スクリーンの向こう側にあるのが大きな物語であろうとデータベースであろうとぶっちゃけ自分にはどっちでもいいし、どうでもいい。スクリーンの向こう側に物語を志向する人間もデータベースを志向する人間もスクリーン自体は見ていない。自分がアニメを見るにあたって、スクリーンを虚心になって見るということ以外に自分に課している制約は特にはない。それは例えば小林秀雄が骨董やゴッホの複製絵を愛でたようにアニメを愛でるということに近いかもしれない。自分が言語化したいのは、スクリーンから受け取る「直接性」であって、作品を単位にして何かを語ったり批評したりすることは本当は嫌いである。スクリーンから立ち現れる直接性は、究極的には「作品」という制度的イデオロギーを瓦解にまで追い込むだろう。しかし本当の問題は、そのような「作品=物語」を解体させるに至るまでスクリーンを直視する「眼」にある。例えば小林秀雄は「美を求める心」において「眼」の鍛錬について語っている。

 極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。(中略)頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何を措いても、見ることです。
(中略)見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。(中略)頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。
(「美を求める心」小林秀雄

 さらにはこんなようなことも。

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
(同上)

 世のアニメ批評家と呼ばれる人種はどこまでも眼を閉ざして空疎なお喋りに耽っている。頭で考え、眼で見るということをしない。物語について語りたいのなら小説でも読めばよろしい(アニメ原作があるなら原作を読めばよい)。アニメーションという媒体の「特異性」についての反省や省察がまったく欠けていると言わざるを得ない。
 アニメを見るという行為は、不可避的に見る者を失語状態に追いやる限界経験でなければならず、そのためには見る者に眼の鍛錬を、更には、「物語」や「意味」や「想像力」を切り裂き内破させる「極北の眼」の会得を要請するだろう。