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甘美なる死

フーコーの晩年における「自殺」に関する発言を適当に抜粋してみる。

フーコー:しばらく前から頭を離れないことの一つは、自殺するのがどんなにむずかしいものか、自分にもわかってきたということなのです。手近な自殺の方法に何があるか、ちょっと数え上げてみましょう。いずれ劣らずぞっとしないものばかりですが。ガス、これは隣人に危険を及ぼす。首吊り、これは翌朝死体を発見する家政婦の身になってみればやはり不快なものです。窓から身を投げる、これは歩道を汚します。しかも自殺は社会の側からはもっともネガティブな見方をされてもいるわけです。自殺するのはよくないことだと言われるだけでなく、もし誰かが自殺するなら、それはよほどひどいことになっていたからだと思われてしまう。

W・シュレーター:不思議な話をなさいますね。というのもぼくはちょうどアルベルト・バルサックという友人、これは僕の映画や演劇で衣裳係を務めている女性なのですが、この人と、最近自殺した二人の友人について話し合ったばかりなのです。
 ひどく落ち込んでいる人に、自殺する力があるということが理解できないのです。僕ならば恩寵の状態、最高の快楽を味わっている状態でしか自殺はできないでしょう。落ち込んでいるときにはとても無理です。

G・クーランジャン・ユスターシュの自殺が一部の人たちに非常な驚きをもたらしたのは、自殺に先立つ数日、彼が元気を取り戻していたからでした。

フーコージャン・ユスターシュは元気になって自殺したのにちがいありません。あんなに元気だったのにと、まわりの人たちは理解できない。実際、そこには認めることのできない何かがあるのです。自殺ほど美しく、従ってこれほど注意深い考察に値する行為はないと人々に再教育するための、真の文化的闘争に私はくみするものです。人は一生かけて、自分の自殺を練り上げなければならないのです。
(「ヴェルナー・シュレーターとの対話」ミシェル・フーコー思考集成〈9〉所収)

――結局のところ、社会保障はどのように人間倫理に貢献しうるのでしょうか?

フーコー:(……)私は社会保障はいくつかの問題を提起する、人生はなにに値するのか、ひとはいかに死に立ち向かうべきかという問題を提起することによって、すくなくともそれに貢献していると言っておきましょう。
 個々人と決定の中枢との接近という考えは、すくなくとも結果としては、好きなときにしかるべき条件で自死する権利が、やっと各人に認められることを前提としています……。もし私が宝くじで巨万の金を獲得したなら、死にたいひとびとが快楽のうちに、たぶん麻薬漬けで週末、一週間、もしくは一月を過ごしにやってきて、その後まるで消え去るように他界する施設を創立することでしょう。

――自殺への権利ですか?

フーコー:そうです。

――現代人の死に方については、なんと言うべきでしょうか?しばしば病院での、家族の付き添いもない、あの人間味のなくなった死についてどう思われますか?

死は非=出来事になっています。事故でない場合には、ひとは概して医薬品に覆われて死んで行きます。その結果、数時間、数日、あるいは数週間も完全に意識を失ってしまいます。消えてなくなるのです。私たちは医療および薬品が死に伴うことで死から多くの苦しみと劇的なものが取り去られる世界に生きているのです。
 死の「人間味の喪失」について、なにか統合的で劇的な大儀式のようなものが参照されつつ言われるすべてのことに、私はそれほど同意しません。棺のまわりでのけたたましい涙は、かならずしもある種の臆面のなさを免れているわけではありません。そこには遺産相続の悦びがまじっているかもしれないからです。私はその種の仰々しさよりも死去の穏やかな悲しみのほうを好みます。現代人の死に方は、こんにち通用している感性、価値体系をはっきり示しているように思われます。懐古的な心の高ぶりのなかで、もうどんな意味ももっていない慣行を再現したいと望むことには、どこか空想的なところがあります。
 それよりも、死=消失に意味と美を与えようではありませんか。
(「無限の需要に直面する有限の制度」同上)

映画作家のダニエル・シュミットに会ったときに、数分後、彼と私は、私たちが本当に何も語り合う必要はない、と気づいたものです。こうして私たちは、午後三時から深夜までのあいだを共に過ごしました。酒を飲み、ハッシシを吸い、夕食を取ったのです。そして、この十時間のあいだ、私たちは二十分以上は話をしなかったと思います。これがかなり長い友情の出発点でした。私にとって、まったくの沈黙の関係の中で友情が生まれたのはこれが初めてのことでした(……)。
 沈黙とは不幸にも、私たちの社会が放棄してしまったものの一つであると思います。私たちは沈黙の文化を持ち合わせていませんし、自殺の文化も持ち合わせてはいません。日本人はそれらを持ち合わせています。
(「スティーヴン・リギンズによるミシェル・フーコーへのインタビュー」同上)

フーコー:(……)実際、私は本当に快楽を経験することがほとんどありません。快楽とは。私にとって極めて難しい振舞いだと感じられます。それは事物を享受するほど単純なことではありません。告白しなければなりませんが、それは私の夢なのです。私は、どのようなものであれ快楽を死ぬほど味わって死にたいし、またそう望みます。というのも、それは極めて困難なことだと私には思えるからであり、また、私が真の快楽、徹底して完全な快楽を感じることがないという印象をつねに持っているからです。そして、この快楽は、私にとって死に結びついています。

――なぜそのようにおっしゃるのでしょうか。

フーコー:私が真のものだとみなすような種類の快楽は極めて深遠、強烈で、完全に私をおし包むようなものであって、私はそれを生きて通り越すことはできないだろう、と思うからです。私は死んでしまうかもしれません。よりはっきりした単純な例を挙げましょう。かつて私は街頭で車にはねられたことがあります。私は立ち上がって歩きました。そしておそらく二秒ほどのあいだ、私は死んでいくのだという感じを抱きました。そして、私は本当に、とても、とても激しい快楽を感じたのです。それは目眩めき時間でした。
(同上)

一読して明らかなように、フーコーにとって「自殺」は徹底的に「美的なもの」として捉えられている。それは倫理と相反しない、しかし社会に迎合するような通俗的道徳から常に逃れ出る、そのような美的倫理である。わたしの死を制作すること、それはアート(技芸)に関わる。

現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実にわたしは驚いています。技芸が芸術家という専門家だけがつくる一つの専門領域になっているということにも驚きます。しかし個人の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜ一つのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、わたしたちの人生がそうではないのでしょうか。
(「倫理の系譜学について――進行中の仕事の概要」同上)

またこのようにも語る。

私は自分の存在そのものを作品にしている人たちと、人生の中で作品を作っている人たちとを区別しません。存在は完璧で崇高な作品となりうるのです。
(「ヴェルナー・シュレーターとの対話」同上)

フーコーはこのような美的倫理を持ち合わせた文化の参照先に古代ギリシャや日本を選ぶ。フーコーが日本のラブホテルに霊感を受けて、死を選んだ人間が最後のときを過ごすために集う、一種の美的共同体のための場所を、「かくも単純な悦び」と題された奇妙だが詩的な文章において提唱していたことは比較的よく知られている。

あまり資力のない者たち、あるいは長すぎた反省に倦み、出来合いの方策に身を任せる気になっている者たちのために、日本人が性のために設け、「ラブ・ホテル」と呼んでいるような幻想的な迷宮がなぜ存在しないのだろうか。もっとも、日本人の方がわれわれよりも自殺に通じているというのは事実だが。
 諸君に東京のシャンティイー(パリの北方にある美しい城館)に行く機会があれば、私の言いたいことがわかるだろう。そこでは、ありうべきもっとも不条理なインテリアに囲まれて、名前のない相手とともに、いっさいのアイデンティティから自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所、そうした場所の可能性が予感されるのだ。そこで人は何秒、何週間、あるいは何ヶ月におよぶかもしれない不確定な時間を過ごすだろう。逸することができないと直ちにわかるであろう機会が、絶対的な自明さをもって現れるまで。その機会は、絶対的に単純な悦びという、形なき形をもっていることだろう。
(「かくも単純な悦び」ミシェル・フーコー思考集成〈8〉所収)

死は煌めく一回生の<出来事>である。あたかも芸術作品のようにわたしの死を能う限り磨き上げること。そうすれば、死はそれだけかくも「甘美」なものになりうる。