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日記3 (2015.10.30)

2015年10月30日

 シャマランという偉大な「天然」を前にどのような批評をしたところで「天然」といういかなる批評をも飲み込みかねないブラックホールを前には無力なのではないか、というシャマラン映画に向き合った時に常に覚える諦念感。今作においてもPOVやスリラーを脱構築しようなどという賢しらな意気込みは一切感じられない。肝心のオチも、オチとすら呼べないような本当に無意味などんでん返し。しかし『サイン』に見られたようなオフビート(という形容も正確なのか定かでないが)な感性が好きな向きには『ヴィジット』は文句なしにお勧めできるくらいこの作品でのシャマランはボケ倒している。この「ボケ」というのはウィットでもなければヒューモアでもアイロニーでもない、まさしく天然のみに特権的に許された「ボケ」としかいいようのないものであり、シャマランを「天才」でも「奇才」でもなく「天然」監督と形容したくなる理由はここにある。
 とにかく『ヴィジット』はとても変な映画でシャマランは本当に何も考えずに好き勝手に撮った可能性もあるが、この作品にテーマと呼べるものが存在するととりあえず仮定するなら、「本物」と「偽物」、そして両者を取り巻く「許し」という三本柱のテーマを取り出すことができると思う。「本物」と「偽物」についてはネタバレが絡んでくるのでここでは「許し」のテーマについて主に論じる。まずこの映画には主人公兄妹とその母と祖父母という血の繋がった三つの組が出てくる。この兄妹/母/祖父母という三代に跨る構造の中でとある「許し」が受け渡されるのだが、シャマランはどういうわけかラストでこの構造を脱臼させてしまう(ここで「本物」と「偽物」というネタバレ的テーマが絡んでくるのだが)。この構造の脱臼によって兄妹/母/祖父母という三つの層は厚みを失われ薄っぺらになり、さらに「許し」の受け渡しも(原理上は)なし崩し的に不可能になってしまう(ここらへん、ネタバレを避けて説明するのが難しいのだが)。しかし、実際はどういうわけか「許し」の受け渡しは(事実上は)成されているのであり、ここがこの映画の凄いところ(であると同時に釈然としないところ)と言えるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、物語の中盤、主人公の姉は祖母から母がかつて行ったある罪に対する「許し」を引き出す。この時点で「許し」が祖母から孫へと受け渡されているのだが、オチを知った後だとこの「許し」の引き出しは原理上あり得ないことがわかる。しかし映画上では実際に「許し」の引き出しが行われている。この矛盾的事態をどのように説明するか。ここで重要な鍵となるのが主人公の姉が言う「万能薬」という言葉である。彼女の言う<万能薬>とは相手から「許し」を引き出す上での話法上のとあるレトリックのことであり、そのレトリックとは一言でいえばある固有の出来事を一般的かつ普遍的な出来事に置換することでありもっと言えば神話化でありフィクション化である(「あるところに女の人がいました…」)。そのようなフィクション化を行った上で相手にも同じフィクションを共有させ「許し」を引き出す(「あなたがもしそのような立場だったらどうしますか?…」)。この<万能薬>によって主人公は見事に祖母から「許し」を引き出すことに成功する。
 ここにはもしかしたらシャマランの、映画を含めた総てのフィクションに対するある種の態度表明があるのかもしれない。つまり、フィクションを通じて人は何かに対して「許し」を与えることができるし、もしくは「許し」を受け取ることができるかもしれない、ということである。もちろんシャマランはそんなことをまったく考えていない可能性もある(なにせ天然だし)。が、そのようなメッセージをこの映画から図らずも受け取ってしまった以上、私はこの映画に1800円払ったことに対してシャマランを「許す」ことができる、と言えなければならない。