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妄想とアーカイヴへの欲望

1 妄想は社会的な産物である

統合失調症者の妄想は非論理的で荒唐無稽な代物に過ぎない、と一般には思われがちな気がします。しかし本当にそうなのでしょうか。しょせん統合失調症者の妄想は社会から隔絶された狂気が生み出したSFじみた絵空事でしかないのか。僕はそうは思いません。むしろこうはっきり言いましょう。統合失調症者の妄想は純粋に社会的な産物である、と。何もこれは僕個人だけの考えではありません。かの精神分析家ジャック・ラカンはこう言っています。

そこで、こまかく見ていくと症状はなんらかの知覚、たとえば、無生物や感情的意味あいのない対象に関してだけではなく、もっぱら社会生活の諸関係、つまり家族や仲間や隣人との関係について現れることがわかる。… 解釈妄想は、われわれが別のところでも述べたように、踊り場や街路や広場の妄想なのである。ジャック・ラカン「二人であることの病い」)

言うは容易い。なので実際に例を挙げて妄想がいかに社会的にコード化されているのかを実証してみたいと思います。こちらをご覧下さい。
【1541】皆と同じようにipodの手術を受けたい
皆さんは一読してみたあと軽く冷笑してこうお思いになるだろうと思います。ふむん、なんだ、まさにこれこそ典型的な狂人のナンセンスな世迷言ではないか、と。本当にそうでしょうか。確かに瑣末な細部にこだわるとそう思えなくもない。しかし彼女の妄想の骨幹の主旨はこうです。私も皆さんのようなipod的な脳にしたい。しかし私がこう言っても皆さんはまだ首をかしげる、もしくは我慢たまらず激怒してこう叫ぶ。だからそれこそが狂人の戯言だと言うのだ、と。しかしもう少し辛抱して私の以下の文章を読めば少しは納得されるはず、少なくとも私はそう願います。

2 我々はipod的な社会を生きている

いきなりポストモダン論めきますが(事実、この記事はある種のポストモダン論なのですが)、我々は現在ポストモダン的な社会を生きている、と一般的には言われています。しかしそもそも「ポストモダン」とはなんなのか、と言い出すとこれまた議論百出、喧々諤々の様相を呈してきますので深入りは避けますがかなり大雑把に言うと「大きな物語の消滅」「情報の並列化とアーカイヴィング化、もしくはデータベース化」とまとめることができるかと思います。ここで少し唐突ですが音楽シーンにおけるリヴァイバル・ブーム(10年前の曲が今流行ったりする、あの現象)について、菊地成孔大友良英大谷能生が交わした対談から少し引用しておきましょう。

大谷:少し話を戻すと、10年前のサウンドを持ち出してきてもいまは全然オッケーってことになっているのは、線状的な歴史観みたいなものが薄くなって、ほとんど並列的に過去が処理されてるってことだと思うんです。音楽においても。
大友:循環ということでもなく?
大谷:循環でもなく、こう上から自由に見渡せるような形のパースペクティヴがあって、で、たまにピョコッと出ているものがある、みたいな感じで。
菊地:いまは線状性でも循環性でも捉えられなくなってきた気がする。
大友:それはすごくインターネットっぽいじゃないですか。
大谷:ipodっぽいですよね。最初からシャッフルされてて、さらにその中からランダム・アクセスできるっていう。
菊地:要するに、アーカイヴィング化だよね。
(「ユリイカ2005年3月号 特集=ポスト・ノイズ 越境するサウンド」)

「アーカイヴィング化」というのは東浩紀の語彙で言い直すと「データベース化」ということになるでしょうか。本当は全文引用したいのですがそれだけ記事が埋まってしまうので他にも気になった部分を所々引用してみることにしましょう。

菊地:アーカイヴィング化には快楽と安心があるから、裏返しにものすごい不安がある。「この先どうなるんだろう」という、あと一歩でもう死ぬというような意味の極端な不安がアーカイヴィングの中にはあって、その代わりアーカイヴの中にいる時は、自分史編纂だからすごい生きている感じがするんだよ。

菊地:本当にノー・フューチャー。アーカイヴと言ってもセルフ・アーカイヴだからね。言ってみれば自己史編纂だから本棚と同じ。だからアーカイヴする根拠は、自分が読んだということと、自分が書誌学的に知っているということ以外まったくなくなってしまう。本当はアーカイヴ化ということの源流をたどれば、博物学的な立場の人が自分の個人史を超えた世にある全知全能を集めようとする意欲があってアーカイヴというものが生まれるんだけど、いまやっていることは個人史を編纂するということで、一見よさげだけど、最も意味がないというか、極端な話、不安しかない。そのための装置がバカ売れしてるわけだよね。

最近「読書メーター」などの本棚を自己史編纂するウェブサービスが人気を呼んでいますね。あれもアーカイヴィングへの欲望を満たす装置として、見事にポストモダン的な時代にマッチしていると言っていいでしょう。さらに少し文脈がズレるようですが漫画「苺ましまろ」を一例にして現代におけるある種のセルフ・アーカイヴィングへの欲望を見てみましょう。

これは「苺ましまろ」の作者ばらスィーが刊行した同人誌「SWEET ROSE」の1ページです。ご覧のとおり、作者が執筆中に聴いたと思われる音楽の名前がひたすら羅列されています。これは作者に魔が差したとか一種の出来心とか一時的な酔狂では断じてなく、この同人誌中に何ページも同種の固有名詞の列挙が観測できますし、同人誌ではない連載作品でも音楽CDのジャケット絵を模したポスターとして作品中に(固有名詞ではなくイマージュとして)挿入されていることは苺ましまろファンの間では常識でしょう。ジャンルが飛ぶ上に蛇足ぎみですが推理小説作家・殊能将之の作品にも同種の傾向が見られ、こちらでは巻末の参考文献の過剰(かつほとんど無意味)なまでの列挙が特徴的です。これらはアーカイヴ化への欲望であるとともに一種の固有名詞へのフェティシズムでもあると思うのですが、これは今後のテーマとしておきましょう。

3 統合失調症者はセルフ・アーカイヴを苦手とするか

かつて精神科医・中井久夫は分裂病(今でいう統合失調症)になりやすい分裂病親和者の人間学的形態を「先取り的な構え」と捉え、それを「微分回路」と呼びました。以下は中井久夫の一人会話調の文章からの引用

微分回路は、認知手段としては、時進み回路というくらい、先取りなんだ。航空機の速度計がいい例なんだが、少し前の値を予測によって出す。重要なことは、先行経験にほとんど依存しないということだ。ただ、このタイプの認知には固有の限界がある。もしリアルタイムにおける絶対確実な予測を求めれば、まったく答えが出ない。あたりまえだ。そして、これに近づこうとする時、ホワイト・ノイズを拾って予測が狂う。つまりある精度以上の予測を求めれば全体が壊乱するのだ。それから、微分不能の突変入力にもよわいね。動くものだけを認知する蛙はひょっとすると微分回路的認知で生きているのかもしれないね。蛙の場合は別のシステムを考えられないのではないのだが、とにかく生命としてはかなり古いものではないかね。比較的少数のニューロンを使う場合に効率がいい外界対処の方法だろうね。変化のみを記録するから増幅すると動揺が拡大される。モーターにつないで、微分回路をコントローラーとする動力は不安定なのだ。長期的には非常に疲労しやすいシステムだ。」
なんだか統合失調症のひとの特性のかなりのところと似ているのではないかな。動揺と疲労しやすさと些細な変化に敏感で案外大変化に強いとか不意打ちにすごく弱いとか。」(中井久夫「徴候・記憶・外傷」)

対照的に鬱病や強迫症患者における存在論的形態は「積分回路」だと言います。

積分回路は、過去の体験を蓄積している。従って入力にたいしては過去のデータを参照して対応する。これは安定した回路だ。新しい入力内容がまったく未曾有ということはほとんどなくて、多少とも極端な一例というくらいが関の山だろう。そこで、突変入力も、多くの例の中で一例として埋没してしまう。入力を多くの中の一例とみるのは「パラディグマ指向性」で、積分回路的認知は「パラディグマ指向的」だ。だから積分回路はコンデンサによく使われるんだが、ワープロなんかも電圧の突然の急激な変化に備えて入り口にコンデンサを接続している。ただ、過去のデータを参照する作業をするから、やや時遅れだ。」
鬱病的だね。時遅れなんて、まるでハイデルベルクの精神病理学者テレンバッハの「レマネンツ」概念そっくりだ。状況にからめとられてどうしても遅れてしまう。英語のremainと同じ語源のことばだ。」(同上)

精神病理学者の木村敏も似たように分裂病における未来志向を「アンテ・フェストゥム」、鬱病における過去志向を「ポスト・フェストゥム」と呼び分けていることは周知の通りです。ここから見られることは統合失調症者は過去の体験の参照がとても苦手なのではないか、ということです。先の「私も皆さんのようにipodの手術を受けたい」と言っていた女性の妄想を思い出してみましょう。これはまさしくアーカイヴィング化(過去の体験の蓄積・参照・編纂)への欲望が蔓延している積分回路的ポストモダン社会から取り残された分裂病親和者(未来志向・先取り的な構え・微分回路)の悲痛な叫びと取ることも可能なのではないでしょうか。ipod」とは「セルフ・アーカイヴへの欲望」の隠喩であることは言うまでもないでしょう。

4 ポストモダン=スキゾ?

ポストモダンとは言ってみれば分裂病化(スキゾ化)のことだ、といったような議論が一時期流行ったように見えます。しかし本当にそうなのでしょうか。上に見たようにむしろ現代の社会は分裂病というよりは鬱病や神経症の病態に近いのではないか、と思うのですがこれも一面的な見方でしょうか。例えば東浩紀はスキゾではなく解離性障害に注目します。

分裂病とは精神病の一種なので精神病と言うべきですが、神経症と精神病の対立を「大文字の他者」の有無で思弁的に考えるというのは確かに流行しました。日本では、浅田彰さんのパラノとスキゾですね。それは結局は社会の中にいる人か社会から逸脱した人か、というハレとケのような二項対立なのでとてもわかりやすいわけですが、僕は今ではあまり興味がありません。
むしろ僕が今興味をもっているのは、多重人格や解離の現象です。解離は、何かトラウマが来ると、その場その場で人格をポンと切り離すようなシステムです。そこには神経症と精神病、トラウマの手前と彼方という二項対立がありません。主体全体の統合の有無とは無関係に、並列した自我の束をどんどんつくり出していくのです。したがってこれはラカン的には神経症の一種ということになるのですが、単にそれに留まらない意味があると思います。というのも、解離の症例は一九七○年前後から主にアメリカで増えてくる。したがってそれは明らかに、ポストモダン化と並行しています。そしてポストモダンの変化とはさきほども述べたように、一方で過剰に視覚化(スペクタクル化)され、他方で肝心な部分は非視覚化(情報化)される二重の変化です。これはおそらく、神経症と精神病の二つの病像にも変化を及ぼしたのではないか。(見えるもの/見えないものの対立軸では、もはや世界は見えなくなっている

さらに大澤真幸内海健鬱病をめぐる対談でも

大澤:… 私はあるところに文章を書いたのですが、それはスキゾはもはや未来のものではなく、ある意味で本当にやってきた、ただしドゥルーズ=ガタリや浅田さんの考えてきたものとはちょっと違った形、という内容でした。そこで具体的に何を念頭に置いていたかというと、『不可能性の時代』にも書いたのですが、いわゆる多重人格、解離性同一性障害のことです。これはもちろん病理としては統合失調症とは別のものですが、まさにアイデンティティが多重化していて中心をもたないという具合に、メタファーとしてのスキゾに込められていたさまざまな特徴がそのまま形になって現れてきたのだと言えると思います。(「現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー」)

解離性障害や新型鬱病ポストモダンの関係については今後のテーマとさせていただきますが、一つ言えることは脳をipod化させない限りこのポストモダン社会で生きていくのは困難だ、ということです。(追記:この記事の冒頭あたりで「統合失調症者の妄想は純粋に社会的な産物である」と書いていますがこれは「社会が統合失調症患者を生み出している」とかそういったことが言いたいのではありません、いちおう。妄想の内容はその患者が生きている社会構造や時代背景を反映する、といったくらいの意味合いです)