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アニメにおける最小二乗法的線形回帰⇒超コード化と分子的/微分的振動(=揺らぎ)を巡る原理的考察その1 ダンス論/資本主義批判

 2012年12月31日付けのNHKニュースWEBに「ことしの有感地震 3000回超」という記事が載っているのを見つけた。NHKオンライン
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 このデータは図らずも日本人の身体感覚そのものの変容をも象徴しているように思われる。人々は常に「揺れ」を感じている、感じずにはいられない*1。実際に地震が年に何回起こったかなどはこの際どうでもよい。*2
 震災後、3・11後の想像力うんぬんといったコピーが囂しく喧伝されるようになったが、その手の口当たりの良いクリシェを好んで使う文学者や評論家諸氏の言説は、皮肉なことに全く文字通りナルシシスティックな想像界の内部への沈滞と惑溺の範囲を超え出るものではなかった、と云ってよい*3。文学者や評論家諸氏が「想像力」という名の飴玉をしゃぶっている間にも人々の身体は揺れ続けており、なおもグルーヴは止むことはないであろう。我々はニーチェに倣って意識ではなく身体にこそ問いたずねなければならない。
 もはや大地は揺れてはいない、もちろん揺れることもあるだろうが、どちらにせよ関係がないことだ。問題は大地ではない、揺れ続けるのは我々の方なのだ。我々は大地をダンスフロアに変えてしまったのであろうか。津波によって押し流された荒土、その放射線にまみれた瓦礫の上で、我々はグルーヴし続ける。呪いのように。

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 DJテクノウチは著書「読む音楽」において、音楽を聴く人々を「ノリ」という観点からジャンル分けする試みを行なっている。ノリの大別は「アイドルノリ」と「クラブノリ」に分けられ、その中でさらに細分化が行われているが煩瑣なので割愛する。私が注目したのは、俗にいうヲタ芸ノリとパラパラという、一見無関係とも思えるダンスに類似性と親和性を見出している箇所だ。

 オタク的なノリとギャル的ノリはかなり近いものがあると思うのですが、どう思われますでしょうか。――音楽ではあまり接点がありませんがヤンキーノリもとても似ています。――
 例えばここでパラパラを考えてみましょう。
 パラパラとは何でしょうか。まず私は断言しますが、パラパラこそ日本発――そして日本初の?――ストリートカルチャーです。
 (中略)パラパラとは鳴っている曲も何よりも客層も随分違いますが、根本的な発想はヲタ芸の文化と同じ発想だと考えられます。「特定楽曲」で「特定の踊り」を「集団」で踊ることです。ここにも集団で行うことによる無個性化や、特定楽曲に対して特定の踊りがついていることで余計な思考を挟むことなく楽しめるという考え方が存在しています。またパラパラに「足の動き」がないのは有名な話ですが、これも少しでも難易度を落として敷居を低くすることに一役かっていると思われます。
(「読む音楽」DJテクノウチ&V.A)

 試しにYouTubeで適当に該当すると思われるダンスの動画を拾ってみた。
【46人】千本桜をヲタ芸で表現してみた。in京セラドーム
 DJテクノウチは、「パラパラに「足の動き」がないのは有名な話ですが」と書いているが、実際にはパラパラにも色々な種類があり、そのうち足のステップが存在しないのは「トラパラ」なるものであるらしいことなどが判明している。
「トラパラ」Mermaid (4Skips vs. Shohei Matsumoto[松本祥平] Remix) / Tsukasa
 一見してわかるのは、上半身への過剰な過入力と「自由度」の徹底的な排除であり、私の第一印象としては、これらはどちらかと言うと「踊り」とは思えず、よって最初に連想したのは学生の応援団の三三七拍子であり、そしてやはりこれも何の根拠もない憶測だが、ヲタ芸やパラパラの起源は概ねこんなところにあるのではないかとすら思った*4(もしくは盆踊りとヲタ芸を繋ぐ媒介項としての応援団という位置附け)
六校応援団
 云うまでもなく、上半身への過入力と自由度(=揺らぎ)は反比例の関係にあり、揺らぎを徹底的までに排除するところの究極形の「踊り」は北朝鮮などの全体主義国家に見られるマスゲームである。マスゲームの求めるところは身体の絶えざる訓練と規律化であり、ヲタ芸を打っているオタクは、意識的か無意識的かは別として、常に己の身体を訓練し規律化していると云ってよいだろう。
 身体への過入力や超コード化の極にマスゲームやヲタ芸ノリ、トラパラノリがあるのなら、もう一方の極、つまり身体の脱入力や脱コード化の極にはクラブ的なノリが来なくてはならない。暗闇の中でのクラバーたちの気だるい横揺れの動きは、一言で云って身体の力を外に逃がす、つまり脱コード化のための動きであると云ってもよい。クラバーは権力や規律化から常に逃れようとする、それが横揺れという、身体からの脱入力(=弛緩)という形を取って現れる。
 ここで一旦視座をズラして「空間」についても考えてみよう。オタク的ノリが発生する空間とクラブ的ノリが発生する空間はどのように異なり、またそのような空間性の差異が身体に対して構築するフィードバックの関係はどのようなものか、またどのように機能するのか。
 例えば美術評論家の椹木野衣は著書「シミュレーショニズム」において、ロック的な空間とクラブ的な空間の差異について、示唆に富んだ考察を行なっている。

クラブでハウスミュージックにあわせてダンスするものたちのいったい誰が、DJに不断の視線を送り続けることなどできようか?このことはロック・ミュージックの聴衆の機械じかけのダンス(というよりはたんなる跳びはね)が、ステージ上のカリスマめいたミュージシャンへの視線の集中によって統御されていることとまさに対照的な現象である。ロック・ミュージックのライヴが客席とステージ、さらにはバック・ステージという分節構造をもち、ステージに登場する人物への視線の集中を宿命とすることは、おそらくは西洋における「教会」での説教の構造に端を発していると思われるが、ハウスミュージックを消費するクラブにおいてはそのような分節構造は存在しない。男と男とのキッスが交わされているかと思えば、神妙な顔つきでDJのリミックスに耳をそばだてているものもいる。もちろんダンスをしているものもいれば、ただうつろに立ちつくしているものもいる。ロック・ミュージックがその分節構造に「教会」の状況に近いとするならば、ハウスミュージックはジョン・ケージのいうところの「サーカスの状況」に近いといえるだろう。そこでは複数の出来事が、それぞれにまったく異なった時間の流れをたたえたまま、同時進行してゆく。
(「シミュレーショニズム」椹木野衣

 長くなったが、同書の中でももっとも美しい箇所だと思われるので全文引用した。上記の椹木野衣の論旨がドゥルーズを下敷きにしていることは云うまでもないが*5、とりあえず我々の議論に引き寄せて考えてみたとき、上のロック・ミュージックのライヴにおける聴衆がDJテクノウチの文脈上のアイドル・コンサートにおけるオタクと著しい相同性を成していることに直ちに気づく(「ステージ上のカリスマめいたミュージシャン」を「AKB48」や「水樹奈々」、「初音ミク」等に置き換える作業を各自の脳内でしてもらいたい)。さらに思弁を押し進めれば、ロックの「教会モデル」をヒトラーの演説にアナライズすることもできる。ここでも我々はファシズム的なパラノイア体制を目の当たりにするであろう。しかし注意すべきは、ナチスがヒトラーの演説のさいに導入した音響システム――地面にスピーカーを埋め込み、約20ヘルツの音波を出す――がクラブミュージックとクラブ的空間に与えた影響関係であり*6野田努がいみじくも云ったような「低音は共同体の音であり、それと同時にファシズムの音でもある」*7という認識を看過すれば、安直な80年代ニューアカ的二分法(スキゾ/パラノ)に陥ってしまう。問題は、スキゾとパラノという二つの極を自在に往復する微分的/分子的な振動(=揺らぎ)、さらに云えばそのバランス感覚であり、我々はニーチェであると同時に、セリーヌでもあらねばならない*8。とはいえ、議論を過度に複雑にしないためにも、我々はとりあえずこの二分法を(あくまで暫定的に)保持しながら論考をすすめることにする。しかし何度も念を押すように、私が目指すところは「スキゾ」ではなく「バランス」であり、それは80年代の軽躁病的な時代から、私なりに自身の皮膚で感じ取っているテン年代的な時代感覚への移行と対応している、と云っておきたい。

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 俗にいうハルヒダンスや「らき☆すた」のOPにおけるダンス等はその「再現可能性」の高さゆえアニメという媒体を超えてニコニコ動画や秋葉原の歩行者天国にまで浸透した。また、先のDJテクノウチの発言にも見られる「特定楽曲」で「特定の踊り」を「集団」で踊ることは、個人を集団の中に埋没させるという行為に付随する、文字通り「我を忘れる」ような熱狂性を生むがゆえに強い求心力を備えている。f:id:shiki02:20130103012739p:plain
  沓名健一がこのダンスにある種の「デッド感」の徴候を感じるとき、彼はその理論的基盤を堀口悠紀子とヤマカンの弁証法に求めるが*9、私はこの種の身体への過入力と精確な統御を要請するダンスに不可避的に付き纏うコード化=線形化にこそ「デッド感」が宿る根拠を見出したいのだ。萌えアニメとヲタ芸的ノリの親和性は火を見るより明らかである。であるがゆえに、アニメにおけるダンスもオタク的な集団性=超コード化の引力に逆らえず、そこでは「揺らぎ」は徹底的に排除され、最終的にはヒトラーの演説と北朝鮮のマスゲームに回収されることは避け難い宿命でしかないのか。
 そうではなかったはずなのだ。少なくとも、1961年に虫プロダクションを創設した手塚治虫がアニメ制作において提示した「理念」を見る限りにおいては。

「手塚さんは、虫プロをやる段階で商業作品と芸術作品とをやろうと考えていて、当時はその程度の話しかしていなかったんですが、後々になって、あの人の出方というか、我々に対する態度を見ていると、漫画部のアシスタントへの態度と我々への態度とは違うんですよ。……そのうち『お前たちも実験作品を作れ』という話になって……要するに虫プロというのはひとつの『場』なんだということです。……『あなたたちは、ぼくと同じ対等の作家で、作家が集まって虫プロダクションをやっているんだ』と、彼はそう言いましたけど、それがあの人の虫プロに対する願望だったと思うんです」
(「アニメ作家としての手塚治虫津堅信之

 津堅信之は上記の山本暎一へのインタビューや、古徳稔へのインタビューから得られた「アニメは一人で作れる」という手塚治虫の発言から、虫プロを「個人作家の集団」だったと規定している。つまり虫プロは、職人的な「個人」がそれぞれの作品を作るために提供される「場」でしかなく、その点、労働組合を結成してあくまで集団性を強調しようとした東映動画とは対照的である。云うなれば、ここには「個人主義」VS「集団主義」という多分にイデオロギッシュな衝突があり、虫プロ東映動画の根源的差異性はこの点にこそ求められなければならない。
 虫プロの理念を大本の部分で受け継いでいると思われる現在のTVアニメーションにおける、集団性を常に逃れ出ようとする線分を探そうとすれば、当然アニメーターの孤独な闘いにこそ目を瞠らねばならない。つまり、アニメーター個人の作家性に宿る「闘争=逃走」の精神を実際のアニメーション映像上に見つけ出す作業がここでの目的となる。
 孤独な闘争としての「ダンス=揺らぎ」の事例としていくつかピックアップしてみる。前々々回の記事でも軽く紹介した田中宏紀による仕事。
うみものがたり #2(田中宏紀)
 さらに同氏による「鋼の錬金術士」における仕事でも横揺れの脱力=弛緩への傾向を見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=eWNYLfDjhPc#t=40s
 上記の動画40秒~の横揺れと肩の関節を外したかのような弛緩描写は卓越したセンスに支えられており、刮目に値する。

Sakuga MAD 2011.07
 上の冒頭のカットは「アイドルマスター」から河野恵美の仕事である。彼女は田中宏紀からも多分に影響を受けていると思われ、師の本質である「揺らぎによる脱コード化」という手法を正統に継承しているという意味でポスト田中宏紀の最右翼と云っても過言ではない。正直私はアニメ版アイドルマスターにおけるアイドル達のダンスの中ではこのダンスが一番好きである(ほんの3秒足らずのダンスであるが)。

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 「僕は友達が少ない」5話における濱口明の仕事 
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 銃撃時の物理法則を無視した謎の無反動っぷりも素晴らしい。
 
 以上に見出されたのは、ハルヒダンスや「らき☆すた」OPのダンスとは根本的に異質なもうひとつのダンス=揺らぎである。

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 アニメにおける線形的な超コード化への抵抗のもうひとつのアプローチとして、アニメの線そのものを「揺らす」方法が考えられる。こちらのアプローチを実践している筆頭としては例えば大平晋也やそのラディカルな後継者である崎山北斗などを挙げることができるだろう。
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大平晋也(The Animatrix - The Chase (Kid's Story))

崎山北斗MAD
 しかしこのアプローチは、これについて論じるだけで一本の記事が書けてしまうほど広いパースペクティブと問いを内包していると思われるので(特にアニメにおけるリアリズム=写生の問題なども絡んでくるだろう*10)、別の機会に詳しく論じることとしたい。

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 大正期の作家・宇野浩二は、その独自の手法によってエクリチュールを生み出した、という意味でアニメーターの系譜に加えることができる。これは比喩ではない。

 二階に行くと宇野は茶ぶ台の前に端然と坐り、風呂敷から原稿用紙を出して、何かしきりと書いていた。
 「今論文を書いているんだ」と上機嫌にいった。
 「何の論文だ?」
 「医学上の論文だ。俺の思考力は俺の字を書く速力の三倍の速力をもって走っている。俺の頭には後から後から考えが湧いて来るんだが、手で書いていては間に合わない……」
 彼はそういうと共に、字を書かずにただポンポンと鉛筆で原稿用紙の上に点を打ち始めた。その点を打つ手の動きがだんだん加速度が加わって来て、妙に調子がつき、見るからに苛立しそうであった。
 「よし、僕が代って書いてやろう」と私はいった。
 「そうか。君が書いてくれるか。それじゃ書いてくれ」そういって宇野が立上がったので、私は彼の坐っていた跡に坐って鉛筆を取った。
 宇野はそのまま坐らずに縁側を向こうに行ったり此方に来たりし始めた。
 「好いか。書いてくれ。……俺の母は貞操を立て通したらしい。……俺の思考力は俺の舌の速力の三倍の速力をもって走っている」と彼はもどかしそうにいった。そういえば彼の言葉は舌が少しもつれて来て、その語尾がはっきりしなかった。「好いか、書いたか」
 「ああ、書いた」といったが、私はただ原稿用紙の桝の中に彼がしたようにポンポンと点を叩いていただけであった。
(「同時代の作家たち」広津和郎

 作家・広津和郎が当時の文壇を回想した書からの引用である。宇野浩二はこのとき既に梅毒による進行麻痺(精神障害)の徴候が現れていた*11。しかし注目すべきは、ここで宇野が実際に取っている行動であり、その実験性と前衛性は、我々にある種の認識論的転回を迫るほどに凄みを秘めたものがある。宇野の脳髄と鉛筆の先端はダイレクトに接続されひとつのエクリチュール機械と化す。原稿用紙の桝目に穿たれた黒点の連なりは、アニメーターがタイムシートに穿つタイミング指示の黒点の連なりを同時に連想させる。宇野は言文一致も写生文も超えようとした地点に立ったとき、黒点という物質性を備えた<リズム>、すなわちエクリチュールを嵌入させることによって、小説という形式そのものを内破させようと試みたのだった。エクリチュールは文字でも記号でもイメージでもない、純粋な痕跡としての物質性であるとともにそれはリズムとしてしか刻印され得ない、という抜き差しならない真理をまさしく身を以って証明しようとし、そして敗残した。
 目と耳のあいだの空間。アニメーションにおける、一枚の静止絵と、その次の一枚の静止絵の「あいだ」に刻印されたエクリチュールは、静止絵と静止絵とのあいだを彷徨い、揺らぎ、往復し、振動しながら<リズム>を生成する。これが、宇野浩二が開拓したアニメーションにおける「運動」の論理である。

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 ハウスやテクノミュージックのコンポーザーとアニメーターは共に匿名性を重んじるという点で共通している。しかしそれは「個人」を「集団」の中に埋没することなのか?むしろ「個人」の中に無数の振動しながら分裂する分子的な「個人」が存在する、そのような「匿名性」ではないか。彼らは常に揺らぎながら己の身体を粒子にまで分解するのに身を任せる。
 ハウスやテクノミュージックのクリエイターは大抵複数の名義を持っている。例えばデトロイト・テクノの巨頭Drexciyaは、Elecktroids、Shifted Phases、Transllusion、Abstract Thought、The Other People Place、Lab Rat XLなど数えきれないほどの変名を持っている。最も有名なテクノミュージシャンだと思われるAphex Twinにしても、AFX、Caustic Window、Polygon Window、The Tuss等の名義を使い分けている。

Drexciya - Birth Of New Life
 アニメーターのほうはどうか。例えばゼロ年代を代表するアニメーターである竹内哲也は、幼馴染万歳、山田コンボイ、国分寺四郎、虹野マコ、T★ETUYAなど適当に付けたとしか思えない変名を大量に持っている。また、ロリ金田系アニメーター沼田誠也は、有明トキオ、矢沼正太、犬屋タマセ、沼田屋りん、尾待誠也、召成三言といった名義を持っている*12
 クラブミュージックとアニメーターの関係と云ったらかんざきひろはやはり外せないだろう。彼はイラストレーターであると同時に織田広之名義でアニメーターとしても活動しており(最近だと「エウレカセブンAO」での仕事が記憶に新しい)、しかもHiroyuki ODA名義でオランダのトランスレーベル「A State Of Trance (Armada music)」と契約し、トランス・ミュージックのコンポーザーとしても活動している、というまさしく八面六臂のマルチタレントである。Otographic Music
 ジャパニメーションとクラブミュージックの交流、というとそれだけで一本の記事が書けてしまうほど奥が深いテーマだが、有名所では、森本晃司ken ishiiが組んだ「extra」のミュージックビデオや、ジャケットに攻殻機動隊のイラストをあしらったMijk Van Dijkの「マルチマイク」という日本企画盤ベストアルバムの存在などがすぐに思い浮かぶ。しかしもっと細かいところに目を向ければ、例えば映画「マクロスプラス」にエイフェックス・ツインのロゴマークが映ったり(ちなみにエイフェックス・ツインのロゴマークをデザインしたポール・ニコルソンは、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」に出てくる「笑い男」のロゴマークのデザイナーでもある)、「うる星やつら」の主題歌などを作曲したことで知られるシンガーソングライター小林泉美の元旦那がジャーマン・エレクトロの奇才、ホルガー・ヒラーであったりする*13。ホルガー・ヒラーは80年代にトーマス・フェルマンとPalais Schaumburgというバンドを結成するが、ホルガー・ヒラーが脱退した後に入れ替わりに入ってきたのが、後にベーシックチャンネルを立ち上げることになるミニマル・ダブの始祖モーリッツ・フォン・オズワルドであることは周知の通りだ。

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 ハウス等のクラブミュージックとアニメーションの親和性は、それがどちらも資本主義という経済構造を基盤にしていると同時に資本主義のリミット=臨界点をも指し示している、という点に拠るのではないか。
 教科書的に確認しておくと、資本主義には二つの歴史的流れがある。商業資本主義から産業資本主義への流れである。私はそれを、漫画からアニメへの歴史的流れとパラレルに、かつアナロジックに捉えてみたい。

 簡単にいえば、商人資本は、ある地域で安く買ったものを、別の地域で高く売ることによって成立している。
(「マルクスその可能性の中心」柄谷行人

 商業資本というのは、いわば空間的に異なる価値体系から差額を引き出すことによって利潤を得る。ここで理論的ベースとなっているのは「空間上の移動」であり、商業資本主義とは空間的資本主義である、と捉えて良い。この意味で、漫画の構造は極めて示唆的である。と云うのは、漫画は、眼球運動と視線の移動によってページ内に配置されているコマからコマへと、いわば空間上を移動しながら読むメディアであり、その意味で空間上を移動することによって利益=剰余享楽を引き出す商人的な態度に近いと云えるのだ。
 ならば資本主義の発展によって現れた近代モデルである産業資本主義とはどのようなものか。

 われわれは、商人資本がいわば空間的な二つの価値体系の――しかもそこに属する人間にとっては不可視な――差額によって生じることを明らかにしたが、産業資本はその意味で、労働の生産性をあげることで、時間的に相異なる価値体系をつくり出すことにもとづいているといってもよい。
 マルクスがいうように、個々の労働者は、「結合」によって生み出したものを、それ以前から要求することはできない。ここには、時間的な前後関係から生じる不可避的な「不透明性」がある。産業資本における剰余価値は、したがって暴力や詐欺によってではなく、このような不可避的な「無意識」によるのである。
(同上)

 産業資本主義においては、もはや「空間性」は問題にならない。産業資本主義は、剰余価値を遅速の差異、いわば時間的なタイムラグに見出す*14
 漫画にあってページの空間上に散乱していたコマは、線状的な「時間」の導入によって整列させられる。これがアニメーションが成した革新であるとともに産業資本主義の本質である。
もう少し詳しく考察すると、流通過程における取引、つまり商人資本においては、「W1(商品)―G(貨幣)―W2(商品)」というマルクスのマテームで表されるが、ここでは未だに「貨幣としての貨幣」であって貨幣の自己増殖、つまり貨幣の資本への転化の契機は見られない。これに対して産業資本主義、つまり「資本としての貨幣」では「G―W―G’(G+△G)」というマテームで示すことができ(△Gは剰余価値)、この貨幣の究極の目的はいまや価値増殖にあると云える。この「W1―G―W2」から「G―W―G’(G+△G)」への転倒は何によって成されるか。それが「時間」に他ならない。アニメーションを思い浮かべてもらいたい。アニメの映像は静止絵の自己運動によって成り立っている。あなたが一瞬スクリーンから目を離したり、目をつむったとしても、映像は一切お構いなく運動し続ける。ここにおいてはもはや、アニメーションは主体=視聴者の意識とはまったく無関係なところで自己運動=価値増殖を続ける自律した運動体であり、その点、読者の意識と直結した漫画は静的=スタティックであり前近代的なモデルであると云えよう。繰り返すようにこのような自律した運動を可能にするのが「時間」という要素なのだ。
 我々はアニメ=産業資本主義という地点に到達した。と同時に、アニメーションにおける「恐慌=作画崩壊」とはどのようなものか、という問いをも不可避的に要請される、されざるを得ない。私はアニメーションにおける作画崩壊はとりわけ重要な問題を含んでいると思っている。作画崩壊は単なる技術的欠陥による例外的な現象ではない。

われわれは、マルクスが「恐慌の可能性」とよぶ条件が、実は剰余価値の条件でもあることをみてきたはずだ。資本を可能にしている条件が、恐慌の条件なのである。いいかえれば、「正常」を可能にするものが、「異常」を可能にするのだ。
(同上)

 恐慌=作画崩壊は、「運動」にアプリオリに内包されている、という視点を看過すれば、アニメ批評は必然的に陥穽に落ちるであろう。作画崩壊はアニメのリミット=臨界点を指し示すとともに、アニメーションの運動を支える基盤そのものをもおびやかす、その意味でフロイトが呼んだ「不気味なもの」と相似である。しかし重要なのは、作画崩壊を、既存の線形的な運動やリズムを壊乱する肯定性として規定し直すことであり、作画崩壊そのものを批評原理として打ち立てること、またそのためにも本当に単純な技術的な欠陥のために発生した作画崩壊と、肯定性を湛えた作画崩壊を見分ける眼球の訓練などが焦眉の課題となろう*15
 また一方では、アニメの作画崩壊は資本主義のメカニズムと限界に関する実り多い考察の余地を我々に与えてくれるはずだ。アニメの構造を解明すれば資本主義の構造も解明できる。決して逆ではない。現代のグローバル化した資本主義に対する真にアクチュアルな批判を行うためにもアニメーション(特に日本の深夜TVアニメ)の分析は必須であり、世の怠惰なマルクス主義者はこの点を看過している。と云っても、我々はこのテーマの研究に関しては未だその端緒についたばかりである。さらに掘り下げた研究成果を提示するには別の機会を持たねばならないだろう。よって、以上のような暫定的な考察を以ってこの記事をひとまず終えなければならない。

*1:有感地震の統計はあくまで我々の閾値上の揺れの統計であり、閾値下、つまり無意識下においてはこの数字の何倍もの微分的な揺れを我々は絶えることなく体感していると思われる

*2:ちなみに日本における有感地震の1年平均は1000~1500回。しかし去年(2011.3.11~2012.311)は一万回を超えているという

*3:この手の論客は自分たちの手垢が付いて黴が生えまくったゼロ年代批評をテン年代においても温存しようと涙ぐましいまでに腐心している既得権益主義者に過ぎない。このような今現在日本に瀰漫している尻の穴から湧き出た蛆虫のような低劣批評はゼロ年代批評の残滓としてまとめてゴミ箱に叩き込んだほうが良いのではなかろうか

*4:しかしよく考えてみるとヲタ芸からして特定の対象(例えばアイドル)を応援するという目的を最初から含み込んだ踊りなので応援団の三三七拍子に近づくのは当たり前のことだと思い至った

*5:椹木の論における教会モデルとサーカスモデルは、それぞれドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス」における劇場モデルと工場モデルに対応しており、また、ロックにおける「ステージに登場する人物への視線の集中」といった分節構造とクラブにおける分節構造の破綻は、それぞれ「千のプラトー」におけるツリー・モデルとリゾーム・モデルに対応している

*6:以下は大友良英のインタビュー時の発言からの抜粋である。「あと、クラブとかになると、ピリピリいってればいいという(笑)。知らないかもしれないけど、床スピーカーというのが日本では普及してて、防音対策で、少しでも低音を外に漏れないようにするには、スピーカーから音量を出さないで、床を振動させるの。だから音は小さくしか出てないんだけど、低音のある音域と同時に床振動させると低音があるように錯覚するんだよね。実際の振動は音としては出てないんだけど、体では出ていると錯覚しているわけ。」(「貧しい音楽」大谷能生)スピーカーではなく床そのものを振動させる床スピーカーの日本における普及と無意識下で常に閾値下の地震の振動を感じている日本人の身体感覚との関連性と親和性を私たちは考えてみる必要がある。その意味で(かは知らないが)昭和初期の時点で「振動魔」を執筆した海野十三の視点は卓越しており現在もアクチュアリティを保っている

*7:「テクノボン」石野卓球 野田努

*8:パラノとスキゾの往復運動については「アンチ・オイディプス(下)」(河出文庫)のp.120ページを参照されたい

*9:http://animeng.blog5.fc2.com/blog-entry-862.html([レポート]公開沓名塾:日本のアニメ文化をニッチに楽しむ色んな方法)

*10:日本アニメ史上、うつのみや理を端緒とするアニメ的リアリズムについて、それ単独で論じた批評文がこれまでにいくつあっただろうか。このテーマは、日本近代文学史における坪内逍遥による写実主義二葉亭四迷が開拓した言文一致、さらには正岡子規に端を発し高浜虚子などの弟子に受け継がれる客観写生運動と同じくらい重要な問題である。ちなみに、映画においてはカメラ自体が「リアル」そのものを写し出してしまうので「写生」や「リアリズム」は問題になり得ない、という意味で「アニメは映画よりも圧倒的に文学に似ているメディアである」、という仮設的なテーゼを提示しておこう

*11:宇野はこの後、街頭で家族を抱き抱えながら「これだけが宇野浩二の家族だぞぉ!」と慟哭しながら発狂したが、幸い措置入院ののち、当時梅毒治療として主流であったマラリア療法によって完治した(ちなみに同じく梅毒をマラリア療法によって完治した日本人に大川周明がいる)。このエピソードは悲劇的であるとともにどこか喜劇的ですらある。その点、守るべき家族もなく見知らぬ馬に取りすがるしかなかったニーチェはまさしく悲劇であった(しかも当時はマラリア療法はまだ無かった)

*12:この辺りの記述は作画@wikiを参照した

*13:小林泉美の「iK.i」というアルバムはホルガー・ヒラーがプロデュースしている

*14:例えばケインズ経済学における「乗数効果」などもこれに含めることができるであろう

*15:作画崩壊に関しては以前の記事も参照されたい http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2012/10/04/211008