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大文字の他者

ラカンから影響を受けたジジェクもそのジジェクから影響を受けた(と思われる)大澤真幸も結局彼らの思想は次の一言で要約できるかと思われる。すなわち、「我々は神亡き後の科学的で合理的な近代の時代を生きているが、それでも無意識のうちでは神を信じている。」と。その神とは言うまでもなく「大文字の他者」、大澤真幸の言葉でいえば「第三者の審級」のことだ。大文字の他者とは経験的な他者ではない、超越論的な他者のことである。経験的な他者とは一人、二人、もしくはAさん、Bさんと数えることができる他者のことであり、超越論的な他者とはそれとは違い、一人、二人、と数えることができるために常に既に前提とされていなければならないような他者のことである。言ってみれば、私たちの何らかの発話はすべて超越論的な他者の存在を前提としている。私たちはふだん経験的な他者、たとえば目の前のAさんに向けて話しているようで、同時に(無意識下では)超越論的な他者に向けても話している、ということだ。ラカンは、手紙は常に宛先に届くと言っている。ここでの宛先とは、もちろん経験的な他者ではなく超越論的な他者、<大文字の他者>のことを言っている。
このジジェク大澤真幸の思想を簡単に紹介してくれるアニメが先日最終回を迎えた「魔法少女まどかマギカ」だ。(ここからネタバレ)最終回において主人公の少女=まどかは世界と同一化する決断をくだす。つまりまどかは経験的な他者であることをやめ、経験的な他者を成り立たせるための土台、つまり世界の土台、世界の「存在」そのものになることを選択する。これが超越論的な他者、言ってみれば<神>のことだ。まどかは実体を捨て(「女は存在しない」)、世界を成り立たせる超越論的な地平となる。
話は変わるが、大文字の他者の享楽とは女性の享楽のことである。「女は存在しない(少なくとも経験世界では)」という形で存在するまどかの享楽は、大文字の他者の享楽であり(ハイデガー的に言えば)純粋な存在論的享楽と言ってもいいかもしれない。