日記4 (2015.11.2)

2015年11月2日

 鬱で何もできず雨も降っているため一日中在宅。シュリヒテ・シュタインヘイガー(ドイツ産の安物ジン)をテイスティンググラスに注ぎそこにアンゴスチュラ・ビターズを数滴垂らして飲む。まるでバーボンみたいな色になるがこれがとても美味しい。後はエチラームを舐めながら『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』をぼんやりと眺めて過ごす。伝説通り(?)ドゥルーズの指の爪がとても伸びていることを確認。
 『アベセデール』の中の「O(オペラ)」のチャプターで、少しだけフーコーに触れられる箇所がある。曰く、フーコーは音楽と親密に関わっていたが、それは彼の書物に書かれることはなく、秘密にされていた、と。フーコーバイロイト音楽祭に赴くなど音楽の世界と近かったにも関わらず、それを語ることはほとんどしなかった。確かにフーコーを読んでいても音楽について言及されることは稀に思える。
 個人的にフーコーと音楽との関わりで思い出されるのは、1975年にフーコーカリフォルニアはデスヴァレーのザブリツキー・ポント展望台で、LSDを服用しながらシュトックハウゼンの『コンタクテ』をポータブルのテープレコーダーで聴いていたというエピソードだ。

二時間後、シュトックハウゼンの音楽に耳を傾けザブリツキー・ポイントの高みから宙を見つめながら、フーコーは笑みを浮かべ、そして、のちのウェイド(引用者注:同行した歴史学の教授)の回想によれば、星に向かって手を伸ばした。彼は言った、「空が炸裂した、そして星がぼくのからだに雨のように降り注いでくる。これは真実じゃないとぼくにはわかっている、けれどそれは<真実=真理>なんだ」。
フーコーは黙ってしまった。
大思想家の頭が、サルヴァトール・ダリの描く時計のひとつさながらに、まだ溶けてしまってはいないことにおそらく安堵してか、ウェイドは古代シュメール人のあいだでの幻覚薬の使用についてべらべらしゃべり続けた。彼もまた、ついにふたたび黙りこんだ。
三人は頭上の真っ暗な天空を見つめた。背後では電子音楽が滝のように流れている。
(『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』ジェイムズ・ミラー 邦訳261ページ)

 今この文章を書きながらクセナキスの『ペルセポリス』という、恐らくこの世で最初に作曲されたレイヴ・ミュージックを流している。この曲は実際に1971年にペルセポリス遺跡にて日没後に初演されたという歴史を持っている。会場に設置された100台のスピーカーから轟音ノイズが放射され、張り巡らされたレーザー光線が遺跡を照らし出す中、トーチライトを持った子どもたちが列を作って練り歩く。本来のレイヴ・ミュージックとはこのような一大スペクタクルではなかったか。レイヴとは何よりもまず、空に向けて、宇宙に向けて、音楽を放出することによって宇宙と大地とを有機的に結びつける祭典として登場した。そして恐らくフーコーも、シュトックハウゼンの『コンタクテ』をデスヴァレーと降り注ぐ星空のスペクタクルの只中でLSDとともに聴くことによって、大地と宇宙を身体的に結びつけたのだった。これこそまさしくレイヴ的体験なのではないだろうか。

日記3 (2015.10.30)

2015年10月30日

 シャマランという偉大な「天然」を前にどのような批評をしたところで「天然」といういかなる批評をも飲み込みかねないブラックホールを前には無力なのではないか、というシャマラン映画に向き合った時に常に覚える諦念感。今作においてもPOVやスリラーを脱構築しようなどという賢しらな意気込みは一切感じられない。肝心のオチも、オチとすら呼べないような本当に無意味などんでん返し。しかし『サイン』に見られたようなオフビート(という形容も正確なのか定かでないが)な感性が好きな向きには『ヴィジット』は文句なしにお勧めできるくらいこの作品でのシャマランはボケ倒している。この「ボケ」というのはウィットでもなければヒューモアでもアイロニーでもない、まさしく天然のみに特権的に許された「ボケ」としかいいようのないものであり、シャマランを「天才」でも「奇才」でもなく「天然」監督と形容したくなる理由はここにある。
 とにかく『ヴィジット』はとても変な映画でシャマランは本当に何も考えずに好き勝手に撮った可能性もあるが、この作品にテーマと呼べるものが存在するととりあえず仮定するなら、「本物」と「偽物」、そして両者を取り巻く「許し」という三本柱のテーマを取り出すことができると思う。「本物」と「偽物」についてはネタバレが絡んでくるのでここでは「許し」のテーマについて主に論じる。まずこの映画には主人公兄妹とその母と祖父母という血の繋がった三つの組が出てくる。この兄妹/母/祖父母という三代に跨る構造の中でとある「許し」が受け渡されるのだが、シャマランはどういうわけかラストでこの構造を脱臼させてしまう(ここで「本物」と「偽物」というネタバレ的テーマが絡んでくるのだが)。この構造の脱臼によって兄妹/母/祖父母という三つの層は厚みを失われ薄っぺらになり、さらに「許し」の受け渡しも(原理上は)なし崩し的に不可能になってしまう(ここらへん、ネタバレを避けて説明するのが難しいのだが)。しかし、実際はどういうわけか「許し」の受け渡しは(事実上は)成されているのであり、ここがこの映画の凄いところ(であると同時に釈然としないところ)と言えるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、物語の中盤、主人公の姉は祖母から母がかつて行ったある罪に対する「許し」を引き出す。この時点で「許し」が祖母から孫へと受け渡されているのだが、オチを知った後だとこの「許し」の引き出しは原理上あり得ないことがわかる。しかし映画上では実際に「許し」の引き出しが行われている。この矛盾的事態をどのように説明するか。ここで重要な鍵となるのが主人公の姉が言う「万能薬」という言葉である。彼女の言う<万能薬>とは相手から「許し」を引き出す上での話法上のとあるレトリックのことであり、そのレトリックとは一言でいえばある固有の出来事を一般的かつ普遍的な出来事に置換することでありもっと言えば神話化でありフィクション化である(「あるところに女の人がいました…」)。そのようなフィクション化を行った上で相手にも同じフィクションを共有させ「許し」を引き出す(「あなたがもしそのような立場だったらどうしますか?…」)。この<万能薬>によって主人公は見事に祖母から「許し」を引き出すことに成功する。
 ここにはもしかしたらシャマランの、映画を含めた総てのフィクションに対するある種の態度表明があるのかもしれない。つまり、フィクションを通じて人は何かに対して「許し」を与えることができるし、もしくは「許し」を受け取ることができるかもしれない、ということである。もちろんシャマランはそんなことをまったく考えていない可能性もある(なにせ天然だし)。が、そのようなメッセージをこの映画から図らずも受け取ってしまった以上、私はこの映画に1800円払ったことに対してシャマランを「許す」ことができる、と言えなければならない。

日記2 (2015.10.1)

2015年10月1日

 雨がっぱ少女群の新刊『熱少女』を読み返すごとに、LO作家の中に雨がっぱ少女群ほど自身の中に葛藤と分裂を抱えながらもその分裂を半端な誤魔化しと共に統合せず分裂を分裂のまま生き抜いている作家が他にいるだろうかという思いが強くなる。雨がっぱ少女群が最初に世に送り出した大傑作『小指でかきまぜて』では葛藤も分裂も存在していなかった。しかし二冊目の単行本『あったかく、して』の時点で、自身の作家性とLO的萌えとの間での葛藤と分裂がすでに顕在化している。そこでは、町田ひらくフォロワー的な劇画タッチの作品といかにもLO的な記号的萌えエロリ漫画タッチの作品が奇妙にも混在している。これは単なる過渡期とかではなく、LO編集部からの抑圧が働いていて、そのことによって作家の中に分裂と葛藤を生み出したと考える方が自然である。それにしても、『真夜中の妹』や『家庭菜園』、『夕蝉のささやき』などの雨がっぱ少女群の面目躍如といえる大傑作を軒並み単行本の後ろに回して『パジャマパーティー』といった明らかに弛緩したLO迎合的な作品を巻頭に持ってくるLO編集部の作家性をまったく解さない(というより作家を食い潰す)愚鈍な感性には驚嘆するしかない。恐らくこのようなLO編集部による抑圧的で愚鈍な神経によって、雨がっぱ少女群は「何を描けばいいのか分からなくなった」と言って(『少女熱』p.79)、7年に渡る休筆期間に入るわけである。この、「描けない」という葛藤は、例えば町田ひらくのような少女に対する捻れた葛藤ではまったくなく、もっと即物的であると同時に抜き差しならない葛藤である。現に町田ひらくは初期から作風を変えることもなく、また(今のところ)変える必要にも迫られないので今もコンスタントにLO誌上に作品を掲載している。そういう意味では町田ひらくは幸福な作家である。雨がっぱ少女群の葛藤は「描く」ことを巡る、より根源的なものであり、それがゆえに彼の作品群を読む読者の視点は、その作品をまさしく筆先で「描いた」であろう作家本人の「葛藤」に常に差し戻されるのである。というかそのような視点を持ち得ない読者は端的に雨がっぱ少女群の作品群を評する資格を持たない。
 『あったかく、して』によって顕在化した葛藤と分裂は、原作者を伴った新刊『少女熱』で統合されるどころか、より深刻に、そして苛烈になっている。というもの、それまではあくまで作品間にとどまっていた葛藤と分裂は、『少女熱』ではもはや作品内部にまで侵食しているからである。そこでは一つの作品の中で、本来の雨がっぱ少女群の作風である劇画チックな作画とLO的な萌えエロリ漫画風の作画が混在しており、端的に言って非常に不安定かつ乖離した世界を形成している。例えば『博士の異常な欲情』では途中から明らかに画風が変容していくのだが、その変容が原作のストーリー(非常に稚拙でくだらない原作)上の必然とか要請によるものではまったくなく、はっきり言えば完全にストーリーから作画だけ遊離、というか乖離してしまっている。しかし雨がっぱ少女群がかつて持っていた苛烈な作家性が顔を覗かせるのもこのような瞬間なのである。すなわち、『少女熱』においては、分裂や乖離そのものが雨がっぱ少女群の作品の実存を形作っているとも言える。『少女熱』という題名はある意味で適切であった。『少女熱』においては雨がっぱ少女群が抑圧していた自分本来の作家性が一瞬亀裂から湧き上がるマグマのように顔を覗かせるのであり、そのとき読者はもはや自分がLO的萌えという微温的な空間に安住していないことを悟るのだ。