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アニメーションにおける記号の問題

田中:ある作品で、キャラの鼻の下に必ず2段影がついてるのが気になって、作監の人に聞いたんですけど、「じゃあ、アオリの時は? 影無いと鼻に見えないよ」って言われたりして。俺は「光源が変わったら、(鼻の下に)影がなくたっていいじゃん」って普通に思ったんですけど……。その頃はみんな、画面の中の光源とか関係なく、ここは絶対に影がつく、というかなり強引な、判子のような記号で画面を作ってましたよね。誰かの作った記号を真似して、さらにまた真似て、装飾して、もう誰も、この鼻の横の線が何を意味してるのか解らない、という(笑)。動きに関しても、歩きは中5枚、走りは中2枚で腕を振り上げてこういうポーズでっていう、がちがちのセオリーがあった。ビックリする動きは必ず一度縮んでから、とかね。悪い意味での紋切り型ってやつですね。
 とにかく、もっと画面の中に本当に生きた世界があるようにしたい、っていう欲求が強烈にありましたね。情感、空気感みたいな事がやりたいテーマだったんで、そこがクリアできないと話にならないんで。それは、必ずしも実写のトレスという事ではなくて、頭の中を1回通り過ぎてきたもの、やっぱりどこか「マンガ」ではあってくれないと気持ち良くないんですよね。みんなそうだと思うんですけど。俺は、リアリティってのはジャンプする為の道具だと思うんで。だから、「マンガ=記号」って事で言えば、現実を見て、もう一度その記号を作り直したいって事ですね。「再記号化」って俺は言ってたんですけど。
「WEBアニメスタイル 田中達之インタビュー 」

 上で語られているような、要するにキャラクターの記号化、と同時にその記号の体系化とアーカイブ化を最初にジャパニメーションに導入したのは言うまでもなく手塚治虫である*1。そしてこれもまた言うまでもなく手塚治虫は漫画家である。本来静的な漫画に適応されていた記号化という表現技法が動的なアニメーションに流入される、という事態に不可避的に伴うジレンマを、60年代以降の日本アニメは生き抜いた。その生き抜いていく過程において、記号がアニメーションという運動イメージの中で記号から逸脱していく、記号が溶解していく過程が生まれた。云ってみれば、手塚以降の日本のアニメの歴史とは、漫画的な記号の脱構築化の歴史でもあった、といえるのではないか。上の田中達之の「再記号化」というタームも、マンガ的記号を脱構築する試みの一形態に他ならない。田中は、記号を徹底的に運動イメージの中に置いて考えたのだ。それは画面を「本当に生きた世界」として考えることでもあった。といってもそれは記号の完全なる排除を意味しない。そうではなく、記号を生成的に捉えること、運動と生成の中で、記号が自壊しながら変容していく臨界点を直接的に掴み取り、それを画面に素直に写生することを意味していた。
 本来静的な記号が動的なイメージの中で自己を保てなくなり溶解していく、という事態の例を、私たちは例えば大平晋也のアニメーションに最も顕著に見出すことができるだろう。しかし大平や田中のようなアート方向に偏ったスタイルに限らず、普段大量生産されている商業アニメにおいても、記号の「揺らぎ」は常に見出すことができる。例として挙げる以下の画像はNARUTOにおける山下清悟の作画の1コマを抜き出したものである。もちろんこれを単なる作画崩壊と受け取るか記号の「脱構築」や「揺らぎ」と受け取るかは見る者次第ではあるのだが。*2
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*1:ここではいちいちアニメの通史を振り返る作業をしないが、おおよその概略だけ触れれば、60年代に設立された手塚治虫による虫プロダクションが、それまでのディズニー的なフルコマ、フルアニメーションアニメを否定し、3コマ打ちやリミテッドアニメーションの導入という徹底的な作画上の経済合理化を図り、このときキャラクターの徹底的な記号化も先の作画上の合理化の一貫として導入され、それが現在までジャパニメーションにおける主調低音として(良くも悪くも、また程度の差こそあれ)作用している、というのが私なりの大雑把な国内アニメ史観である(参考文献:「作画汗まみれ」大塚康生

*2:個人的には動いている画面として見たときはさほどの違和感を感じなかった。この辺りにアニメーションにおける本質がありそうではある