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江藤淳(3)

批評

 ついこの間、近所を歩いていたら景観にふとした違和感を覚えた。そのとき私は交差点で信号待ちをしていたのだが、横断歩道の向こう側に何となく眼をやったとき、これは「何処か」が違うと直感的に思った。違和感の正体はすぐに気づいた。交差点の対角線上に小さな空き地があった。私はその空き地に見覚えが無かったので、少し前までそこに何らかの建物があったのだなと見て取れた。しかし、その建物が何の建物で、何階建で、どのような外観であったか、などがどうしても思い出せなかった。ただ、そこに何らかの建物があったこと、そして今は無いこと、それだけが確かな感触として受け取れた。しいて云えば(それも観念的に云えば)、私が受け取った「感触」とは、かつてあった建物の<存在>と云えるかもしれない。
 このようなかつてそこに在ったであろう<存在>の感触を、江藤淳は「死者たちの声」として聴き取ったのではなかったか。
                  
                  ∴

 こうして犬は死んでしまったが、私は間もなくなにかに挑むような気持で借金をかき集め、このわずかばかりの土地を手に入れた。なにに挑むつもりだったかと訊かれれば、日本の”戦後”という奇怪な時代に、とでもいうほかはないような気がする。
 もとより犬が死んだことと、”戦後”とのあいだには、なんの因果関係もありはしない。しかし大学が封鎖され、学生の暴動がつづいていたあのころ、フランスに留学中の若い友人から時勢を憂うる手紙をもらった際に、私はこういう返事を出した。あんなくだらないことを気にかけるのはおよしなさい。なぜなら流行している議論はすべてインチキであり、騒然として見えるものはすべて仮象だからだ。それよりも私は、飼っていた犬が死んでしまったのが悲しくてならない。
(「場所と私」江藤淳

 江藤にとって戦後とは飼い犬という<他者>の不在(つまり”死”)以外の何物でもなかった。しかもこの他者の死というのは(それがたとえ犬であっても)自分にって最も身近な、交換不可能な一回性的かつ固有的な他者の死である。このような固有的な他者の死は江藤の戦後においてもう一度訪れるであろう。すなわち江藤の父の死である。

日が暮れはじめていた。私は、そういえば大江氏に二年ほど逢っていないことに気がついた。これからも、いつどこで逢うという予定もないので、私は、大江氏と自分のあいだのことに関して、一つだけ機会があったら活字にして置きたいことがあるのを思い出し、メモしておかなければと鉛筆を取り上げた。
 それは、私の肉親の者たちについてのことであった。大江氏が私を罵倒するのも、「敵」扱いにするのも、一種の病気のようなものだと思えばさして腹も立たない。しかし、氏は、ときどきそのエッセイのなかで、ことさらにすでに死者となった私の肉親に対して、侮辱的言辞を弄することがある。これだけは、やめてもらわなければ困るのであった。
 (中略)新しい墓を建てているところなので、祖父母の骨も、父や母の骨も、一族の死者たちの骨はすべて掘り出して、私の住居の仮の祭壇に安置してある。私は、血肉を分けた者として、これらの死者を祀り、辱めから守らなければならなかった。絶対的なものは、現世にではなく、これらの死者たちのあいだにしか存在しないのであった。
(「文反古と分別ざかり」江藤淳

 上の文章が書かれたのは1979年、年譜によれば父の死の約一年後である。絶対的なものは死者たちのあいだにしか存在しない。このパッセージには見かけ以上に重要な示唆が含まれているように思われる。事実、上の二つの文章には(見落としてしまいがちだが)、江藤の、「他者の死」を軸にした一つの思想的転回が込められてる。それは、一言で云えば、サルトル的な実存主義から後期ハイデガー的な存在論への転回とでも云えるだろうか。
 江藤淳の60年代の仕事、例えば「成熟と喪失」などは読めば明らかなように、サルトル的な実存主義(それかもしくはエリクソン的な自我心理学)の影響が濃厚であった。例えばそこで問題になる”死”は、他者の死でなく徹底的に「この私の死」であり、それ以上のものではない。

 俊介がそれによって生きて来たイメイジが完全に崩壊したとき、彼の前にはにわかに実在があらわれる。(中略)役割から解放されたとき、人はそこで日常生活が営まれている社会の次元から、単に存在しているものの次元にすべり落ちる。それは絶望的な体験で、一種の「死」であるが、この「死」は決して空虚ではない。そこでは「死」そのものがものに充たされてしまうからだ。
(「成熟と喪失」)

 「死」とは実在との接触という意味で「生」に触れることでもあり、「喪失」とは一種の「充実」でもある、と江藤はまた書いている。これらの正反対の要素が接触し合う両義的な場においてのみ「成熟」への可能性もまた開けていく、とすればこれは世間一般で云われているような所謂「成熟」という言葉とは縁もゆかりもないであろうことは問うまでもないがここでは惜く*1。「成熟と喪失」は1967年に書かれているが、二年後の講演を元にした著書でも次のように書いている。

 われわれのなかに物事をありのままに直截に見るよりは、幻影や、夢の中で暮らすのをむしろ望むような傾向があるとすれば、これは人間の認識能力の根本に奇妙なディヴィエーションをさそう力が作用しているからだと考えられる。なぜ私どもは物事をありのままに直截に見ることができないのだろうか。このなぜに対して、なぜならばという答えがなされなければならない。それはなにかというと、私は、人間が死ななければならないからだろうと思う。
 人間の前には死というものが立ちはだかっている。人間はいつか死ななければならない。(中略)つまり死というものが、いつふりかかって来るか予測できない可能性として、われわれの前にひそんでいる。しかし、同時にまたわれわれは生存しなければならない。死ぬまで生き続けなければならない。この死と生存というものが、われわれの生の中に絡まり合っている。物事を直截に見ようとすれば、われわれはいやでも自分自身の死、自分の生存と自分の属している集団の存続、というような問題に直面しなければならなくなる。それは人間にとって非常に辛いことである。(中略)そこでその死をことばでおおう作業が始まってくるのだろうと思います。
(「批評家の気儘な散歩」)

 さらに別の箇所では、

 ギリシア人の自然観にしたがえば、自然というものは不変なもの、永久にそこにあるものでした。(中略)――季節が春夏秋冬と循環しているように、動物も、個々の犬やネコや牛や馬は死んでいくけれども、馬という種類、犬という種類、ネコという種類は恒に存在して循環している。
 (中略)しかし、その中で人間だけが生に限りがある。いわばそうして常にぐるぐる円周を描いて回っている世界を、垂直に通り過ぎていくのが人間である。人間には初めがあって終わりがある。生まれて死ぬからです。
(同上)

 上のような実存の捉え方においては、例えば個々のネコや犬の死は問題にならない(これは、自らの死を意識する先駆的覚悟性を備えた現存在と、死を意識しない動物とを厳格に区別した前期ハイデガーの態度とも繋がってくる)。個々の犬やネコはそれぞれの「犬」または「ネコ」といった普遍的なカテゴリーに括られ、各々が持っている固有性は宙吊りにされ、結果として、もっぱら私の死だけが焦点となる。しかし、ほぼ同時期に起きたと思われる(というのは、この講演が行われたのは1969年で、上に引いたペットの死についての文章も「大学が封鎖され、学生の暴動がつづいていたあのころ」というパッセージから1969年前後だと推定できるからだ)彼が飼っていた愛犬の死は、自らのそれまでの思想にある種の<転回>を、それもかなりの抜き差しならないレベルで要請したであろうことは想像に難くない。
 江藤はある日軽井沢にとある場所を見つける。彼はその場所に老いた愛犬を連れて行きたいと思った。

 ここに犬と一緒に座り込んで、あの山をぼんやりと眺めたらいいだろうなどということを、私はやや無責任に想像した。そのころの私は、自分の内面についても家族のことについても、自分の仕事についてさえもなにひとつまとまらずに、暗澹たる毎日を過ごしていたものだ。わかっていたのは、早くしないと老いた犬が死んでしまう、ということだけだったといってもよい。そして実際、犬は私がはじめてこの場所を見に来た翌々日に、私の腕のなかで死んだ。私は身体の暖もりが少しずつ冷たくなって行くのを掌に感じながら、声もなく涙を流した。
(「場所と私」)

 江藤は愛犬が死んだ後借金をかき集め、その場所にわずかばかりの土地を手に入れそこに小屋を建てた。恐らくそれは彼にとって死んだ愛犬の墓標のようなものであったかもしれない。さらに江藤はその小屋に父を招いて一緒に住みたいと考えはじめた。彼は自分の父とは生来まったく馬が合わなかった。云うなれば、江藤にとって父とはコミュニケーション不可能な<他者>として彼の前に現前していた。だが結局、老父は歩行不可能になったため計画はついに実現することはなかった。「どこにもない場所につくりあげた隠れ家」と江藤は書いているが、その場所とは限りなく死者たちの側に近い場所であったはずだ。彼は、死者たちの世界に建てた愛犬の墓標の中で一人佇む。父が死ぬのはその7年後のことである。
 さて、これまで江藤における「私の死」から「他者の死」への傾斜という思想的転回を見てきたわけだが、もちろんここには(例えば上野千鶴子が「成熟と喪失」の解説で述べているような)「治者」の回復などというナイーブなファクターが介入する余地はない。<父>、もしくは<アメリカ>といった大文字のファルスは、死者たちの声という複数的な<他者>によって揺るがされる。念を押しておけば、この<他者>とは例えば柄谷行人の<外部>のように抽象的な概念ではなく、もっと血の通った、ひとりひとりの顔が見えるような、そのような固有性と相対性を持った<他者>である。江藤淳は1985年の時点で柄谷の「外部」について懐疑を表明している*2。柄谷の使う<外部>では個々の死者の霊たちを捉えることはできない。(前回書いたように)江藤はGHQによって検閲された文章=エクリチュールから死者たちの声=パロールを聴き取ろうと耳を澄ました。この、エクリチュールとパロールの間の危うい均衡と緊張が、やがて江藤自身を死へと傾斜させていくことになるのは半ば不可避的であったかもしれない。

*1:例えば柄谷行人福田和也との対談「江藤淳死の欲動」において、小林秀雄江藤淳を比較しながら次のように発言している。「認識する欲望が、小林秀雄にはあるし、僕にもあるけれども、江藤さんにはあまり無いんですね。認識の欲望がない代わりに、死の欲望が強くて、それに耐えるのが「成熟」であり、それを懐疑的に語るのが「批評」であったという感じがします。」

*2:「六十年の荒廃」