法としてはスタンダードだ。
彼らが言いたいことはただ一つ。「我々はダークウェブから攻撃を受けている、よって防衛しなければならない」。
こう書くと、なんだか昨今の日本海界隈の情勢を思わせるようで若干笑えないのだが、このような言説による大衆操作は実際至る所で行われている。
彼らの戦略の要諦は、指し示しながら隠す、あるいは隠しながら指し示す、という二重の身振りにある。指し示した対象を「謎」や「禁忌」として覆い隠すことによって、ある「恐怖」という感情のもとに一定の集団を組織し、方向付け、動員する。
したがって、上にリンクした二つの記事はそうした体制に抵抗するために書かれた。抵抗とは「暴露」であり、覆いを取り除くことである。
もちろん、私がダークウェブについて知っている範囲はごく限られたものでしかないし、また叙述がジャーナリスティックなものに流れすぎた嫌いはあるが、とはいえそこに書かれていることは端的な事実でしかなく、つまりそこにはありふれた退屈さしかない。言い換えれば、内容はいかにジャーナリスティックであれ純粋に批評的なアプローチで書かれている。