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仏界易入、魔界難入

 人体欠視症――ふとした拍子に相手の体が透き通るように見えなくなってしまうという奇病に罹った木崎稲子は入院するために訪れた常光寺の境内にある気ちがい病院にて西山老人と出逢う。

 たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にはそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。
 (仏界易入 魔界難入)書く字はたいていこの八字である。西山老人自身はこれを、
「仏界、入りやすく、魔界、入りがたし。」と読んでいる。老人は白内障で目が霞んでいるが、その書は力がある。俗気、匠気がない。しかし、狂気はあるか。騒がしい字ではなく、気ちがいらしい字でもないが、よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれているのかもしれない。
 (中略)気ちがいたちも西山老人をはばかるけはいがあって、話しかける患者はすくない。もし、木崎稲子が老人に近づくとなると、稲子は声がきれいだから、老人をよろこばせるだろうか。しかし、おかしなことがおこるかもしれない。人体欠視症の稲子は、西山老人のからだが全く見えなくて、ただ、筆が動いて(仏界易入 魔界難入)と字を書くのが見える。そんなことがないとはかぎらぬ。そして、稲子に老人の姿が見えないで、筆と字とだけが見えると、老人にわかれば、あるいは西山老人は、今こそ自分が魔界にはいれたと、欣喜勇躍するのではないだろうか。
(「たんぽぽ」川端康成

なぜ、稲子に老人の姿が見えないことが、即ち老人が魔界に入れたということを意味するのか。それは不可避的に川端康成自身の視線の在り方、さらに云えば「目玉」に直接関わってくるように思われる。
 川端康成の眼力の強さは、泥棒や貸家の大家の取り立てをひと睨みで撃退した等の逸話とともにしばしば言われてきた。しかし、対象を見つめる行為は、必然的に対象に見つめ返されることを伴う。

 娘が突然、首を真直ぐにしたまま袂を持ち上げて、顔を隠した。
 また自分は悪い癖を出していたんだなと、私はそれを見て気がついた。照れてしまって苦しい顔をした。
 「やっぱり顔を見るかね。」
 「ええ。――でも、そんなでもありませんわ。」
 娘の声が柔らかで、言うことが可笑しかったので、私は少し助かった。
「悪いかね。」
「いいえ。いいにはいいんですけど――。いいですわ。」
(「日向」川端康成

 川端康成とて自意識はやはり存在したし、それを抹殺することはできなかった。川端が「傍らにいる人の顔をじろじろ見て大抵の者を参らせてしまう癖」が付いたのは、幼少の頃の盲目の祖父との生活に起因するという。

 祖父は何年も同じ部屋の同じ場所に長火鉢を前にして、東を向いて坐っていた。そして時々首を振り動かしては、南を向いた。顔を北に向けることは決してなかった。ある時祖父のその癖に気がついてから、首を一方にだけ動かしていることが、ひどく私は気になった。度々長い間祖父の前に坐って、一度北を向くことはなかろうかと、じっとその顔を見ていた。しかし祖父は五分間毎に首が右にだけ動く電気人形のように、南ばかり向くので私は寂しくもあり、気味悪くもあった。南は日向だ。南だけが盲目にも微かに明るく感じられるのだと、私は思ってみた。
(同上)

 川端はこのとき稲子ではなく西山老人の位置にいる。そしてそのとき恐らく川端は魔界にいたのだ、いや、もしかしたら川端の祖父も。少なくともそこには魔界的な「場」が形成されていたに違いない、というほとんど直感にも似た確信を私は抱く。

                  ∴

 「苺ましまろ」は<魔界>である。

 この漫画を読む楽しさは、勝手に遊ぶ小動物を眺める気分に近い。主要な男性キャラクターは存在せず、しかも少女たちの内面描写が極めて薄いため自己投影にはかなりの努力を要するだろう。(……)読者はただただ可愛い少女たちの無限に引き伸ばされた日常を覗き見するだけだ。構造的にいえばピープ・ショウであり、読者の立ち位置はまさにササキバラゴウの「視線化する私」である。(……)「私」は二重三重に守られた「視線」として、幽霊のように「女の子で一杯の世界」を彷徨い歩く。これは言い換えれば不能者のハーレムである。
(……)もちろん、『苺ましまろ』は通常の意味でのポルノグラフィではないし、エロ漫画でもない。しかし、逆説的に言えば、不能であるが故に、無限遠に止められた欲動の「寸止め」であるが故に、極めて猥褻なのである。
(「エロマンガ・スタディーズ永山薫

 上記の引用の、「視線化した私」と、「苺ましまろ」はエロ漫画である、という指摘は示唆的であり興味深い。これを例えば下記の引用と照らし合せてみると、苺ましまろ川端康成の親近性は明らかになる。

 京の祇園で、舞妓を十何人か集めて、お座敷の一方に一列をならばせる。川端さんは、彼女等の一間半ほど手前に正坐して、あの目で舞妓の顔を、姿を、一人ずつ順々にながめてゆく。視線が、彼女等の一人のこさずを充分見きわめると、またもとに戻って、順から順々に目を凝らす。その間、何も言わない。娘たちもだんだん、不気味になって来る。しんとしてまう。やがて、二時間か三時間かの、重苦しい沈黙が積み重なる。と、川端さんは急に微笑をうかべて、
「ありがとう。御苦労様。」
(「川端康成と女性」澤野久雄(福田和也「日本人の目玉」からの孫引き))

 しかし「苺ましまろ」をエロ漫画とするのはいいとしても、「不能であるが故に、無限遠に止められた欲動の「寸止め」であるが故に、極めて猥雑な、不能者のハーレム」とする論旨はどうだろうか。そもそも不能者には欲動がない。それに(たとえ欲動があったとしても)、「不能者」というエクスキューズの裏側に「無限遠に止められた寸止め状態の」勃起した男根を誇示する態度は、単純に欺瞞でしかないのではないか。そしてこの欺瞞には、常に「射精」という特権的な「終わり」が、近代的な弁証法に裏付けられた目的論的思想(さらにはそこからの発展段階としてのセカイ系的な終末思想)が、裏面のようにべったりと貼り付いている。よって、ここではあえて福田和也川端康成論「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」に倣って、「苺ましまろ」を、常にイキ続ける、射精を恐れないエロ漫画として定義付けたい。それは特権的な「終局=射精」という弁証法的なコードに支配されない、始めもなければ終わりもない「純粋持続」としての、言い換えれば「魔界」としてのエロ漫画を提示する試みにもなろう。
 常にイキ続けるエロ漫画とは一体なんなのか。それは無限遠に止められた寸止め状態の、つまり無射精のエロ漫画を安易に裏返しただけではないのか、という疑問はさしあたり宙吊りにしておいて、ひとまず従来のエロ漫画における前提=お約束を再確認しておきたい。
 エロ漫画をエロ漫画として成り立たせているアプリオリな条件、それはもちろん終局における「射精」に他ならない。エロ漫画は云うまでもなく使用者の身体と、フィジカルかつリズミックに同期する、しなければならない。これはエロ漫画におけるコマ展開のタイム感と、使用者の身体のタイム感が同期するということであって、エロ漫画読者なら日常的に体感していることだからわざわざ説明するまでもないと思うのだが、まあいい。問題は、使用者の使用意図からいって、漫画内における射精は終局の一回のみでないと、都合が悪い、ということである。なぜなら射精が何回にも分かれて分割されると、身体とうまく同期できなくなるからだ。もちろん射精が二回や三回に分かれているエロ漫画はたくさん見られる。しかし、一回目は手こきorフェラで二回目は本番の膣内射精、というように、やはり最後の射精に特権的なウェイトが置かれていることは否定できない。これは取りも直さず、否定性(=寸止め)が止揚(=射精)によって克服されるという近代的な弁証法システムそのものを指し示している。エロ漫画は、極めて近代的なモデルに支えられたメディアだと云える。
 とは云っても、ポストモダンの時代にはやはりポストモダン的なエロ漫画も出てくるのであって、さしあたってここでは赤月みゅうとの作品を一例として採り上げることにしたい。赤月みゅうと作風を単刀直入に云うなら、とにかく主人公が際限なく射精しまくることである。例えば一話読み切りの「愛のメモリー」は36ページ中10回射精している。これは3.6ページに一回の割合で射精している計算になる。しかしこれは回想込みの作品だからいいとして、ハーレムを描いた「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」になると、カラーの4ページ中6回も射精しており、中には1ページが3つのコマで割られており、その総てのコマで射精しているというシーンもある。もっとも、これはハーレムものに付き物の制約であるという反論もあるだろうが、マンツーマンのセックスを描いたカップルものの「モラトリアム少年×少女」においても、一回のプレイ中におそらく約8回近く(正確な回数は測定できなかった)射精していることから鑑みても、赤月みゅうとの作品中の主人公は超絶絶句の絶倫の持ち主であることは疑い得ない。
 以上に見られる事態は、使用者の身体的リズムを壊乱し、一回きりの射精に支えられた単線的かつシンプルなリズム構造を廃棄し、代わりに複雑かつポリリズミックなリズム構造をエロ漫画に導入する。しかし、エロ漫画という媒体が使用者の身体性に直接依存している限りは、やはり複雑なリズム感を持った作品はシーンの中で支配的になりにくい(使用者の身体を直接改変できる技術が到来すれば話は別だが)。事実、現状のエロ漫画シーンは従来の一回性の射精に支えられた弁証法的な構造が未だに支配的だというのが私の印象である。*1
 然れども、エロ漫画というジャンル的制約に囚われないのなら話は自ずと異なってくる。実際、エロ漫画というジャンルの外に目を向けてみると、一回性の射精に囚われない、エロ漫画ならざるエロ漫画に出逢う。前記の「苺ましまろ」もその内のひとつである。

                  ∴

 なぜアニメーションは持続するのか。一枚一枚は止まっている静止絵だというのに。そこには当然「純粋持続」がなければ。あらゆる対象物を貫く、魔的な視線、<末期の眼>*2が。
 ポール・ヴィリリオによれば、ポストモダンにおいては時間の旧来のシステムが大きな変貌を遂げているという。

実際、私たちの平凡な日常生活の中のあちらこちらで、歴史の外延的な時間から、瞬間という歴史を持たない凝縮した時間への移行が最新技術を通して行われている。
(「瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方」ポール・ヴィリリオ

 私は歴史の衰退は支持しえても、「瞬間」の特権化には首肯しかねる。むしろ私がここで代わりに提示したいのは「純粋持続」である。持続という概念を導入しなければ、アニメーション、特に日本におけるジャパニメーションの時間と運動の論理の関係をうまく理解することはできないように思われる。例えば斎藤環は、アニメという視覚メディア固有の運動性について述べた文章の中で次のように言っている。

 きわめて多くの漫画と、その影響下にあるアニメに共通する志向性がある。「無時間性」への志向である。そう、イマジネールなものとは、ほんらい無時間的なものなのだ。
(「文脈病」斎藤環

 以上のように斎藤は日本のアニメは無時間的であり、よって運動性を抑圧していると述べており、さらにアニメにおける止め絵の多様をその例証に挙げ、その反証例としての(止め絵を用いない)宮崎アニメを、時間性があり、よって運動性があるアニメとして擁護している。しかし、私見によればこれらは必ずしも正しくないように思われる。例えば、TVシリーズ「エヴァンゲリオン」22話におけるエレベーターのシーン、このカットは一枚の止め絵を約50秒間に渡り延々と流し続けるという異例のものであったが、ここには紛れもなく純然たる時間が流れていなかっただろうか。*3なるほど確かにこのカットには運動はない。だが運動性=時間性という図式はいささか単純にすぎ、両者を混同するところに生産的なアニメ批評は成り立たない。日本のアニメにおける時間性が運動性に依存しないことを示すひとつのエピソードを挙げておこう。

 日本の観客は、アメリカのように即物的はありません。セリフが合ってなくても、少々変な動きをしても、心の中で「本当はこうなっているのだ」と想像でおぎなって勘弁してくれます。雰囲気さえよければ主人公の気持ちを察して「動かないことを」追求したりしません。
 これがアメリカですと、セリフが合ってないだけでブーイングがきたり、わずかな「止め」でも映写機が壊れたのか、と劇場で後ろを振り返る人がいるほど、たえず動いてなければ気がすまない、といううるさいお客さんがたくさんいます。
(「作画汗まみれ」大塚康生

 日本におけるテレビアニメーション黎明期の、本来は東映アニメーション側の嘆きを物語るエピソードなのだが、図らずも日本人の特異な時間感覚を垣間見せてくれる。これらを単純に漫画の影響下うんぬんの議論に還元してしまうのは早計に過ぎよう。大体、前述の斎藤環テレビアニメーションにおける3コマ打ちアニメーションと東映やジブリに代表される2コマ打ちアニメーションの「差異」すら採り上げずにアニメ固有の「運動性」について論じようとしている。フレームレート8枚の3コマアニメは当然フレームレート12枚の2コマアニメより「運動性」は低い。しかしだからといって、テレビアニメーションが東映のそれより質的に低い、という風に短絡させることは無謀なはずだ*4。さらに念のためもうひとつ傍証を挙げておこう。

 ――:最終話の空港のシーンのスローは、冒険だったと思いますよ。
 平尾:ああ、スローは大好きです。延々スローとかやってたいですね(笑)。スローをやる事で、日常の風景が急に劇的な瞬間に変わるのが好きなんですよ。
 ――:でも、テレビアニメでは一番やっちゃいけない事ですよね(笑)。
 平尾:(笑)。
 ――:というか、基本的にはできなかったはずですよね。出崎(統)さんの作品に、コマ落とし的なスローはよくありましたけど。
 平尾:最終話の演出は高橋タクロヲさんなんですけど、演打ちの時に、最後のスローはコマ落ちじゃなくて、全部動かしてくれって話をしたのは自分です。1回やってみたかったんですよね。編集の今井(剛)さんには、「スローには見えない」って言われましたけど(苦笑)。
 ――:ゆっくり歩いているように見えるんですね。
 平尾:スローを表現するのは、アニメで一番難しいのかもしれないですね。
(「まなびストレート! DIRECTORS' WORKS」平尾隆之のインタビューから)

 アニメではスローモーションを表現できない。蓮實重彦はかつて映画におけるスローモーション演出の「不経済性」を指摘していたが*5、アニメにおけるそれは(枚数の蕩尽という意味でも)「不経済性」の最たるものだと云える。なぜアニメではスローを表現できないのか。それは、アニメが固有の時間性を保持しているからである。「瞬間」でも「無時間」でもない、純粋なる<持続>がアニメのスクリーンの底の底で常に流れているのである。
 補助線としてドゥルーズを援用しておくと、以上の議論はドゥルーズ「シネマ」における「運動イメージ」から「時間イメージ」への移行にほぼ当て嵌まると思うのだが、しかしこのアナロジーはあくまで近似値でしかないことに注意して頂きたい。以下、乱暴な要約を試みるが、まず「運動イメージ」とは、第二次世界大戦以前の古典的な映画を支配するイメージであり、その特徴とは一言で云って「感覚」と「運動」の一致である。上の議論に照らし合わせるなら、「時間性」=「運動性」の一致であり、斎藤環のアニメ観に近いように思われるが、念を押すようにこれらは近似的なアナロジーでしかない。しかし、第二次世界大戦の終結とともに、「運動イメージ」に代わるあたらしいイメージが現れる。それが「時間イメージ」である。それでは「時間イメージ」とはどのようなイメージなのか。國分功一郎の簡潔な要約を引こう。

 ドゥルーズは運動イメージから時間イメージへの移行を、哲学史におけるアリストテレス的時間概念からカント的時間概念への移行に重ねている。運動イメージにおいては、時間は間接的に示されるに過ぎない。つまり、行動Aから行動B、そして行動Cへという運動がまずあって、それに付随するものとして時間が現れる。ドゥルーズはこれを指して、「時間が運動に従属している」と言う。これは「運動の数」として時間を定義したアリストテレスの時間概念に対応するのに対し、時間イメージにおいては、純粋な空虚としての時間が直接に示される。つまり、「運動が時間に従属している」。これは感性の純粋形式として時間を定義したカントの時間概念に相当する。
(「ドゥルーズの哲学原理(3)――思考と主体性――」國分功一郎

 ジャパニメーション史における実践的な「時間イメージ」の導入運動としては山下清悟らによる「タイムライン系作画」を挙げることができるだろう。
山下清悟と平川哲生の対談「作画の時間、演出の時間、絶望の時間」から、松本憲生の作画を読み解いている箇所を引用してみよう。

山下  『灰羽連盟』第8話を見ましょう。この子供たちの動きは、3コマ全原画です。手前のフレーム・アウトする男の子の足が、どういうステップを踏んでるかわからないんですよね。足の軌道が見えない。
平川  ふつうの原画みたいに、足が接地して、かかとが上って、離れる、という順序を追ってない。分析的には描いてないね。
山下  実写映像の時間軸をコマ落しで見たときに、そこにされているであろうポーズを3コマごとに原画にする、という描き方。
平川  これがいわゆるタイムライン系ってやつか。たとえばディズニー作画は、なめらかな絵のつながりはあるけど、時間は見えてこない、と。
山下  ほかにも金田系とか、今石洋之さんの作画は、かっこいいポーズやフォルムで止めるためのコマ落しで、時間感覚ではないです。
平川  ざっと分類してみると、今石洋之さんの3コマ全原画は、かっこいいポーズやフォルムで止めるためのコマ落し作画。磯光雄さんの3コマ全原画は、スケジュールの許す範囲で原画の密度を高めて動きをコントロールする作画。松本憲生さんの3コマ全原画は、実写映像のコマ落しを再現する作画。

 若干の解説が必要だろう。例えば金田系や今石洋之に見られる「分析系作画」とは、要は視聴者が一番気持ちが良くなるようなタイミングを(詰めたり引き伸ばしたりしながら)調整してタイムシートに落としこむ手法であり、あえて音楽理論下へのアナロジーを試みるなら、カデンツにおけるドミナント(緊張)からトニック(緊張の解決)へのコード移行と相似である。ヘーゲル的に言うなら、「否定」→「止揚否定の否定)」という弁証法的なダイナミズムによって前へ前へと押し出すようにして運動を駆動させるという、言うまでもなく近代的なモデルによって支えられている。もちろんここにおいては「時間」は「運動」から事後的に見出されるものであり、せいぜい二次的なものでしかない。それに対して、「タイムライン系作画」はクロノス的な「時間」をベースにしており、「時間」は「運動」から完全に自律してそれ自体として流れ続ける。ドゥルーズがいみじくも云ったように、つまり、「運動が時間に従属している」。ここには純然な「時間イメージ」の現前がある。しかし、上述のドゥルーズ「シネマ」の要約でもわかるように、「時間イメージ」はカント的な時間概念であると云っており、無論カントは哲学におけるモダニズムの創始者とみなされている。なるほど確かにクロノスな単線的時間概念は近代的であり、そのような観点からすれば「タイムライン系作画」は近代主義を脱していないとのそしりは免れ難い。だが、ここで私が試みたいのは、「モダニズム」や「ポストモダン」等の情勢的かつ党派的な区分を貫く「純粋持続」の概念の提示であり、この立場からすれば「モダン」と「ポストモダン」の二分法は大した意味をなさないことをお断りしておく。
 やや逸脱するが、3コマ全原画であるタイムライン系作画によって複雑なリズム操作が失われてしまったと嘆かれる向きには、お望みなら現代ジャパニメーションにおける複雑なステップを参考までに紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=Q23-05ZARw0=movie
上の動画の2秒~20秒間に見られるキャラクターの複雑な横揺れのステップは、その適度な脱力加減から見ても極めて黒人的といえる。アニメーター田中宏紀の描く原画には、このような横揺れのステップと肩の関節が外れたような脱力が散見され、それ自体として見ても興味深く示唆に富んでいる*6。このような黒人的な横揺れのリズムは、他にも野中正幸や濱口明など20代前半の若手アニメーターにも見られ、ヲタ芸の単純な縦ノリリズムへの黒人的感性からのアゲインストとして、今後も注目に値する。むろん、無限に微分可能な「純粋持続」がスクリーンに通底しているからこそ、これらの複雑な黒人的リズムを自由に配分しアレンジメントすることができるのであって、決して逆ではないことを改めて強調する必要があるだろうか。*7

                  ∴(補論)

 場における「純粋持続」、そのようなものがあるとしたら。 「ゆるゆり」というセカイ系アニメと「Aチャンネル」という日常系アニメの違いについてという記事で検討したことがあるのでやや重複になるが、ゆるゆりセカイ系アニメにおける「フラグメント化した場」に代わって、Aチャンネルのような「持続した場」が現れ始めているように思われる。例えば、ゆるゆり最終話のBパートは、すべてが舞台という名のスクリーン上で展開されており、「空間性」が慎重に排除されている。同じように、ゆるゆりの聖地=舞台は富山県の高岡という一応の設定だが、キャラが富山県のど田舎を歩いてたと思ったら次の瞬間には吉祥寺にワープしているなどといったことが平気で起こる。このような空間を無視したワープは、キャラが全能性と超越性によって支えられていることを図らずも意味している。これに対し「Aチャンネル」では、キャラクターはちゃんと交通機関を使って持続した場所から場所へ移動する。ここに見られるのは、「ゆるゆり」のような神性と超越性の断念であり、精神分析のタームを使えば「去勢」を経ていることを示している。以上のことから、「Aチャンネル」には場における「純粋持続」が存在していることがわかる。
 場における「純粋持続」は日常系アニメによく見られる印象を受ける。スクリーン内に現れた持続的な空間=聖地は、現実における「秋葉原」という特権的な聖地を相対化させ、複数化させる効果があるのではないか。現に、「国立」や「京都」、「鷲宮神社」など、新たな聖地は日本の至るところに現れている。アニメで町おこしという思想には必ずしも首肯しかねるが、それでも画一化した平板な地方や郊外から新たなカルチャーが生まれ出てくる契機にもなるのではないかと秘かに期待している。

*1:もう一人、ポストモダン作家を挙げるとするならば犬星をおいて他にいないだろう。彼女(?)の代表作「月見荘のあかり」は従来のいわゆる「ハーレムもの」を反転させた「逆ハーレムもの」であり、イケメンの男主人公が複数人出てくる代わりにヒロインは一人しか出てこない。必然、使用者は「どの男主人公に同一化すればいいのか」というパラドックスに直面し、自我の乖離と拡散が起こる。「特権的な一人の男主人公」というファルス的な構造を脱中心化し、多元的かつポリフォニックな読みを読者に向けて押し開くことを可能にしている、という意味で稀有な作品といえよう。

*2:「末期の眼」川端康成

*3:参考資料[http://www.nicovideo.jp/watch/sm5371606]

*4:このような論調は往々にして、虫プロが創始した省略化システムが日本のアニメの質を低落させた、というような巷に蔓延っているイデオロギーと結びつくことは言うまでもない

*5:「映画狂人」蓮實重彦

*6:参考例として[http://www.youtube.com/watch?v=_oDUVNyyL10=movie]における58秒から1分1秒のカット

*7:身体の弛緩とそれに伴う横揺れのステップ、これは以前の記事に書いた記号の弛緩化とパラレルな現象である。弛緩。それはそこから逸脱し再びそこへ戻っていく力をも含んでいる。パラノとスキゾの間を自在に往還する平衡感覚。ダンスをすること。パラダイス・ガレージは<魔界>ではなかったか?ラリー・レヴァンはまさしく「そこ」に住んでいたのだ。これらは比喩ではない。なるほど確かに馬込村時代の川端康成萩原朔太郎夫妻が主催するダンスパーティーの誘いにも乗らず一人自室に篭って小説を書いてた。しかし川端はまさしく原稿用紙の上でダンスをしていたのだ、黒人のダンスを。