東映という<制度>を自分でブチ壊してみせた高畑勲

 白状すると僕は今の今まで高畑勲という存在にまったくと言っていいほど関心を持ってなかったし、『となりの山田くん』も『おもひでぽろぽろ』も観てない自分に、高畑勲について語る資格がそもそもあるとも思えないのだけれども、それでも何かを書かなければならないと思った。もちろん『かぐや姫の物語』を観たからだ。

 『かぐや姫の物語』は極めて実験的な作品である。その実験性は特に作画において際立っている。『かぐや姫』の人物造形・作画設計を担当している田辺修はインタビュー記事で以下のように語っている。

田辺:今回は、自分の描いた修正、原画の方が描いた線、小西さんの作監修(作画監督による修正画)、動画の方が描いた中割と、複数の人の絵柄が1カットの中でそのまま使われています。
インタビュアー:えっ?どういうことでしょうか?
田辺:通常、原画や作監修は全て動画がクリーンナップして中割して完成させますよね?
インタビュアー:はい。映画の実際の画面に現れるのは全て動画の方が清書・統一した線画で、原画や作監修正の元絵そのものは残らないですね。
田辺:『山田くん』でも今回に近いやり方だったのですが、さらにもっと、いろんな人が描いた線をほんの一部でも生かそうとしています。つまり、原画さんの絵と小西さんの修正が混ざっているわけです。小西さんの作監修は、首から上だけとか、部分的な修正でも、そのまま使われているんですよ。
インタビュアー:ということは、1枚の動画を複数の人が描いているということですか?
田辺:顔だけが小西さんの線で、髪の毛が動画の方の線、そして首から下が原画の線だったりするということですよ。(中略)レイアウト時に描いた私の修正も、そのまま(完成画面に)使われていることもあるんですよ。
(『かぐや姫の物語 ビジュアルガイド』)

 
 レイアウト→レイアウト修正→原画→作監修正→動画(クリーンナップ)という作画工程は、欧米とは異なる「日本型作画システム」であり、これは主に作画監督による原画の一極集中管理を容易にすることを目的に、東映動画が60年代に確立したシステムであるということは、他ならぬ高畑勲自身が『60年代頃の東映動画が日本のアニメーションにもたらしたもの』*1という文章の中でも書いている。このシステム下においては、全ての原画は作画監督のコントロール下に置かれ、さらに最終工程である動画マンによるクリーンナップ以外の線はオンエア時の画面には現れない。60年代に東映動画が先駆者としてこのような日本型作画システムを敷いて以来、現在まで日本アニメはこのシステム=制度を強固な前提としてきた。「してきた」、と過去形で書いたのは、高畑勲が、それも60年代の東映動画と密接に関わってき、日本型作画システムの確立にも多かれ少なかれ寄与してきた考えられる高畑勲自身が、先日公開された『かぐや姫の物語』においてその日本型作画システムをあっさりと放棄してしまったからだ。
 『かぐや姫』で行われた実験は、端的に言えば「クリーンナップ」という作画の最終工程に置かれていた作業の除去に他ならない。レイアウト、ラフ原画、原画、作監修正等によってそのつど引かれてきた多様な線を、最終的に一本のただひとつの線に引き直すクリーンナップという作業は、それ以前の工程の線を抑圧、さらに強く言えば圧殺する作業であると言える。いや、それを言うならば作画監督による修正はそれ以前の原画マンが引いた線を抑圧しているし、原画とレイアウトの関係も多かれ少なかれそのようなものだろう。問題は、クリーンナップを頂点とするヒエラルキー構造なのだ。
 再度先に引いた田辺修のインタビュー記事に立ち戻ろう。「顔だけが小西さん(作画監督)の線で、髪の毛が動画の方の線、そして首から下が原画の線だったりする」という『かぐや姫』における作画スタイルは、各々の作業過程における線を並列的に画面上に表出させることで、クリーンナップ→作監修正→原画というヒエラルキーを壊乱し脱臼させ、さらには東映が築き現在のジャパニメーションが無批判的に前提としている日本型作画システムをもなし崩しにしてしまう効果を内にはらんでいる。
 
 『かぐや姫』における作画、それは言うなれば、レイアウト→レイアウト修正→原画→作監修正等の作画プロセスによって構成されているすべての地層が、横から見た時の断面図のようにではなく、俯瞰の視点から見た状態で可視化されているような作画である。それまで抑圧されていた「痕跡」としての線が、一斉に表面に露呈している。抑圧されていた線とは、言ってみれば「無意識下」の線だ。それは、意識=クリーンナップにより排除されていた「ノイズ」のようなものであり、または「幽霊」のようなものでもある。
 高畑勲は、一つのシーンにおけるもろもろの要素がまとまった状態を「感じ」(ニュアンス)と表現している。『かぐや姫』における「感じ」とは、無意識下からマグマのように沸き出てきたノイズでもあり幽霊でもあるような多様な線が、それぞれ「個」として自立しながらも他の線と戯れつつ共生している、ある種ケイオシックだがまとまりもあるような、極めて有機的な状態のことではないだろうか。

 クリーンナップの除去による影響は無意識下の線の露呈だけではない。クリンナップ=仕上げをしないということは、煎じ詰めれば作画という作業が事実上永遠に終わりを遂げないということでもある。線にピリオドを打つことを廃することは、「完成」という目的を廃することだ。それは、究極的には「線を引く」というプロセスそのものを画面上に提示することを意味している。線を引くこと。線を引き続けること。
 ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』に、分裂病者が製作した机が出てくる。「驚くべきことに、この机は単純ではないが、かといってそれほど複雑でもなかった。つまり始めから複雑だったり、意図的に、あるいは計画的に複雑であったりしたわけではない。むしろ、加工されていくにつれて、この机は単純でなくなってきたのだ……。この机はそれ自身としては、いくつもの付加物のある机であった。ちょうど、分裂症者の描くデッサンが詰め込み過ぎといわれるように。この机が完成するとすれば、それはもう何もつけ加えるてだてがなくなったときである。この机にはだんだんいろんなものが積み重ねられ、それはますます机でないものになっていった……。」
 彼の机は製作行為というプロセスの途方も無さと終わりの無さを示している。『かぐや姫』の製作工程はこの机に似ている。実際、高畑監督は細かい修正とリテイクを繰り返し映画完成を大幅に遅らせた。そもそも高畑監督には「完成」そのものを忌避する傾向があるのではないかとすら思えてくる。あの『火垂るの墓』が未完成のまま封が切られたことはよく知られていることだ。

*1:大塚康生『作画汗まみれ』所収