日記7 (2015.11.28)

2015年11月28日

 コミックLO2016年1月号所収の町田ひらく『紙の襞』のストーリーをここでわざわざ要約するつもりはないし、『紙の襞』というタイトルの元ネタは果たして『紙の月』だろうかそれともサルバドール・プラセンシアの『紙の民』だろうか、といった野暮な推測もここでは措く。
 作家が自身の娘をモデルにしたエロリ漫画を描いていたところ、娘が父親を誘惑し出して父親の欲望が現実化してしまう、という、この作品の最初と最後だけ取り出してみれば、これは他のLO作品にもよく見られるありふれた図式になるだろうが、『紙の襞』にあっては父親と娘を媒介する「読者」という第三項が導入されていることで、それまで見られなかったかつてない広がりのあるパースペクティブを保持しているように思われる。
 編集者が付けた「不条理は父から娘に。そして娘から父へ。」というコピーに正しく表されているように、この作品の主要テーマは<業>と<欲望>、そして<不条理>の流れとやり取りだが、作品中の父であるエロリ漫画家が明らかに町田ひらく本人を思わせる名前と作風であったり、先ほど述べた「読者」という媒介項が介在することによって話はさほど単純ではないことになっている。試しに本作における<業>=<欲望>の流れを図式化してみると大体以下のようになるだろう。

父親=町田ひらく ⇒ 作品(フィクション内の娘) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく

 しかし上の形式自体が『紙の襞』という町田ひらくによる作品=フィクションそのものだとすると、上の図式すべてを「作品」という巨大な括弧でくくる必要性があるかもしれない。つまり、上の図式内の「作品」の項に上の図式すべてを再帰的に代入しなければならない。

父親=町田ひらく ⇒ 『紙の襞』(父親=町田ひらく ⇒ 『紙の襞』(……) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく) ⇒ 読者 ⇒ 娘 ⇒ 父親=町田ひらく

 かくして、『紙の襞』は終わりなき自己言及的な再帰運動に繰り込まれていく。まあ、もちろん作中で町田ひらくを思わせる作家が描いてる漫画が『紙の襞』であるとは特に明示されていないし上図のようなボルヘス的なフィードバック・ループは自分が勝手に妄想したことに過ぎない……。しかしそのような誤読を無視しても、この作品が、読者に向けて、つまりは外の世界に向けて開かれた極めて批評的な(ということは町田ひらく的な問題意識に貫かれた)メタフィクション・エロリ漫画であることに違いはない。本当に、同じ号に載っているクジラックスの作品がただの露悪的で少しスキャンダラスなだけの(というかエロリ漫画でニコ生を題材にすること自体散々やり尽くされている)くだらない児戯に見えてしまう程の傑作なのだ。ということをとにかく言いたいし、それ以外にこの日記で取り立てて書くことなど特にない。こんなくだらない文章を読むくらいなら今すぐ書店に走ってコミックLOを手に取り『紙の襞』を読むべきだ*1

*1:もちろん2016年11月時点での話なのでもはや店頭には並んでいない

日記6 (2015.11.26)

2015年11月26日

 またブックオフで本やCDを適当に売って作った金で立川シネマシティの『ガールズ&パンツァー 劇場版』極上爆音上映に行く。
 ガルパン劇場版極爆上映、とにかく素晴らしいの一言に尽きる。思えばアニメ作品での立川シネマシティ極爆上映は初めて観たが、劇場の音響面ではマッドマックス極爆上映以上に台詞の音量と効果音の音量調整の振り幅が大きい。恐らくこれはアニメ声優の声の音域が通常より高いため実写映画よりも台詞の音量を抑えているのだろうと思われる。作画面では吉田亘良が日常シーンのかなりのパートを担当しているようで、1カットに十数人のキャラクターが同時に出てきてもまったく線が溶けないのはさすがとしか言いようが無い。恐らく、最初に大きい原画シートに作画してその後デジタル処理で縮小しているのだろうが、アイドルマスターなんちゃらとかいう、1カットに4人以上のキャラクターが出てきた時点で線が溶けてしまうようなアニメとは比較すらできない(もちろん、アイマス総作画監督松尾祐輔氏を責めていのではない。『ヤマノススメ』という天才的な仕事を成し遂げた松尾氏がアイマスで充分な仕事ができなかったのはA1ピクチャーというスタジオの体質に責があると見なすべきだろう)。
 だがガルパン劇場版の真の本質性は、ミリオタに媚を売らないやりたい放題に滅茶苦茶やってる戦車コンバットでも良質な作画でも音響でも実はない。ガルパンとはまず何よりも優れた閉所/密室フェティシズム・アニメであり、このことを措いてガルパンを語ることは何も語っていないことに等しい。戦車の狭い操縦室に少女が3人も4人も"みっしり"詰め込まれて各々が一生懸命に何かやっている=作業している、というあまりにも官能的かつフェティッシュすぎるシチュエーション(この意味において戦車は「兵器」ではなく「工場」として立ち現れる)を発明した、このことだけでもガルパンはアニメ史における一大革命であり事件なのだ。見てみるがいい、ガルパンにおける戦車の室内シーンのレイアウトの見事さを。狭い空間というのはそれだけでもアニメーターのレイアウト力が如実に試されるものだが、ガルパンは戦車の内部という閉所空間を様々なカメラの角度から自在に構築し、さらにそこに3人以上ものキャラクターを無駄なく効果的に配置するという完璧すぎるレイアウトをいとも簡単にこなしているのである。これだけでもガルパンの閉所フェティシズムに対する”こだわり”が伺えるというものだが、しかしガルパンの閉所フェティシズム描写は何も戦車の内部だけで完結しているわけではない。映画中盤、主人公たちが疎開(?)した山林の学校での日常シーン、風紀委員の少女3人が放送室の畳一畳分くらいしか無さそうな狭い空間内に布団を敷いて”みっしり”とお互いが抱き合うように寝ているカットを見たとき、「うわ、ヤッバ~……」と思わず声に出して言ってしまった(どうでもいいけどこのカットを見たときポン・ジュノ監督の『ほえる犬は噛まない』のワンシーンを思い出した)。それまであくまで戦車内部という建前が存在していた閉所フェティシズム性が、ここではあまりにもあからさまに、かつ分かりやすい形で暴力的に爆発している。正直、このカットのレイアウトはここ数年見たアニメの中でも群を抜いてるのではないかと思われるくらい素晴らしくかつ強烈でありまた官能的であった。
 ガルパンにおける「閉所」への志向、それは例えばキャラクターの人数が異常に多いのも1つの画面になるべく多くのキャラクターを詰め込もうという倒錯した意志によるものだろうし、戦車の内部が閉鎖的な箱庭なら画面という四角く縁取られたフレームも同様に閉所フェティシスト達にとっては彼らの欲望を叶える格好の箱庭なのだ。

日記5 (2015.11.11)

2015年11月11日

 三宅唱監督の『THE COCKPIT』はそもそも「クリエイションとは何か」というテーマのドキュメンタリーでもあるので必然的にメタフィクショナルな構造を持っているのだが、とはいえ単純なメタフィクションともいえない「複雑さ」があると思う。例えば『THE COCKPIT』中に現れる箱というイメージが持つミクロコスモス的な性格一つを取ってもこの作品が生半可なドキュメンタリーではないということがわかる。以下では『THE COCKPIT』におけるメタフィクショナル構造を分析するために、主に作品中に出てくるナイキの箱とアパートの一室という箱、さらに『THE COCKPIT』自体という作品=箱、という三つの箱を俎上に載せて構造分析する。
 まずこのドキュメンタリーはOMSBらがアパートの一室に入ってくるシーンから始まり、フィックスされたカメラの前でOMSBが即興的にひたすらトラックを制作する。二日目にOMSBとbimが部屋に転がってたナイキの空箱を使ってルールから何まで即興的にその場で作り上げてゲームをする。その後そのゲームを元にしたリリックを書いて、レコーディング作業して楽曲が完成して終わる。ただこれだけの内容であるが、詳しく見ると意外なほどに厳密な照応関係がこのドキュメンタリーの基底部を律していることがわかる。
 まず、ナイキの箱の上で作られ繰り広げられるブリコラージュ的な遊戯の過程を説明したものが彼らのリリックの内容であり、というよりナイキの箱での遊戯それ自体が彼らにおけるアパートの一室の中での楽曲制作の過程や性質をトレースしているという意味でこれら二つの間には明らかな照応関係がある。さらに、彼らの楽曲制作の過程が、この『THE COCKPIT』というドキュメンタリー自体の制作過程やスタンスをトレースしている側面を持っているということは、パンフレットに書かれた松井宏による「製作ノート」を読めば明らかだ。

 編集作業はトータルで8~9ヶ月ほど。もちろんそのあいだ三宅はさまざま別の仕事もしているから、実質的な作業時間はもっと短い。時間が空けば彼の家にしょっちゅう自転車で行き、一緒にモニターを見続けた。ときに三宅が作業するかたわらで、ぼくは別の仕事をしたり、漫画を読んだり、ちょっかいを出してみたり、あるいはそこに鈴木や別の人間がいたり…。『THE COCKPIT』と同じだ。

 すなわち、ここにもある照応関係がある。ナイキの箱のゲームは彼らの楽曲制作を照らし、彼らの楽曲制作はこの映画、すなわち『THE COCKPIT』の制作過程を照らす、という三重の照応関係である。逆から見れば、『THE COCKPIT』という箱の中に彼らのアパートの一室=「コクピット」という箱があり、さらにそのアパートの一室という箱の中にナイキの箱がある、という風なマトリョーシカ的な入れ子構造をイメージすることもできる。
 それではこの『THE COCKPIT』という箱も何かに包摂されるのか、だとすれば何に包摂されるのか。恐らく何にも包摂されない。その代わり、スクリーンという鏡面を軸にして観客である我々が存在する「劇場」というもう一つの箱を鏡像的に照らし出す。アパートの一室=箱を見渡せて、目の前にOMSBが向かい合わせになるような位置にフィックスされたカメラは、鏡合わせのようにして向こう側の箱を見せると同時に、こちら側の箱にいる我々の存在をも意識させる。つまり、『THE COCKPIT』はその中にアパートの一室やナイキの箱などをマトリョーシカのように包含するが、この『THE COCKPIT』というミクロコスモス的な箱自体はスクリーンを軸にして「劇場」という箱と並列的に存在している。