日記5 (2015.11.11)

2015年11月11日

 三宅唱監督の『THE COCKPIT』はそもそも「クリエイションとは何か」というテーマのドキュメンタリーでもあるので必然的にメタフィクショナルな構造を持っているのだが、とはいえ単純なメタフィクションともいえない「複雑さ」があると思う。例えば『THE COCKPIT』中に現れる箱というイメージが持つミクロコスモス的な性格一つを取ってもこの作品が生半可なドキュメンタリーではないということがわかる。以下では『THE COCKPIT』におけるメタフィクショナル構造を分析するために、主に作品中に出てくるナイキの箱とアパートの一室という箱、さらに『THE COCKPIT』自体という作品=箱、という三つの箱を俎上に載せて構造分析する。
 まずこのドキュメンタリーはOMSBらがアパートの一室に入ってくるシーンから始まり、フィックスされたカメラの前でOMSBが即興的にひたすらトラックを制作する。二日目にOMSBとbimが部屋に転がってたナイキの空箱を使ってルールから何まで即興的にその場で作り上げてゲームをする。その後そのゲームを元にしたリリックを書いて、レコーディング作業して楽曲が完成して終わる。ただこれだけの内容であるが、詳しく見ると意外なほどに厳密な照応関係がこのドキュメンタリーの基底部を律していることがわかる。
 まず、ナイキの箱の上で作られ繰り広げられるブリコラージュ的な遊戯の過程を説明したものが彼らのリリックの内容であり、というよりナイキの箱での遊戯それ自体が彼らにおけるアパートの一室の中での楽曲制作の過程や性質をトレースしているという意味でこれら二つの間には明らかな照応関係がある。さらに、彼らの楽曲制作の過程が、この『THE COCKPIT』というドキュメンタリー自体の制作過程やスタンスをトレースしている側面を持っているということは、パンフレットに書かれた松井宏による「製作ノート」を読めば明らかだ。

 編集作業はトータルで8~9ヶ月ほど。もちろんそのあいだ三宅はさまざま別の仕事もしているから、実質的な作業時間はもっと短い。時間が空けば彼の家にしょっちゅう自転車で行き、一緒にモニターを見続けた。ときに三宅が作業するかたわらで、ぼくは別の仕事をしたり、漫画を読んだり、ちょっかいを出してみたり、あるいはそこに鈴木や別の人間がいたり…。『THE COCKPIT』と同じだ。

 すなわち、ここにもある照応関係がある。ナイキの箱のゲームは彼らの楽曲制作を照らし、彼らの楽曲制作はこの映画、すなわち『THE COCKPIT』の制作過程を照らす、という三重の照応関係である。逆から見れば、『THE COCKPIT』という箱の中に彼らのアパートの一室=「コクピット」という箱があり、さらにそのアパートの一室という箱の中にナイキの箱がある、という風なマトリョーシカ的な入れ子構造をイメージすることもできる。
 それではこの『THE COCKPIT』という箱も何かに包摂されるのか、だとすれば何に包摂されるのか。恐らく何にも包摂されない。その代わり、スクリーンという鏡面を軸にして観客である我々が存在する「劇場」というもう一つの箱を鏡像的に照らし出す。アパートの一室=箱を見渡せて、目の前にOMSBが向かい合わせになるような位置にフィックスされたカメラは、鏡合わせのようにして向こう側の箱を見せると同時に、こちら側の箱にいる我々の存在をも意識させる。つまり、『THE COCKPIT』はその中にアパートの一室やナイキの箱などをマトリョーシカのように包含するが、この『THE COCKPIT』というミクロコスモス的な箱自体はスクリーンを軸にして「劇場」という箱と並列的に存在している。

日記4 (2015.11.2)

2015年11月2日

 鬱で何もできず雨も降っているため一日中在宅。シュリヒテ・シュタインヘイガー(ドイツ産の安物ジン)をテイスティンググラスに注ぎそこにアンゴスチュラ・ビターズを数滴垂らして飲む。まるでバーボンみたいな色になるがこれがとても美味しい。後はエチラームを舐めながら『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』をぼんやりと眺めて過ごす。伝説通り(?)ドゥルーズの指の爪がとても伸びていることを確認。
 『アベセデール』の中の「O(オペラ)」のチャプターで、少しだけフーコーに触れられる箇所がある。曰く、フーコーは音楽と親密に関わっていたが、それは彼の書物に書かれることはなく、秘密にされていた、と。フーコーバイロイト音楽祭に赴くなど音楽の世界と近かったにも関わらず、それを語ることはほとんどしなかった。確かにフーコーを読んでいても音楽について言及されることは稀に思える。
 個人的にフーコーと音楽との関わりで思い出されるのは、1975年にフーコーカリフォルニアはデスヴァレーのザブリツキー・ポント展望台で、LSDを服用しながらシュトックハウゼンの『コンタクテ』をポータブルのテープレコーダーで聴いていたというエピソードだ。

二時間後、シュトックハウゼンの音楽に耳を傾けザブリツキー・ポイントの高みから宙を見つめながら、フーコーは笑みを浮かべ、そして、のちのウェイド(引用者注:同行した歴史学の教授)の回想によれば、星に向かって手を伸ばした。彼は言った、「空が炸裂した、そして星がぼくのからだに雨のように降り注いでくる。これは真実じゃないとぼくにはわかっている、けれどそれは<真実=真理>なんだ」。
フーコーは黙ってしまった。
大思想家の頭が、サルヴァトール・ダリの描く時計のひとつさながらに、まだ溶けてしまってはいないことにおそらく安堵してか、ウェイドは古代シュメール人のあいだでの幻覚薬の使用についてべらべらしゃべり続けた。彼もまた、ついにふたたび黙りこんだ。
三人は頭上の真っ暗な天空を見つめた。背後では電子音楽が滝のように流れている。
(『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』ジェイムズ・ミラー 邦訳261ページ)

 今この文章を書きながらクセナキスの『ペルセポリス』という、恐らくこの世で最初に作曲されたレイヴ・ミュージックを流している。この曲は実際に1971年にペルセポリス遺跡にて日没後に初演されたという歴史を持っている。会場に設置された100台のスピーカーから轟音ノイズが放射され、張り巡らされたレーザー光線が遺跡を照らし出す中、トーチライトを持った子どもたちが列を作って練り歩く。本来のレイヴ・ミュージックとはこのような一大スペクタクルではなかったか。レイヴとは何よりもまず、空に向けて、宇宙に向けて、音楽を放出することによって宇宙と大地とを有機的に結びつける祭典として登場した。そして恐らくフーコーも、シュトックハウゼンの『コンタクテ』をデスヴァレーと降り注ぐ星空のスペクタクルの只中でLSDとともに聴くことによって、大地と宇宙を身体的に結びつけたのだった。これこそまさしくレイヴ的体験なのではないだろうか。

日記3 (2015.10.30)

2015年10月30日

 シャマランという偉大な「天然」を前にどのような批評をしたところで「天然」といういかなる批評をも飲み込みかねないブラックホールを前には無力なのではないか、というシャマラン映画に向き合った時に常に覚える諦念感。今作においてもPOVやスリラーを脱構築しようなどという賢しらな意気込みは一切感じられない。肝心のオチも、オチとすら呼べないような本当に無意味などんでん返し。しかし『サイン』に見られたようなオフビート(という形容も正確なのか定かでないが)な感性が好きな向きには『ヴィジット』は文句なしにお勧めできるくらいこの作品でのシャマランはボケ倒している。この「ボケ」というのはウィットでもなければヒューモアでもアイロニーでもない、まさしく天然のみに特権的に許された「ボケ」としかいいようのないものであり、シャマランを「天才」でも「奇才」でもなく「天然」監督と形容したくなる理由はここにある。
 とにかく『ヴィジット』はとても変な映画でシャマランは本当に何も考えずに好き勝手に撮った可能性もあるが、この作品にテーマと呼べるものが存在するととりあえず仮定するなら、「本物」と「偽物」、そして両者を取り巻く「許し」という三本柱のテーマを取り出すことができると思う。「本物」と「偽物」についてはネタバレが絡んでくるのでここでは「許し」のテーマについて主に論じる。まずこの映画には主人公兄妹とその母と祖父母という血の繋がった三つの組が出てくる。この兄妹/母/祖父母という三代に跨る構造の中でとある「許し」が受け渡されるのだが、シャマランはどういうわけかラストでこの構造を脱臼させてしまう(ここで「本物」と「偽物」というネタバレ的テーマが絡んでくるのだが)。この構造の脱臼によって兄妹/母/祖父母という三つの層は厚みを失われ薄っぺらになり、さらに「許し」の受け渡しも(原理上は)なし崩し的に不可能になってしまう(ここらへん、ネタバレを避けて説明するのが難しいのだが)。しかし、実際はどういうわけか「許し」の受け渡しは(事実上は)成されているのであり、ここがこの映画の凄いところ(であると同時に釈然としないところ)と言えるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、物語の中盤、主人公の姉は祖母から母がかつて行ったある罪に対する「許し」を引き出す。この時点で「許し」が祖母から孫へと受け渡されているのだが、オチを知った後だとこの「許し」の引き出しは原理上あり得ないことがわかる。しかし映画上では実際に「許し」の引き出しが行われている。この矛盾的事態をどのように説明するか。ここで重要な鍵となるのが主人公の姉が言う「万能薬」という言葉である。彼女の言う<万能薬>とは相手から「許し」を引き出す上での話法上のとあるレトリックのことであり、そのレトリックとは一言でいえばある固有の出来事を一般的かつ普遍的な出来事に置換することでありもっと言えば神話化でありフィクション化である(「あるところに女の人がいました…」)。そのようなフィクション化を行った上で相手にも同じフィクションを共有させ「許し」を引き出す(「あなたがもしそのような立場だったらどうしますか?…」)。この<万能薬>によって主人公は見事に祖母から「許し」を引き出すことに成功する。
 ここにはもしかしたらシャマランの、映画を含めた総てのフィクションに対するある種の態度表明があるのかもしれない。つまり、フィクションを通じて人は何かに対して「許し」を与えることができるし、もしくは「許し」を受け取ることができるかもしれない、ということである。もちろんシャマランはそんなことをまったく考えていない可能性もある(なにせ天然だし)。が、そのようなメッセージをこの映画から図らずも受け取ってしまった以上、私はこの映画に1800円払ったことに対してシャマランを「許す」ことができる、と言えなければならない。