レンズ的リアリズムと目玉的リアリズム

 「リアリズム作画」と言っても一言でそう簡単に割り切れるわけではない訳で。この作画はリアルだ、もしくはリアルっぽい、と言ったときに、その「リアル」もしくは「リアルっぽい」とは具体的にどういうことなのか、ということをキチンと掘り下げて問われることはこれまでほとんど無かったと言ってもいいと思うんですよね。とはいっても僕自身も上述の問題についての答えを持ち合わせているわけではないし、この記事で「リアリズム」の定義付けをしようなんて意志も毛頭ないけど、ただ最近リアリズム作画について考えることが多かったのでこの機会に僕が考えたことを少しまとめてみようと思ったわけです。
 
 ジャパニメーションには二つのリアリズム作画があると思います。一つはレンズ的リアリズムです。これは客体、つまり対象物をカメラのレンズを通して見られたものとして描き出す手法で、うつのみやさとるが1989年の「御先祖様万々歳!」でやり始めた手法です。

うつのみや 例えば「お化け」っていうのがありますよね。昔から、「お化け」という技法は確かにあったんです。でも、あれは、やっぱり誇張しすぎなんですね。僕が『御先祖様』であらためてやった事というのは、スカッシュと言うんですけどね。例えば、実写のフィルムを1コマずつ送って見てみると、走っている時には、手がブレて見えないんですよ。それは、1/24秒の、カメラのシャッタースピードで捉えているから、ブレるんですね。でも、昔のアニメーションを作った方々は、ブレて描くという選択を取らなかった。その代わりに、デフォルメして、「速く流れているんだよ」みたいな感じで手先をビュッって伸ばしたり、からだ全体のフォルムを人間の骨格からかけ離れた感じで崩したりして、表現するようになった。それがやがて「お化け」と呼ばれるものになり、その表現が一人歩きして、リアルからどんどん離れた方向に行ったと思うんですよ。
 そんな風になっトしまったのを「『御先祖様』で、リアルに戻そうよ」という事だったんです。さっきの投影光もそうなんですけど、描いているキャラクターは置いていて、アニメーションに関する考え方としては「リアルに、実写に戻そうよ」というのが『御先祖様』の方法論なんですよ。
小黒 当たり前になってしまった「アニメ的な表現」を一度捨てて、現実的な動きを描こうという事ですね。
うつのみや ブレに関してなら、実写の映像は1秒が24コマですが、2コマのアニメーションだとしたら、1秒が12コマですよね。同じ動きを、1/12秒のシャッタースピードで撮影したら、1/24秒よりももっとブレますよね。それを考えて動かさなくてはいけない。まあ、ブレに関してはテストケースで、完成されてはいませんけどね。
ウェブアニメスタイル うつのみさとるインタビュー)

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 スカッシュとは具体的どういうものか、というのは実際に見てみるのが一番わかりやすい。上の画像は「ご先祖様」のワンカットですが、見ればわかる通りゴルフクラブを振るときヘッドがブレています。こういうのが「スカッシュ」で、実写フィルムを強く意識した手法であることがわかると思います。このような実写フィルム及びカメラ・レンズを意識したリアリズム技法を総体としてここでは「レンズ的リアリズム」と呼びたいと思います。
 
 もう一つのリアリズムは目玉的リアリズムです。これは大平晋也が90年代にやり始めたもので、うつのみさとるのリアリズムがカメラ・レンズを意識したものであったように、大平晋也の場合は人間の目玉の存在を意識したリアリズムです。具体的にどういうことでしょうか。こちらの場合も一枚のカットを参照しながら確認してみましょう。
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 一見してわかりにくいのが難ですが、黒い部分は目蓋の裏側です。つまりカメラが瞬きをしているんですね。上は「鉄コン筋クリート」(2006年)からのワンカットですが、大平は90年代初頭からこの手法をそれこそ執拗なまでに繰り返しています。

小黒 新章4話(『THE八犬伝[新章]』4話「はまじ再臨」のこと:引用者註)では、今まで見た事のないようなアニメの描写が続出して、僕らはびっくりしました。
大平 そうなんですか?
小黒 ええ。実際に画面になっている事の、どのぐらいまでがプランにある事なんですか? 例えば、カメラが振れるところとか。
大平 それはコンテの段階でちゃんとやってました。
小黒 あるいは、カメラが人間の目線になってて、カメラが瞬きする場面がありますよね。
大平 瞬きは、昔から僕はやっていましたよ。『骨董屋』の時も過去に行く時に、目を開くみたいな感じのところがあるでしょう。僕のパターンです。
ウェブアニメスタイル 大平晋也インタビュー)

 重要な点は、うつのみさとるがカメラ・レンズを媒介にして対象物を描写していたのに対し、大平晋也は人間の目玉を媒介にして対象物を描写していることです。もしくは、大平晋也の場合はカメラ・レンズの無媒介性、つまり対象物をカメラ・レンズを媒介しないで人間の目から直接捉えようとしている、と言い換えてもいいかもしれません。
 人間の目玉によって対象物(客体)を直接捉えるということは、対象の生々しい感触をダイレクトに描き出そうという考え方にも繋がっていきます。実際、「骨董屋」や「八犬伝」における生々しいリアリズムは、うつのみさとるのカッチリとしたリアリズムとは明らかに異質です。ここで僕が言いたいのは、うつのみさとるから大平晋也への影響関係云々といったことではなく、二つの別種のリアリズムが時期をほぼ同じくして並列して存在していた、ということです。つまり、リアリズムは単一の概念ではなく複数的なものであり得る。どちらの方が「より優れている」とか「よりリアルっぽい」というような話ではありません。

 もう一つ。見てきたとおり、うつのみさとると大平晋也のリアリズムはある意味で対極的なものでしたが、一方で共通している面もある。それは、どちらも作画に「見る側」、つまり「主体」の軸を導入しているところです。うつのみやと大平以前のリアリズム作画は愚直に客体をリアルに描くことにだけ専念してきましたが、うつのみやと大平は「客体を見る主体」ということを初めて問題にしてみせた。この、主体という次元の導入と、客体から主体への軸の移動は、発想の転換でありアニメ史におけるある種の革命だったと思います。
 このことを哲学史に置き換えるとうつのみやと大平がやったことは近代哲学を確立したカントに近い(なぜ唐突にカントの名前を出すのかというと、アニメにおける「リアリズム」を、「近代」という広いパースペクティブのもとで考えてみたいからです)。
 物凄く暴力的なまでに要約して言うと、カント以前の認識論は、主体と客体の一致という考えに基いていました。既に存在している客体への主体の一致、事物への観念の一致。カントはそれに対して主体と客体を切り離されているとした(現象と物自体の区別)。具体的に言えば認識は主体と客体の「関係」によって決定される。後の人はこれを「認識論におけるコペルニクス的転回」と言いました。一言でいえば「客体」から「主体」へと軸を移動させたのですが、これはいわゆる「すべては主観的なんだ」みたいな話とは少し違います。ですがそれを説明しているとキリが無いのでここでは割愛します。
 例えばドゥルーズは映画論「シネマ」において、古典的映画から区別される現代的映画の特徴として「時間」が「運動」から逸脱していくこと、つまりカント的な時間を挙げています。

 ドゥルーズは運動イメージから時間イメージへの移行を、哲学史におけるアリストテレス的時間概念からカント的時間概念への移行に重ねている。運動イメージにおいては、時間は間接的に示されるに過ぎない。つまり、行動Aから行動B、そして行動Cへという運動がまずあって、それに付随するものとして時間が現れる。ドゥルーズはこれを指して、「時間が運動に従属している」と言う。これは「運動の数」として時間を定義したアリストテレスの時間概念に対応するのに対し、時間イメージにおいては、純粋な空虚としての時間が直接に示される。つまり、「運動が時間に従属している」。これは感性の純粋形式として時間を定義したカントの時間概念に相当する。
(「ドゥルーズの哲学原理(3)――思考と主体性――」國分功一郎

 カント以前、つまり前近代においては「時間」と「運動」は常に一致しているとされていましたが、カントはその考えを退け、「時間」と「運動」を分離させ、「時間」を主体にアプリオリに備わっている純粋形式(カテゴリー)の一種と定義しました。
 上のドゥルーズの運動イメージと時間イメージの考え方は示唆的で、なぜなら日本のアニメーションもほぼ同じ歴史を辿っていると考えることもできると思われるからです。つまり、主に80年代までのアニメの作画の仕方はポーズ・トゥ・ポーズであり、そこでは動きこそが時間を生み出していると考えられていました(運動と時間の一致)。一方、90年代以後に「ご先祖様」に参加していた磯光雄がやり出したストレート・アヘッド方式のフル3コマ作画は運動と時間を分離させ、時間を純粋な一つの形式として取り出してみせたという意味でカント以降の、つまり近代的な作画と言えます。これは時間を単系的かつ直線的なものとして捉えることを意味するのですが、このことは先のうつのみさとるの1コマを1/24秒のカメラのシャッタースピードとして捉える考え方や、磯光雄のストレートアヘッドの考え方をさらに発展させ理論化させた山下清悟のタイムライン系作画にも共通して言えることだと思います。
 
 以上のことは、1988年に発表された「AKIRA」は前近代的だから駄目というようなことが言いたいのではなく、アニメにおけるリアリズムとは近代的な思想に基づいた、いわば「近代」による産物だということです。実際、ゼロ年代以降に今石洋之周辺のガイナックス系アニメーターがやっている80年代作画のパロディ、サンプリング、コラージュは、単線的な時間や歴史性を脱構築することによって90年代以降のリアリズム作画ひいては「近代」そのものを批判する一つのポストモダン的戦略と捉えることも可能です。
 しかし、僕が思うに、90年代の、それこそ大平晋也やうつのみやさとるがやったリアリズム作画は未だに十分掘り下げた評価や批評がなされていないし、なされていないところでいくら昨今のリアリズム作画について言ったところで空論の域を出ないのでは無いかと思っています。作画批評(そういうものがあるとして)にいま必要とされているのは、リアリズムをリアリズムとして成り立たせていることの条件を検討し、ひいてはリアリズム作画の「可能性の中心」を探る試みではないかと思います。