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『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』私的私感

アニメ

 アニメーションとは魔法である。なんという単純なアナロジー。なんという分かりやすいメッセージ。しかし、内容と形式が完全に一致したとき、すなわち、アニメーションとは魔法である、というメッセージをまさしく魔法のような完璧なアニメーションによって提示されたとき、我々はそのあまりにも単純かつ強度を湛えた真理を前に言葉を失うしかない。今どき、アニメーションに対してこれほど誠実かつ子供心を忘れずに向き合って制作している人たちと、それを支える(主に海外の)アニメファン層が存在する、という事実にも救われる気持ちがする。
 だが、それと同時に、というかそれがゆえに、このアニメにはある種の「捻れ」とでもいう他ない要素が不可避的に貫入しているようにも思える。それは、これまであまり指摘されなかった「人種」という要素である。前作の無印版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『LWA』)では人種という要素はほとんど表に出てこなかった、というか私は今作によって何気に初めて主人公のアッコが日本人であるという設定を知った。物語中盤、パレードに向けて準備中のアッコに向かってダイアナが以下のような揶揄的な台詞を放つ。「東洋の島国から来たミーハー魔女のくせに」。この言葉に対してアッコがどのような言葉を返したのかはよく覚えていないが、それにしてもこの台詞はちょっと衝撃だった。思えば序盤に映し出される教室風景でもクラスメートに黒人の少女が混じっていたが、そのときは『LWA』がモチーフとしているカートゥーン的な意匠の一つに過ぎないのだろうとあまり気に留めることもなかった。しかし、恐らくそれだけではないのだ。監督の吉成曜含めた製作者たちは、たぶん意図的に「人種」というファクターを今作『魔法仕掛けのパレード』に忍び込ませた。つまり、日本人である我々が主にディズニーアニメからの技術輸入に拠った、すなわちアメリカを出自とするアニメーションを制作するというのはいかなる行為なのか、という所謂<ジャパニメーション>の起源と出自に差し向けられた問題意識がそこにはある。(ガイナックス時代からすでに顕在化していた)『LWA』におけるカートゥーンアニメ的な意匠も、恐らくこの問題意識と無関係ではない。「東洋の島国から来たミーハー魔女」とはまさしく吉成曜(と彼を含めた製作者たち)自身のことであり、そしてこのミーハー性を作り手自身が意識することは、図らずも<ジャパニメーション>といういささか奇形的な表現形態の隠された始原を明らかにすることでもあった。言い換えればそれは端的に言って、日本/アメリカという対立項をふたたび自分たちの中に内包させることをも意味している*1
 話を急ぎ過ぎた、いや、急ぎ過ぎていないか。話を少し変えよう。無印版『LWA』は、幼少時のアッコが親に連れられて観に行った魔女シャイニィシャリオのショーで魔法の魅力に目覚めるシークエンスから始まる。若手アニメーター育成事業『アニメミライ』に出品されたこの作品が、若手アニメーターが「魔法学校」であるところのアニメスタジオに入って修行する、という一種のアニメ業界的寓話=メタアニメとして作られたということはこれまで散々言われてきた。それでもなお、このオープニングのシークエンスに限っては、これは吉成曜の私的体験がベースになっているのでは、と思わずにいれない。吉成曜は恐らく幼少時に親に連れられて映画館でアニメ作品を、それもたぶんディズニー映画を観たに違いない。それが一種の原体験となり、吉成曜がアニメ制作を行う際に常に立ち戻ることになる定礎として機能しているのではないか(もちろん以上のことはすべて私的な妄想であり事実とは異なるかもしれない、あしからず*2)。少なくともそのように考えれば、『LWA』における日本/アメリカという分裂と葛藤がより腑に落ちるものとして理解されるのではないか。
 もう少しアニメ表現面にも目を向けてみよう。『LWA』のキャラデザは非常にカートゥーン的(『LWA』におけるカートゥーン性がもっとも際立っているキャラは言うまでもなく『魔法仕掛け』に出てくる市長であろう、というかどう見てもタウンズヴィルの市長にしか見えないのだが…)と言っていいが、例えば『魔法仕掛け』の中盤でアッコたちと悪ガキが乱闘になるシーンは、殴る蹴る等のアクションひとつ取ってもジャパニメーション的なリアリズム表現に貫かれており、アメリカのカートゥーン的なデフォルメ暴力表現とはかけ離れている。すなわちここにも日本/アメリカの分裂と混合がある。
 『Kickstarter』による海外アニメファンからの出資によって、海外のアニメファンに向けて自分たち日本人がアメリカ的カートゥーンスタイルでジャパニメーションを作る、という捻れ構造が『魔法仕掛け』でより一層明確になると同時に、吉成曜と製作者たちもそのような構造をより鮮明に意識するようになった、せざるを得なくなった。もちろん『LWA』には所謂「クールジャパン」的な驕りは一切存在しない。むしろ、唯一の日本人であるアッコは一貫して魔法学校内の落ちこぼれとして描かれていた。しかしそれでもアッコは日本/アメリカという葛藤と分裂を生きながら仲間と力を合わせてパレードを成功させる。ここにこの作品の感動がある。
 とはいえ以上に示した捻れ構造は、何も『LWA』に限った話ではなく、今のジャパニメーション全般に当てはまる普遍的な構造である。というのも、例えカートゥーン的見かけでなくとも(つまり萌えキャラ的見かけであっても)、日本がアニメーションの技術をアメリカのディズニー映画から輸入してきたという歴史的構造は不変だからである。
 急いで付け加えておけば、今のジャパニメーションはアメリカに回帰するべきだとか、海外のアニメファンにもっと媚びを売るべきだ、というようなことが言いたいのではもちろんまったくない。そうではなくて、日本/アメリカというジャパニメーションが原初において抱えていたはずの二項対立を、さも初めから無かったかのように慎重に除去=忘却した上でジャパニメーションが制作され、あまつさえそれが日本独自の文化であるかのように振る舞いしかもそれが「クールジャパン」などと海外から持て囃されているのだとすれば、それは端的に言って欺瞞以上の何物でもないのではないか、ということが言いたいのだ。そのような意味において、『LWA』はジャパニメーションの始原に立ち帰り、日本/アメリカという二項対立をふたたび自分たちの内部に取り込むと同時に、アニメーションとは魔法である、というアニメーション本来の身も蓋もないくらいの(だからこそ簡単に忘れ去られる)<本質性>を極上のエンターテイメントと共に提示し得た、非常に稀有な作品だと言えよう。

*1:この、日本/アメリカという分裂はいわゆる日本語ラップにも当てはまる。つまり、黒人発祥の音楽であるヒップホップを黄色人種である我々日本人がやるというのはどういうことなのか、という問いであり、BUDDHA BRANDやさんピンCAMP以後の日本語ラップはこの問いを中心に旋回しながら発展してきた。

*2:この文章を書く上で『アニメスタイル003』の吉成曜ロングインタビューを一応読み返してみたのだが、やはりと言うべきか幼少時のアニメーション体験については一切語られていなかった。もしかしたらある種の心理的抑圧が働いているのでは、と穿った見方もしてみたくなるが…。