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焼夷弾の燃えかす

 植草甚一の1945年5月23日の日記の引用から始めてみたい。

二十五、六日頃に空襲があるという専らの風評も馬耳東風、ところが一時半から三時半にかけて、大分やって来て、だいぶ焼夷弾を落としたが、僕は往来で約十キ撃墜キを見た、一所懸命で見た、新宿附近が危ない、自宅の近所も危ない、山王ホテルが燃えた、三時四十分頃歩いて出かける。赤坂などの火勢をながめ、紀伊国坂で焼夷弾のもえかすを拾う。
植草甚一日記」

 異様、である。何が異様、ではない。すべてが異様である。焼夷弾が投下されている中いつもの日課である散歩に出かけ、火勢をながめながら、ふと道端に落ちていた焼夷弾のもえかすを拾ってみる。ここには、普段と変わらない日常の持続しかない。なので正確を期していえば、植草本人からしてみれば、異様なことは何一つとしてない、だからこそ異様なのである。このテクストから受け取る、取り付く島もない、読み手を突き放すような印象は、植草の時局やイデオロギーに対する徹底的な無関心に起因するだけではないように思われる。もちろん日記という形態に依るところもあるだろうが、ここでは無関心どころか、感情の一切が慎重に捨象されている。そして最後に残ったのは、焼夷弾の燃えかすの「手触り」だけであった。

 樫村晴香は「ドゥルーズのどこが間違っているか?」という卓越した論文において、ニーチェの交換不可能―共有不可能な特異的―1回的な体験としての「強度」(病)を、安易に一般的な概念‐隠喩的な回路に還元したとして、ドゥルーズを批判している。氏の議論の当否を問うことは差し当たって問題ではない。しかし、ニーチェのテクストの内に、既に一般化―概念化への欲望を駆動する誘引のようなものがあって、それが常に読者に働きかけているとしたら、概念化の非をドゥルーズだけに押し付けるのはやや酷とは云えないか。そうでなければ、ニーチェの真意――後に云うようにこれが曲者なのだが――を理解していないのにも関わらず彼を礼賛する転移者(例えばナチスや最近では「超訳 ニーチェの言葉」ブーム)が、あれほど大量に現れるはずがないではないか。もちろん、ニーチェ自身はこのことに自覚的だったのである。そうでなければ、下のような文章を書くはずがない。

 じっさい、忠告しておくが、さっさと俺から離れろ!俺に抵抗しろ!いや、もっといいのは、ツァラトゥストラのことを恥ずかしいと思え!もしかしたらお前たちは欺かれたのかもしれないのだ。
 ツァラトゥストラを信じているのです、と言うのか?だがツァラトゥストラに何の価値がある?お前たちは俺の信者だ。だが信者に何の価値がある?
(「ツァラトゥストラニーチェ 丘沢静也訳)

 このような叫びを発せずにはおれなかったニーチェの心中を慮ると絶句するほかなくなる。更にはこのテクストの文意――抵抗しろ――をこのテクスト自体に適用するとなると、なおさらに。ニーチェは端的に、「俺を理解するな」と言っている。しかし例えば、「この文章を理解するな」という文章を前にしたとき、読み手は一体どうすればいいのであろうか。ここには、もはや言語の限界にまで突き当り、ほとんど失語するしかないような領域にまで追い込まれたニーチェ(と読者)の姿がある。しかし大抵の読者=転移者は、ニーチェのテクストとそのように向き合うことはなかった。だから、やはり彼も敗北したのである。

 ニーチェは自分のテクストの転移作用に自覚的であったが、小林秀雄となるとそれすらも怪しくなる。彼の、果てには読者を戦争にまで動員するほどの強力な転移作用は、ニーチェと同じく彼の思想からすれば全く以て逆説的というか皮肉的としか云いようがなかった。

 俺は自分の感受性の独特な動きだけに誠実でありさえすればと希っていた。希っていたというより寧ろそう強いられていたのだ。文字通り強いられていたのだ。強いられているだけで俺には充分だった。……ただ明瞭なものは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。
(「Xへの手紙」小林秀雄

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものになれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を換言すれば、人は種々な事実を発見する事は出来るが、発見した事実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り、人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。
(「様々なる意匠)小林秀雄

 小林秀雄は他者と共有不可能―交換不可能な「強いられるもの」に行き当たった。それはニーチェ的に云えば「強度」であり、小林秀雄の言葉で云えば「宿命」であった。しかし奇妙ではないか。他者に共有不可能―交換不可能な経験をテクストに書くこととは、端的に云えば他者に「伝わらない」ことが前提になっていなければならない。しかし実際には伝わった。伝わってしまったのである。おそらくは、共有不可能な経験を、共有することが目的である言語によって表出することに内在する必然的な矛盾であり帰結なのであろう。しかし、小林秀雄ニーチェのように読者を突き放すことはしなかった。云ってみれば、懐柔して、抱き抱えた。徹底的に甘やかした。なので、「強いられるもの」は、「宿命」は、容易に一般化され、概念化された。それは最終的には読者の責任である。しかし、小林秀雄の戦略にも、やはりどこかしらの限界がなかったか。
 小林秀雄は、やはり他者を軽んじていた、いや、もっと云えば見えていなかった。小林秀雄の転移者――大多数の読者――は、一言で云えば小林秀雄の鏡像的な、想像的な他者であり、小林本人も、そのような転移者との想像的な関係の中で安住していた節がなかったか。

 植草甚一の言い知れぬ身も蓋も無さは言語に対する態度にも起因しているように思われる。以下は「植草甚一年譜」の1936年の項からの引用――大谷能生植草甚一の勉強」からの孫引きであるが――である。

ニ・二六事件の朝が忘れられませんね。東宝に溜池の家から歩いて行ったとき、ずーっと積雪のなかに、いくつも砂嚢を置いて兵隊が伏した構えで鉄砲を持っている。それが、とてもいい景色になっているのでした。

「「二・ニ六事件」という大騒動に対して<とてもいい景色になっているのでした>とだけ語る植草甚一のシカトぶりにはあらためて驚かされる」と大谷能生も述べているように、ここには読者が植草に転移――同一化――する余地がまったくない。「とってもいい景色」というチープすぎる言語選択の前で、読者は徹底的に書き手から突き放される。植草には、読者が同一化するための内面が、まったく無いかのようだ。はっきり云おう、植草甚一は、言語をまったく信用していない。言語に同一化することを拒否している。ニーチェのように、言語表現のジレンマの中で失語的な叫びに陥ることも、小林秀雄のように、想像的な他者との間で言語を共有することも等しく拒否した。植草は、言葉を、抽象的な共有観念としてではなく、手触りがあり鼻を近づければ臭いがし、強く叩けば壊れるような、そのような交換不可能な一回性の単なる「物」として扱った。しかし、そこには本質的な抜き差しならなさが伴っている。道端で拾った焼夷弾の燃えかす、その燃えかすの「手触り」だけが、彼にとっては総てであった。