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「ゆるゆり」というセカイ系アニメと「Aチャンネル」という日常系アニメの違いについて

 「ゆるゆり」の聖地をネットで調べてて思ったけどこのアニメは聖地が日本各地に分散し過ぎではないだろうか。一応「ゆるゆり」の舞台は富山県の高岡らしいけど、回ごとに背景が千葉県になったり吉祥寺(!)になったりするようだし。この意味で「ゆるゆり」というアニメはまったく土着的でないといえる。ゆるゆりにおける土地という要素は徹底的に匿名的であり固有名の抹殺の上に成り立っている。交換可能な土地、という要素だけ見るとこのアニメは日常系というよりはどちらかと云うとセカイ系に近いように思える。といってもこういう議論は「日常系」や「セカイ系」という言葉の定義に依るところ大なのでやっぱり自分なりの(かなり自分勝手な)日常系とセカイ系の定義を予め提示しておいたほうが良さそうではある。
 自分なりにセカイ系を勝手に再定義するなら、「土地の匿名性」、「土地の交換可能性」、「(土地)の固有名の欠如」等の要素に分解してみたくなる(といってもこれもかなり一面的なのは確かだけど、とりあえず今はキャラや物語の要素は脇に置いておく)。日常系はこれの逆を行く。つまり、「土地の固有性」、「土地の交換不可能性(土着性)」、「(土地の)固有名の復権」等々。
 固有名の抹殺、つまり現今のセカイ系の構造のプロトタイプを生み出した作品は国木田独歩の「忘れえぬ人々」である。例えば柄谷行人はこの作品について次のように云っている。

ここで、主人公の大津は、亀屋という旅宿で知り合った秋山という男に「忘れえぬ人々」について語る。「忘れえぬ人々」とは、忘れてはならないような重要な人々のことではなくて、無意味などうでもいいようなものでありながら忘れられない人々のことである。それは人々というよりも、「風景」である。
 (……)風景には「固有名」がない。確かに国木田独歩は「武蔵野」という名の風景を描いた。しかし、彼がそうしたのは、名のある風景(名所)に対して、名もない風景をはじめて描こうとしたからであって、それが武蔵野と呼ばれる土地だったからではない。
(「村上春樹の「風景」」柄谷行人

 土地の固有名に関しても同じである。土地の固有名を排除したところにはじめて「風景」が見出される。「ゆるゆり」がひたすら描き続ける牧歌的な(何処にでもある)田舎の「風景」は、土地の固有名の排除の上にはじめて成り立ち得るのである。(いちおう補足しておくと土地の固有名の排除は作品内に固有名が現れないということを意味しない。むしろ逆に、「ゆるゆり」では高岡という固有名が(例えば1期の7話で)はっきりと出ている。しかしこれはセカイ系のもうひとりの生みの親である村上春樹の作品に固有名が頻出するのと同じである)
 然るに例えば「Aチャンネル」というアニメは全く以て日常系である。このアニメには土地の固有名は(ゆるゆりと違って)一回も出てこないが、しかしそこに打ち出されているのは過剰なローカル性と土着性なのだ。「Aチャンネル」の舞台は周知のように国立近辺であり、そこ以外はない。つまり「ゆるゆり」のように聖地が分散しておらず、言い換えれば遊星的、グローバル的ではなく、極めて土着的、農民的であるといえる。現実の地図にキャラクター達の行動可能範囲を当てはめて聖地を配分している、という意味で農民的なのだ。ここにはハイデガー的な意味での「生活」や「大地」のテーマが見られる(大体、多摩都市モノレールではなく京王線というチョイスがまた渋いではないか、完全に主観的ではあるけれど)。もちろん「ゆるゆり」のような牧歌的な「風景」はこのアニメには見られない。しかし、立川の高島屋に二次元美少女たちがお買い物に出かけるアニメが観られるようになるとはゼロ年代の頃には(個人的には)思ってもいなかった。逆に、セカイ系によって抹殺された固有名が土地の土着性というテーマによって復権しつつあることを最近になって強く感じるようになっている。抽象的な「他所」ではない、特異な「ここ」性だけが、その土地に名前を戻してやることができるのだ。
 おそらくはこの土着性や農民性というテーマを最初に打ち出したのは意外にも「クラナド」ではないかと思われる。この作品は周知のように、ひとつの町そのものを総体として描き出すことに物語の力点を置いている、という点でkeyの前作までの(セカイ系の)作品との間に決定的な断絶線がある。「クラナド」に見られるのは徹底的な土着性とローカル性である(そういえば東浩紀もどこかでクラナドにおける保守性、ヤンキー性を強調していた)。この意味で、「クラナド」は日常系の元祖なのだ。
 
 追記:後で色々調べたら「Aチャンネル」にも一部中野や武蔵小山のカットが入ってるようですね…(江ノ島は話の流れ的に問題なしとする)。