自殺の様式

 自殺においても様々なる意匠がある。といってもそれは首吊りであるとか飛び降りであるとかそのような外面的な様式の選択ではない。そうではなく、内的な、もっと云えば実存的な――その人間のパーソナリティと切っても切り離せない、強いられるものとしての様式である。それは自殺の動機を探るというような野暮で無粋なゴシップ的詮索とももちろん遠く離れている。自殺の結果でも原因でもない、内的なプロセスにこそ批評性が内在している。
 
 例えば芥川龍之介は事前の綿密たる用意と周囲への死後の配慮まで準備してから自殺した。その周到かつ隙のない用意と調査は一種ファナティックですらあり、またそれを通り越してユーモラスですらある。彼がもっとも恐れたのは蘇生、つまり自殺の失敗である(ここにも芥川の神経質的な完璧主義を見出すことができる)。100%死ぬ方法を知り得なければ無い。まず芥川の学究心は当時の薬品学や毒物学の博捜といった形で現れ、まさに博覧強記の作家芥川龍之介の面目躍如といった感さえある。そして彼の貪欲な知識欲と向学心はやがて薬学という領域を逸脱しはじめ最新の化学兵器にまで食指を伸ばしていく。例えば彼が生前書き残したメモには次のように書き記されている。(以下山崎光夫「藪の中の家」から孫引き)

○酸化炭素CO.2パアセント。薔薇色になって死ぬ(窒息)。
○Mustard-gas(Iprelite).lawisite.
○五六時間後より、目とのどとひふ、涙、嚔、鼻汁、咳、血へど死ぬ。八時間後皮膚障害、栗粒位の火ぶくれ(火傷の如く痛む)、一銭銅貨位になる。ニ日乃至四日死ぬ。5%~15%重症(六箇月)。
○Sneezing Gas,Vormitting Gas.三十分間戦闘を失ふ。(1000分の1あると。)
○Phosgene(瓦斯)(肺気腫)より染料を作る。(孔雀石。green.青、黄)平気で作る。死ぬ人かへり見られず。European War以来大変に重大視さる。○酸化炭素と酸素とにてphosgene.

 世界史において化学兵器が最初に大量使用されたのは1915年、第一次世界大戦におけるイーベル戦線でのドイツ軍による塩素ガスの使用だとされている。メモ中にあるMustard-gas(Iprelite)もPhosgeneもイーベル戦線で使用された毒ガス兵器である。Lewisiteはインターネットの某百科事典によると糜爛性毒ガスの一種で1918年ごろ米国の化学者W=L=ルイスが発明し1920年代にアメリカ軍によって実験が行われたらしい。要するに芥川は当時の国際的な化学兵器の研究内容をほぼリアルタイムで(どういうルートを使ってか)入手して自殺に応用しようとしていたと思われるわけで、これはもはやひとつの学、「自殺学」を打ち立てようとしていたのではないかとすら思えてしまう。芥川の学究心の前では完全自殺マニュアルすら霞んで見えてしまう。
 しかし実際の自殺の決行では無難に(?)青酸カリを使用したのだが。*1

 三島由紀夫はよく知られているように自己の徹底的なる演劇化のもとで割腹自殺を遂げた。これはあまりにもよく知られすぎているので割愛する。
 
 川端康成は前者のいずれにも属さず、ふと思いついたかのようにガス管を咥えそのまま死んでしまった。もちろん遺書もなく、机の上には書きかけの原稿があるだけだった。そこには芥川的な用意も調査なく、また三島的な自己演出化も微塵も見られない。要するに容易な意味付けを拒む、であるが故に上記の二人のいずれの様式にも当てはまらない。いやむしろ様式そのものを拒否するような逆説的な様式の自殺であるといえようか(もちろんこのような意味付けを拒否する自殺は、例えば臼井吉見「事故のてんまつ」のような過剰な意味付与への欲望を引き出すことも往々にしてある)。

 以上のように3人の自殺を概観しただけでも三者三様、3つのタイプの自殺があり、そのうえよく検討すれば各々の自殺の様式が彼ら自身の小説にも反映されていることすら明らかであろうが、さらに4人目としてここに永井荷風を加えたいと云ったら訝しむ向きもあるだろうか。なるほど確かに永井荷風は自殺者ではない。しかしその孤独な死は、それこそ自身の死(あるいは死体)をひとつの作品として図らずも提示してしまっている、という意味で荷風の死は自殺的であり、またある種の批評誘発性を荷風の死体は纏っている。現にフーコーは自殺とは自身を作品化するプロセスであるというようなことを云っている。(詳しくはこの記事を参照)
 荷風は死後検死写真を撮られて(当時の孤独死は変死扱いだったのだろう)その写真を週刊誌に載せられている。その死体写真について、これもどういう具合の因果か川端康成がコメントを寄せているのだ。(以下江藤淳「ある遁走者の生涯について」からの孫引き)

西洋の個人主義、自然主義をもっとも意志強固に執拗に、荷風氏は貫いたけれども、西洋のそのたぐひの芸術家のやうに、読んで寒気がするほど凄い作品は荷風氏にはないだらう。死の前の無意味に近い日記がむしろ不気味であらうか。死ぬ前のドガは盲であったが、指先きの手ざはりだけであの踊子の彫刻をつくった。ドガの冷い絵にも、言い知れぬ哀愁と憂鬱とはただよってゐる。しかし日本人の荷風氏らのそれとはちがふ。いやな見方だけれども、それにやや近づき迫らうとするのは、荷風氏のうつぶせの亡骸の写真のやうなものではないだらうか。
川端康成「遠く仰いできた大詩人」)

 評者の江藤淳はこの川端康成の文章を荷風に対する「辛辣な批評」と受け取っているようだが、私はむしろ荷風への最大の賛辞として読んだ。荷風は死体となって輝き出す。そこには三島のような自己演出化も政治的イデオロギーによる糊塗もない、真の芸術としての香気がある。

*1:参考文献:山崎光夫「藪の中の家」