Nujabes「Spiritual State」レビュー

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 Nujabesの「Spiritual State」はマクドナルドと靖国神社の間に位置しているアルバムである。1曲目から放たれる恍惚を誘うトライバルなパーカッションとウェルメイドな美メロピアノという組み合わせはNujabesサウンドの一つの到達点を指し示していると共に一つの重大な罠が潜んでいることをも図らずも示唆している。Nujabesはこのアルバムで旧弊なジャジー・ヒップホップという定式を脱し「無国籍的なエスニックさ」という新たな形式を手に入れた。なんとなくエスニックなんだけど、何処の国のエスニシティなのかさっぱりわからない、という。とは云っても、何もこの形式はNujabesのオリジナルというわけではなく遡れば久石譲に代表される所謂ジブリっぽい音にも見られるがここでは深く立ち入らない。重要なのは、Nujabesがその「無国籍的なエスニックさ」を一つの手法とドグマにまで昇華した点に求められる、それはこのアルバムの70年代ニューエイジ的なアートワークを見ても一目瞭然だろう。その意味で、僕が最初にこのアルバムを聴いて連想したのはIASOSでありまた堂本剛である。
 先ほど僕は、このアルバムはNujabesサウンドの一つの到達点を指し示していると共に一つの重大な罠が潜んでいることをも図らずも示唆している、と云った。いうまでもなくその一つの重大な罠とは「無国籍的なエスニックさ」というパッセージから引き出される不可避的な撞着である。コスモポリタンなエスニシティとは何か、何処にもあり、また何処にもない民族性とは一体どのようなものか。このような目眩を起こしそうな撞着語法的な表現を使わずにいられないところに70年代ヒッピー的、ニューエイジ的な想像力の逆説性があると同時に、左翼的な想像力の隘路をもダイレクトに表現していると云わざるを得ない。Nujabesがもっとも忌避したのがナショナリズムローカリズムであることは今更云うまでもない(この点で彼はあっさりと日本回帰を遂げたDJクラッシュとは異なる)。しかし、Nujabesは同じく普遍的なコスモポリタニズムを提示することも避けた。なぜなら普遍的なコスモポリタニズムは必然的に経済グローバリズムに回収されその行き着く先はマクドナルド帝国主義だからである。しかしNujabesは、DJクラッシュのような靖国回帰も、またサイプレス上野とロベルト吉野のようなノスタルジックな郊外的イメージの強調と安易な団地サヴァイヴ主義の謳歌に堕すこともできなかった、そのあたりに彼の悲劇がある。彼はマクドナルドと靖国神社の狭間に立ち止まろうとしたのだ。そして敗れ去った。僕はこのアルバムを彼の遺書だと思っている。このアルバムから彼の絶望と呪詛を聴き取れないリスナーは愚かである。Nujabesの敗北は彼一人の敗北を意味していない。左翼的な想像力そのものの敗北である(しかし未だに自分たちが敗北したことに気づいていないジブリアレンジ・ヒップホップの亡霊たちは後を絶たない)。このアルバムはどこまでもグロテスクであり奇形的である。だからこそ聴く価値がある。
 僕のここ最近のささやかな夢は、靖国神社靖国神社に一番近いマクドナルドを往復しながらiPodでこのアルバムを聴くことである。レスト・イン・ピース。