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汚辱に塗れた獣たちの…… ――『ズートピア』試論

アニメ 批評

こうしたあいまいで、冗長かつ不完全な記述は、フランツ・クーン博士が『支那の慈悲深き知識の宝典』に見られると指摘している記述を思い起こさせる。はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で防腐処理したもの、(c) 訓練されたもの、(d) 乳離れしていない仔豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) はぐれ犬、(h) 上記の分類に含まれているもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 数えきれないもの、(k) ラクダの毛で作ったきわめて細い筆で描かれたもの、(l) など(エトセトラ)、(m) つぼを壊したばかりのもの、(n) 遠くからだとハエのように見えるもの。

――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ジョン・ウィルキンズの分析言語』

 

それでは、さようなら。わが友である読者諸君、家に帰って、檻に入り、しっかり扉を閉めて、おやすみなさい。よい夢を見て、ではまた明日!

――J・J・グランヴィル『動物たちの私生活・公生活情景』

 

It's called a hustle, sweetheart.

――zootopia

 

 セクシュアリティ、というファクターが、それが例えば先天的な肌の色や人種といった諸ファクターと異なり外的な姿形との乖離をしばしば伴い、また往々にして後天的かつあるいはミシェル・フーコーが『性の歴史 一巻』で指摘したような意味において想像的ですらある、といったような不可視性や揺らぎを内包しているというかくも単純な事実を、アナ雪LGBT論争は端的に示している。

 『アナと雪の女王』の劇中歌「レット・イット・ゴー」が、海外のアナ雪ファンの間でしばしばレズビアニズムやアセクシャリズムを肯定する歌として解釈されるという現象自体が、そもそもが解釈に揺らぎを伴うセクシュアリティという概念の不安定性に依るものでもあろうが、本稿ではアナ雪LGBT論争にはこれ以上立ち入らない。代わりにここで採り上げたいのは『ズートピア』である。

 とはいえ、その前に前提知識をあらかじめ共有しておくべきだろう。まず、これまでディズニーアニメ(ピクサーをそこに含めてもよい)はセクシュアリティに対する意識や配慮に極めて消極的であったという事実の確認。これは例えば、ディズニーにおける人種に対するポリティカル・コレクトネスへの配慮を考えてみると、近年の『プリンセスと魔法のキス』や『ベイマックス』を参照すれば明らかなように、明確にセクシュアリティよりも進歩的に描かれている。翻ってセクシュアリティの扱いに視線を移してみると、例えば『プリンセスと魔法のキス』や『塔の上のラプンツェル』が、性役割に対してやや脱構築的な試みも見られるも結局は王子様とお姫様が最後に結ばれるといった保守的なヘテロセクシャリズムに体よく収まっていることは否めない。この構図は『アナと雪の女王』にも実は当てはまっているのだが、エルサという特異なキャラクターの存在が、セクシャル・マイノリティという概念を図らずも作品内に異物のように混入してしまう。しかし、このことは前述したように解釈多様性や揺らぎといったセクシュアリティの本質性に由来するものでもある。

 前置きが長くなったが、要はディズニーアニメはかつて(特に近年)多様な人種を描いてきたが、それに反して性は二種類(すなわち男/女)しか描いておらず、そしてそれは『ズートピア』でも反復されているように見える、ということである。

 『ズートピア』は人間社会の差別構造を描いた寓話であるとされる。ところが、本作では(共同監督の一人であるバイロン・ハワードがゲイである、という事実にも関わらずというべきか)性差別的な寓意は表立っては現れてこない。それどころか、性関係そのものがほとんど描かれていない。ジュディとホップは、解釈の余地は残されているものの、ラストまで「友情」の関係を維持したまま終わる。もちろん本作がディズニー王道のプリンセスものに反するジョン・ラセター以降のピクサー系統に位置付けられる作品であることを考えれば違和感はさほどないどころかむしろ自然ですらある。しかし、ラストの二人が交わす会話は解釈を誘発させるだけに、かえって両義的な曖昧さを際立たせている。この性関係の慎重な排除とそれに反する解釈誘発性については改めて後述する。

 本作が扱っている差別の寓意が概して人種問題に限定されている、ということは一見して明白なようにも思える。キツネのニックは明らかに黒人の象形である。ニックが発し、やがて作品全体の通奏低音のようにニックとジュディとの間で反復される”It's called a hustle, sweetheart.”という台詞における”hustle”という語は、元々は「精力的活動」程度の意味だが、転じてストリートで生き抜くための金儲け(日本語字幕では「詐欺」となっていた)を指すスラングとして主に黒人の間で使用され、HIPHOPのリリック等にも頻出する。

 ニックは過去にジュニアレンジャースカウトにおける誓いの儀式の際に他の動物から口輪をはめられるというトラウマを持ち、以来「キツネ=嘘つきでずる賢い」という種族的偏見に自らアイデンティファイすることでストリートでhustling=生き抜いている。ここでさしあたり問題になっているのは、言うまでもなく種族間の差別である。ところが、物語後半、具体的にはジュディの記者会見以降になると、「キツネは肉食動物なので草食動物を襲う」というまったく別のタイプの偏見にニックはアイデンティファイしはじめる。ここには「種族」というカテゴリーではなく、「肉食/草食」という新たなカテゴリー分類が出現している。この、カテゴリー=ロジカルタイプの移動を端的に象徴するあるキーアイテムが存在する。それはもちろん「口輪」である。ジュディとロープウェイに乗るシークエンスで、ニックは幼少期を回想し、前述のように草食動物たちの仲間(ジュニアレンジャースカウト)に入るさい宣誓を誓う段になって口輪を嵌められたというトラウマが明らかになるのだが、「肉食/草食」という対立が明らかになっていないこの段階では、口輪はもっぱら「嘘つきのキツネ」の口を塞ぐという文脈で用いられている(例えばニックに口輪を嵌める動物のうちの一人の台詞は”You thought we could ever trust a fox without a muzzle? You're even dumber than you look!”で、ここでの主題はもっぱらキツネを巡る「trust=信用」に関わっている)。つまりこの段階ではニックはあくまでキツネという種にアイデンティファイしており、口輪もその文脈で出てくる。ところが、肉食動物凶暴化事件後のジュディの記者会見の場面において、ニックはもう一度フラッシュバックによって「口輪」の光景を再度思い出す。しかし、ここでの口輪はもはや「嘘つきのキツネを口を塞ぐ」という文脈における口輪ではなく、むしろそのままの意味、すなわち「肉食動物が他者に襲いかからないように口を塞ぐ」という文脈における口輪に変化している。

 

Nick Wilde: The kind that needs to be muzzled? (……)So l-let me ask you a question; Are you afraid of me? You think I might-I might go savage? You think that I might try to...EAT YOU?

 

 上に引用した台詞は記者会見後のジュディとニックのやり取りの一部だが、やはりmuzzle=口輪が「信用」ではなく「食べる」という主題の周りを巡って用いられていることがわかる。つまり、口輪というアイテムによって意味されているものが二つのシーンの間で巧妙に変化している。そして、恐らく大半の視聴者はこのミスリードに気づかない。もちろん、これは構造的なトリックとしか言いようのないもので、恐らくここに本作品最大の詐術=hustleが存在している。

 この構造的なギャップ、ロジカルタイプの作為的な移動は何を意味しているのか。ニックはあたかも「キツネ」という自らの出自であるところの種を放棄し、代わりに突如出現したまったく新しいカテゴリーである「肉食動物」という上位カテゴリーにアイデンティファイし始める。すなわち、もはや種族間差別、つまり人種差別の寓意ではなく、まったく別の事柄、問題、寓意が語られようとしているのではないか。

 事実、「肉食/草食」という新たな二項対立が打ち立てられて以降、あたかも作品全体がこの「肉食/草食」という巨大な二項に回収されていくかのようである。そこではもはや、ズートピアに住む多種多様な種族、また『シュガーラッシュ』直系ともいえるズートピアの世界観を特徴づける多元的なエリア等の設定それ自体が超越的な二項のもとで失調もしくは機能不全を起こしているような印象すら受ける。端的にいえば、なぜ多様な種族という魅力的な設定を機能不全に追いやってまで「肉食/草食」という超越的な二項対立が導入されなければならなかったのか。それがここでの新たな問いとなる。

 まず最初に検討すべきは、この「肉食/草食」というカテゴリーも、また何らかの隠喩ではないか、という点である。咄嗟に思いつくのが、この「肉食/草食」というカテゴリーはジェンダー、すなわち「男/女」にそれぞれ対応する隠喩なのではないか、という仮説。確かに肉食動物が草食動物を襲うという構図は、男性が女性をレイプするというステロタイプジェンダー構図を想起させるものであるし、特に我々日本人にとっては肉食系/草食系というカテゴライズは既に一般通念として浸透している。

 とはいえ、このような視座に立ったときに発生する新たな問題は、仮に『ズートピア』が裏テーマとしてジェンダーを巡る対立と偏見を寓意的に描いてるとしても、そこにはやはり「男/女」という、(たった)二つのジェンダーしか現れてこないという意味で、セクシュアル・マイノリティが描かれていない旧態依然の保守的なディズニーアニメを抜け出ていないという評価にしか行き着かないという点にある(例えこの暴力的な二分法が、作中における保守的な副市長が捏造したフィクションであるとしても、である)。

 加えて、「肉食/草食」という上位カテゴリーをジェンダーのそれの隠喩と解釈した場合、包摂関係にある種という下位カテゴリーと不可避的にコンフリクトを起こす。どういうことか。

 すべての種はいずれも肉食か草食に分類できる、という意味で「肉食/草食」は種の上位カテゴリーとさしあたり定義できる。しかし、「肉食/草食」をジェンダーと解釈した場合そのような階型は崩れてしまう。例えば、「ウサギは草食に包摂される」という命題は成立可能である。ところが、「黒人は女に包摂される」というテーゼは成立不可能である。なぜなら黒人には男も含まれているからである(すべての黒人が女であるとは限らない)。すなわち、「キツネは肉食である」という主語(特殊)―述語(一般)関係、言い換えればキツネ(特殊)が肉食(一般)に包摂されるという論理構造は、黒人と女の間にあっては成り立たない。というのも、ジェンダーは種の上位カテゴリーではなく、それぞれ別のロジカルタイプであるからだ。

 それでは、種の上位カテゴリーである「肉食/草食」という二分法が「男/女」の隠喩であるという見立てはやはり誤りだったのであろうか。その可能性ももちろんある。しかし、序盤、ズートピア警察署の受付担当クロウハウザーがジュディに投げかけた”cute”という単語を巡ってやり取りされた会話を思い出してほしい。”cute”と言われたジュディはクロウハウザーに向かって、「それはウサギという種全体を侮辱する言葉だ」というような含みを持った返しをする。

 

Clawhauser: O. M. Goodness, they really did hire a bunny. Ho-whop! I gotta tell you, you're even cuter than I thought you'd be.

Judy Hopps: Ooh, ah, you probably didn't know, but a bunny can call another bunny 'cute', but when other animals do it, that's a little...

 

 確かにこの作品にはウサギに向かって”cute”やらバニーガールを想起させる”little bunny”等の侮蔑語(?)が多数発せられるが、これらが人間社会において侮蔑語として機能する文脈は、大抵、男が女に向かって投げかけた場合に限る。つまり、ここには純粋にフェミニズム的な文脈が横たわっていると解釈することができるだろう。ところで、それらの言葉に対してジュディはウサギという「種」を代表して「ウサギという種に対する侮辱だ」と返す。ということは、つまり、この世界においてはウサギという種それ自体がある意味で「女=メス」というジェンダーを表象しているということにはならないか。この場合、先ほど検討した論理構造はまったく様相を変えてくる。すなわち、「ある種(特殊)は女(一般)である」という、一見錯乱したようなテーゼが可能となる……?

 ここでは一体何が起きているのだろうか。寓意はもはや現実に対応する論理構造を持たず空回りを始めている。言うなれば、『ズートピア』がもはや寓話ではない、寓話の域を逸脱したひとつの自律したフィクション世界として立ち上がってくるかのようでもある。

 もしかしたら、ここにこそ本作品におけるもっとも暴力的な詐術=hustleが働いているのかもしれない。なぜなら、もちろんズートピアにおけるウサギにはオス=男も端的な現実として存在しているからである。そこで生活する男=オスは「女=メス」という表象の下に抑圧されており、もちろん同様に「男=オス」という表象の下に抑圧されている女=メスも同時に存在しており……。斯くして、ズートピア世界の中に、それも「男/女」という二分法の只中に突如してセクシュアル・マイノリティの如きものたちが立ち現れる。それは、さながら抑圧の下に生きられた汚辱に塗れた獣たちの生=性のようでもあり……。

 フーコーセクシャリティを権力的言説の布置によって決定される事後的なものであると指摘したが、『ズートピア』はまさしくそのような事態を的確に描き出している、といえる。「肉食/草食」という二項はDNAというある種もっとも超越論的なファクターによって決定づけられているがゆえ、一見セクシュアリティとは反するようだが、逆説的にもDNAはもっとも内奥ないし不可視的=微視的であるがゆえに、副市長による策謀とジュディの記者会見という言説的布置が「肉食/草食」という二分法を可視化させるために要請されたのであった。前述の”cute”を巡るジュディの発言からもわかるとおり、「草食=女/肉食=男」といった二分法は既に無意識のうちにズートピアの住人に根付いていたのであるが、それが意識上に可視化されるためには記者会見という公の場において再度発言される必要があったのも、権力的言説の布置がいかにセクシュアリティの領域において作動しているかの例証となる。

 「女」という表象のもとに抑圧された男、それは例えばトガリネズミのミスター・ビッグであり、ナマケモノのフラッシュであり、またボゴ署長であり……。彼らは皆ファルスを去勢されているという点で共通している。ボゴ署長とミスター・ビッグにおける権力と力への意志は一種の去勢への反抗であろうし、フラッシュにおける車(ファルス!)とスピードへの意志も同様である。

 もっとも、このような解釈も、「肉食/草食」をジェンダーと解した恣意的な見立てを前提としているという意味で、解釈の悪循環に陥っているという批判もあるであろう。だが、我々が議論の出発点において確認したように、セクシュアリティとはそれ自体解釈を招来するものであって、いわば「隠喩としての病」なのである。その意味で、『ズートピア』は『アナと雪の女王』に見られたセクシュアリティの解釈多様性をさながら作品構造それ自体に転化させているかのようでもある。「種」と「肉食/草食」という二つのロジカルタイプのギャップに開けた深淵、その闇こそがセクシュアリティの隠喩に他ならない。

 物語ラスト、「肉食/草食」という言説体制が崩壊した後、ということは同時にセクシュアリティという隠喩が崩壊した後、まさしく「性関係は存在しない」空白の中間地帯が開ける。そこにあって、彼らはまた新たにセクシュアリティを、さらに言い換えれば愛を打ち立てる必要があった。それは常にやはり、他者の言葉=言説によって招来される必要性があった。つまり……

 

Nick Wilde: You know you love me.

Judy Hopps: Do I know that? Yes, yes I do!



※なお、本稿中における台詞の引用は主にhttp://www.imdb.com/title/tt2948356/quotesを参照