カリフォルニア・イデオロギー、インターネット、天皇

 今日び抽象的な「国家」という概念をポジティブに定義付けようなんて思想的試みが流行らないのもグローバリズムが世界を覆い尽くしている現状を鑑みれば当然だ。しかし国家という概念がいくら希薄化しても排外主義が無くなるわけではないしむしろ逆説的なことに排外主義は過激化していく一方であることも今更云うまでもない。ポジティブな「国家」概念が失効したところでは排外主義によってしか、言い換えれば「…でない」というネガティブな定義付けによってしか(「日本人」は外国人ではない…、「日本」は外国人がいる場所ではない…etc.)「国家」という概念を保ち得ないのだ。
 このような排外主義によるネガティブな国家の定義付けは日本においてはもちろんグローバリゼーションに依るところも大きいだろうが、しかしその根底にはおそらく敗戦後の象徴天皇制に遠因があるように思える。
 象徴としての「天皇」は、ポジティブな定義を欠いている、云ってみれば欠如体としてしか指し示し得ない。しかしだからこそ台風の目の如く、言い換えればファルスのシニフィアンとして働く。しかし、このファルスを(国民が)獲得することによってある剰余、ある残余が不可避的に生じるのもまた同時だ。これがいわゆる欲望の原因としての対象aである。そしてこの空無としての剰余を覆い隠すスクリーンとしての機能を果たすのが「空想」(ラカンのマテームでは◇と表す)である。しかしなぜファルスの獲得とそれによって生産される剰余(と空想)が排外主義を生み出すのであろうか。この点について例えばジジェクは次のように書いている。

 反ユダヤ主義はまた、ラカンが「汝何を欲するか」という問いを示す曲線の端に空想の公式(/S◇対象a)を置いた理由を、完璧に例証している。空想は、この「汝何を欲するか」という問いにたいする一つの答えなのであり、問いの裂け目を答えで満たそうとする試みなのである。反ユダヤ主義の場合、「ユダヤ人は何を欲するのか」という問いにたいする答えは「ユダヤの陰謀」、すなわち舞台裏で糸を引き、出来事を操る、ユダヤ人の神秘的な力である。ここで理論的に明らかにしておかねばならない重要な点は、空想は一つの構成物として、すなわち、<他者>の欲望の開口部である空無をみたす想像的なシナリオとして、機能するということである。
(「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク

 「ユダヤ人」という単語を「韓国人」や「中国人」に置き換えればそのまま日本の事例に適用できるだろうが、ここで注目すべきなのは上で見たような、天皇の象徴化=ファルス化とそれを排外主義という空想によって支える、という戦後民主主義体制によって構築された否定神学的なシステムが逆説的なことに現代のネット右翼の生産基盤になっている、という点である。そもそもインターネットと右翼という組み合わせ自体が矛盾以外の何物でもない。周知のようにインターネットの思想的起源は60年代におけるアメリカ西海岸のカウンターカルチャーにまで遡ることができる。そういう意味ではインターネットとは非常に左翼的だと云うことができる。しかし驚くべきことに、ここにもやはり「空想」によって支えられた否定神学システムが見出されるのだ。

 リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンの分析によれば、ネットをめぐりいま流通している言説の中心には、ひとつのイデオロギー、アメリカ西海岸に由来する「カリフォルニア・イデオロギー」が存在する。そのイデオロギーは、新右翼新左翼、ヤッピー的起業精神とヒッピー的な反体制意識、市場資本主義と共同体主義という本来ならば対立するはずの政治的契機を、「新しい情報テクノロジーが社会的解放をもたらす可能性への深い信仰」により止揚するものである。
 (……)この過程は裏返せば、1970年代以降の世界において、「情報テクノロジー」のイメージが、なによりもまず現実の敵対関係を想像的に止揚し、かつそれを覆い隠す装置、ラカン派精神分析で「幻想」(=「空想」:引用者註)と呼ばれるものとして機能したことを示している。そこでは、バークリーの死者に象徴されるもの、つまり1960年代的な政治文化運動の失速と行き詰まりという外傷(現実的なもの)が、幻想を要請したと考えられる。
(「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」東浩紀

 上の引用文では書かれていないが、カリフォルニア・イデオロギーという「空想」によっても(反ユダヤ主義の場合のように)何かが排外=疎外されているのではないだろうか。この空想によって疎外されたもの、それはインターネットというウェブ空間そのものに他ならないと私は考える。ウェブ空間、それは何処にもない空間である、であるからこそ此処にはない場所として、此処から常に既に疎外された場所として、いわば彼岸の場所として、眼の前に現前し続ける*1
 戦後民主主義もカリフォルニア・イデオロギーも空想によって支えられた否定神学システムを共通項として持っている。そして両者が一致したところにネット右翼が台頭するのだ(余談だが在特会は日本における右翼版ニューエイジ運動のように(内気な青年が会に入ってから一転活動的になる等の事例を聞くにつけ)私には思われる。積極的な定義付けが不可能になった時代において、それでも消極的に「私」を定義付けようという涙ぐましい自己啓発的な戦略がそこでは採られている)。
 このような排外的否定神学システムを超克するにはどうすればいいのか。結論から云えば、天皇を欠如としてではなく肯定性として、つまり国家元首として定義し直すこと、これである。日本国憲法の、「象徴」という、極めて抽象的かつ消極的な規定は、満ち足りた積極的な規定に取って代わられなければならない。そしてそこにこそ、全く新しい「日本」という国家の概念が立ち現れるのだ。否定神学ではなく肯定の哲学をこそ今の日本には求められている。

*1:いうまでもなくこの疎外を可能にする役割を果たすのがスクリーンという装置である。ウェブ空間はスクリーンの向こう側=彼岸に排除=疎外される。ウェブ空間は疎外されることによってはじめて「空間」足り得る、そのような逆説的空間といえる(追記:2013年1月9日)