スクリーンの手前で立ち止まること

 野田努初音ミクの製作者佐々木渉との対談においてこんな発言をしていた。

野田:ブラック・ドッグですかぁ。それは面白いですね。当時のテクノはロックのスター主義へのアンチテーゼというのがすごくあって、自分の正体を明かさないっていう匿名性のコンセプトがすごく新鮮でね。売れはじめた頃のエイフェックス・ツインもたくさんの名義を使い分けてましたね。後からあれもこれもエイフェックス・ツインだったという、リスナーに名前を覚えさせないという方向に走ってましたね(笑)。
 で、ブラック・ドッグは、匿名性にかけてはとくにハードコアな連中でね、当時は『NME』が紹介したときも顔がぼけた写真しか載せなくて、まともにインタヴューも受けなかったんですよ。作家の優位性みたいなものへの否定もありましたからね。いちど作品を投げてしまったら、どう解釈されようがそれは受け手の自由であるという態度がいっきに広がった。作品は作り手のものであって、正しい解釈がひとつしかないというふうに限定されることをすごく忌避していた時代でしたよね。いまでもよく覚えているのは、『スパナーズ』で初めてブラック・ドッグがインタヴューを受けたときのことです。当時としては画期的な、チャット形式でのインタヴューをやったんですよ。姿は見せない、「<<......」という記号が入った、チャット形式のインタヴュー。彼らの発言はドットの荒いフォントで載って、写真はなし。

 アニメーターの世界についてもほとんど同じことが云える。アニメーターもまた匿名性を重んじ時に複数の名義を使い分ける(例えば森山雄治竹内哲也)。メディアへの露出の拒否という点では田中宏紀をまず思い浮かべる。第62回アニメスタイルイベントに一度出席したようだがそれ以外では公の場に出てくることはまずなく、もちろんTwitterなどもやっていない。典型的な職人気質なアニメーターの一人であろう。
 このようにテクノのクリエイターとアニメーターは作家主義へのアンチテーゼとしての匿名性の強調という点では一致している。しかし、アニメにおいてはアニメーターの匿名性が、逆説的なことに別種の作家主義の亡霊を呼び起こす基盤になっているという皮肉な実態がある。別種の作家主義とは云うまでもなく監督という作家主義である。例えばエヴァンゲリオンを評論しようとする人間は大抵においてエヴァンゲリオンという総体もしくは細部を庵野秀明という監督個人の作家性に無批判に結びつけて論じようとする傾向がある。これは図らずもスクリーンを透明なものとみなし視聴者と監督=作家が直接的にメッセージを交換し合うことが可能であるという暗黙の前提に立脚している。しかし、これはもちろん誤りである。
 スクリーンを透明なものと見なし、そこから監督=作家の意図や思想を直接的に掴み出そうとする試みは野蛮であり、悪しき作家主義の一変種に過ぎない。問題は、視聴者と監督を媒介するスクリーンの表面上に蠢く無数の分子的な匿名的個人=アニメーターの存在であり、彼らに目を向けるためには、まず「スクリーンは透明である」という盲目的なイデオロギーを破棄することから始めなければならない。スクリーンは徹底的に不透明なものとして我々に対して現前し、ときに解釈を執拗に拒絶する抜き難い物体性を持っている。しかし、全能性を断念したところにしか生きた解釈は生まれ得ない。